佐藤優を斬る──なぜ佐藤優はデタラメな議論をしているのに評価が高いのか

皆様は佐藤優という人物をご存じでしょうか。

読書家の方、北方領土問題や日露外交に関心のある方、鈴木宗男事件を覚えておられる方はご存じかもしれませんね。以前は外交官として、現在は著述家として活動している人物です。この記事は、そんな佐藤優の議論に潜む思考法と知識のデタラメさを批判しようというものです。

佐藤優は、大学卒業後に外務省に入って対ロシア(当時ソ連)外交官となりました。一時期は政治家の鈴木宗男と連携して北方領土問題に取りくんでいましたが、鈴木宗男事件に伴って背任容疑で逮捕されました。

その後、自身の半生や事件・逮捕後の様子を『国家の罠 外務省のラスプーチンと呼ばれて』という本に書き、ベストセラー作家としてデビューします。『自壊する帝国』『獄中記』『はじめての宗教論』『私のマルクス』などの多彩な著述活動を展開しています。

私は『国家の罠』から読み始めて佐藤のファンになり、一時は彼の著作を熱心に買い漁っていたものですが、あるとき彼の思考法や著述内容のデタラメに気がつき、読むのをやめました。今ではそれでよかったと思います。

ところが、論壇やインターネットを見渡しても、佐藤優を批判する記事はほとんど見当たらない。いや、皆無ではないのですが、極めて少ないのです。

ぐらいでしょうか(佐藤優と「偏微分(笑)」・ネタふり編などの記事を書かれていたliber studiorumというブログがありましたが、現在削除されて閲覧できません)。他にもあるかもしれませんが、問題の多いことを書いている人物なのに批判の数が少ないなあと常々思っていました。

そこで今回、かつての佐藤優ファンとして、佐藤優がどういう著述家なのか、どこに問題点があるのかを説明したいと思います。

〔追記〕当記事ははてなブックマークやTwitterを通じて多くの方に読んでいただきました。その際に寄せられた反響や批判については、「佐藤優を斬る」への反響とコメントについてで述べています。

この記事の要旨

  • 佐藤優の議論のほとんどは、持ち前の知識や教養を、何の関係もない社会現象や事件と無媒介に結びつけて論じただけのデタラメである。
  • 佐藤優は議論だけではなく、その知識や教養もデタラメである。きちんと本を読んでいれば絶対にしない誤解や誤りを書いているからである。
  • 「知識の誤りは誰にでもある」「些細な誤りにすぎない」と佐藤を擁護する人が多いが、的外れな擁護である。佐藤の議論の誤りは知識ではなく思考法にあるからであり、看過できない本質的な誤りだからである。

目次

佐藤優の特徴

まず、佐藤優とはどういう人物なのでしょうか。その説明をしましょう(既に佐藤優のことをよくご存じの方は、問題点まで読み飛ばしていただいても構いません)。

佐藤優という人物は、

  1. かつて対ロシア外交官であったこと
  2. 当代屈指の知識人とみなされていること
  3. クリスチャンであること

この三つの要素から成り立っています。この三つが上手くあわさって、佐藤優という著述家の人気を支えています。

1. 佐藤優はかつて対ロシア外交官であった

佐藤優の人気の要因の一つに、かつて対ロシア外交官であったということがあります。いいかえれば、諜報(インテリジェンス)の専門家であったということです。

佐藤は既に外交官を辞めているのですが、インテリジェンス関連の著作をたくさん書いています。『インテリジェンス人間論』『インテリジェンス 武器なき戦争』は書名からしてインテリジェンスの本ですし、『インテリジェンスの極意! 』という本にも一文を寄せています。ウォルフガング・ロッツの『スパイのためのハンドブック』『シャンペン・スパイ』に推薦文まで書いています。彼が旧来日本に少なかった(?)インテリジェンスの専門家として注目を集めていることは間違いありません。

ただ、インテリジェンスの専門家であれば、佐藤以外にもいらっしゃいます。佐藤優が人気を集めるのは、別の要因があるからです。

2. 佐藤優は当代屈指の知識人とみなされている

佐藤優人気の要因は、彼がずば抜けた知識人(インテリ)である(少なくともそう見える)ことにあります。

彼は立花隆との対談を本にまとめているのですが(『ぼくらの頭脳の鍛え方』)、冒頭で蔵書は「一万五千冊」、ひと月の書籍代は「約二十万円」と凄まじいことを書いています。立花の「七、八万冊」には及びませんが、佐藤も相当な蔵書家です。

これが本当かどうかは分かりませんが、佐藤の本を読むと、確かに色々な本や人物の名前が出てくる。『獄中記』は、彼が逮捕されて512日間勾留されていたときのノートなのですが、これにはヘーゲルだのハーバーマスだのドストエフスキーだのイスラームだの『新訳聖書』だの『太平記』だのカントだのレーニンだの廣松渉だのetc.と、大量の人名・著作名が出てくる。もしこのすべてを獄中で読んでいたとすれば、確かに恐るべき知識の幅広さ、量です。

彼が評価される理由は、この読書が単なる知識ではなく、外交という実戦の場で活かされていた(らしい)ことにあるのですが、これは次で説明します。

3. 佐藤優はクリスチャンである

佐藤優は同志社大学を卒業しているのですが、学部は何と神学部なのです。同支社はクリスチャンでなくても入れるそうですが、彼は入学後にプロテスタントの洗礼を受けたらしいので、正真正銘のクリスチャンです。

法学部や経済学部ならともかく、神学部を出た人(しかもキリスト教徒)が国家公務員になるのは珍しいでしょう。ご本人も、本来外交官になるつもりなどなかったと述懐しています(『国家の罠』)。

おもしろいのは、彼が外交官になってからは神学をさっぱり忘れたわけではなく、神学を活かして外交の世界で活躍してゆく点です。『自壊する帝国』にその様子が説明されています。

佐藤はロシア(当時ソ連)の外交官になってロシアに駐在していた頃、モスクワ大学の哲学部科学的無神論学科というところに出入りしていました。この学部はソ連では大変権威のあった学部で、卒業生のほとんどがソ連共産党のイデオロギー要因や大学教員になったそうです。

彼は、学生時代にキリスト教神学をまなんだ縁で学部への出入りを許され、そこで哲学部専任講師のアレクサンドル・ポポフや哲学部の秀才サーシャ・カザコフと出会い、ソ連政界との人脈を広げたり情報を獲得してゆきます。

『自壊する帝国』の解説で、恩田陸はこのように書いています。

私が初めて佐藤氏の著作に接した『自壊する帝国』のなかで、自分の学んだ神学を基準として、ソビエトやその周辺諸国で知識人に人脈を広げていくところは痛快であった。若い時に思考の訓練をし、自分の判断基準を持っている人がいかに社会に出てからも強いかということを、私は社会人二十年目にして、改めて佐藤氏の著作から教わったのだった。

恩田のいう通り、佐藤の魅力とは、外交という政治の場において(金や権力ではなく)知識や教養を駆使して戦ってきたことにあるのです。

外交に強い政治家や教養のある知識人であれば、佐藤以外にもいらっしゃるでしょう。しかし、彼らは「日本の政治家は教養がない」だの「日本の大学教授は知識はあっても社会で役に立たない」だのいわれがちです。

ところが、佐藤は獲得した知識や教養を駆使しながら、ロシア外交という修羅場をくぐり抜けてきた。「知識・教養」に「実践的な力」の二つが揃って活躍しているわけですから、佐藤が喝采を浴びるのも当然の話です。

ちなみに、かつて「知の巨人」として君臨した(今はそうでもない)立花隆も、膨大な知識・教養を駆使して、田中角栄金脈問題やロッキード裁判・日本共産党批判といった政治の世界で活躍した人物でしたね。

邪推を覚悟でいうと、佐藤の外交話が本当かどうかは分かりません。客観的なソースが全くありませんから、全部佐藤の創作の可能性もある。ただ、私はロシア時代の外交経験だけは本当なのではないかと思っています(逆に、読書話はほとんどが嘘だと思います)。

佐藤優の問題点

知識や教養もあり、外交という現場で戦ってきた経験もある佐藤の一体何が問題だというのか? 簡単にいえば、以下の2つです。

  1. 「知識や教養」と「社会」を無媒介に接合して説明してしまうこと
  2. 思考の土台である「知識や教養」が誤解や誤りに満ちていること

1. 「知識や教養」と「社会」を無媒介に接合して説明してしまうこと

まず1番から説明しましょう。

例1: オペレーションズ・リサーチの研究者だから鳩山由紀夫は決断力がある?

以下の動画は、佐藤が講演会で鳩山由紀夫とその息子について話していたときのものです。

冒頭で、彼はこんなことをいっています。

  1. 鳩山由紀夫の息子は交通渋滞解消の問題を研究している
  2. 交通渋滞解消の研究はマルコフ連鎖(オペレーションズ・リサーチの一つ)を用いる
  3. 鳩山由紀夫自身もオペレーションズ・リサーチを研究している
  4. オペレーションズ・リサーチは意思決定において重要である
  5. よって、鳩山親子は決断力がある

私はマルコフ連鎖に詳しくありませんが、4番までは仮に認めるとしても、5番の結論が明らかにおかしいことは分かる。オペレーションズ・リサーチはあくまで意思決定のための研究であって、その研究に通じていることと、本人が意思決定が得意であることは無関係だからです(佐藤のマルコフ連鎖理解が誤りであることは、Sokalian氏の佐藤優氏の「知の欺瞞」で説明されているので、詳しくはそちらをご覧ください)。

誤解しないでいただきたいのですが、私は別に佐藤優のオペレーションズ・リサーチの知識不足を指摘したいわけではないこと。私が指摘したいのは別のことです。

注目していただきたいのは、「オペレーションズ・リサーチ」とか「マルコフ連鎖」といった知識や教養に関わる事象を説明したあと、それを「鳩山親子の意思決定」といった社会に関わる事象に無理やり繋げていることです。オペレーションズ・リサーチの研究と本人の意思決定にどのような関係があるのかを明らかにせず、知識や教養(オペレーションズ・リサーチ)ではこうだから、社会(鳩山親子)もこうであると強引に繋げてしまう。こうした「知識や教養」と「社会」を無媒介に接合するアナロジーを覚えておいてください。

例2: キリスト教では神と人間が交わるから非ユークリッド幾何学では平行線が交わる?

今度は別の動画を挙げましょう。ジュンク堂で「危機神学入門」というテーマでトークショーをやっていたときの動画です。

43:06から数学の平行線にまつわる話が出てくるのですが、これについて佐藤はとんでもないことを喋っています。

  1. ユークリッド幾何学では平行線は交わらないが、非ユークリッド幾何学では交わる
  2. ユダヤ教やイスラム教では人間と神は交わらないが、キリスト教では交わる
  3. 非ユークリッド幾何学を考案したのはリーマンである
  4. リーマンはプロテスタントの牧師であった
  5. よって、キリスト教徒であるリーマンが非ユークリッド幾何学を考案したのは必然である

これがいかにいい加減な議論であるか、前の鳩山親子の話よりも分かりやすいでしょう。「幾何学」と「宗教」、「平行線」と「人間・神」という全く別の事象を、「交わる」という一点だけで繋げてしまい、リーマンの研究はキリスト教由来なのだと説明してしまう。幾何学ではこうで、キリスト教もこうであるから、リーマンもこうである。鳩山親子とオペレーションズ・リサーチをくっつけた議論と全く同じであることが分かるかと思います。

〔追記〕オウム真理教に関連して:20120617 へのコメント。では、イスラム数学者のウマル・ハイヤームの発見が非ユークリッド幾何学に影響を与えていることを指摘し、佐藤の意見を「暴論」と批判しています。

なお、この動画の41:18でも、14~15世紀のキリスト教界と現代の日本の政界を繋ぐというむちゃな議論を展開しています。

  1. 三人のローマ教皇は、キリスト教徒のヤン・フスに身の安全の約束をしたが、実際にはフスは安全ではなかった
  2. なぜなら、三人のローマ教皇は約束をしたが、「約束を守る」という約束はしていないからである
  3. 日本民主党は約束をしたが、「約束を守る」という約束はしていない
  4. よって、三人のローマ教皇と日本民主党の政治家は同じである

佐藤の議論は、ほとんどがこうした無媒介な接合から成り立っています。冷静に考えればおかしいことは分かるのですが、「マルコフ連鎖」とか「非ユークリッド幾何学」とか「ローマ教皇」いった一見教養じみた概念を使って説明しているだけに、何となく深い考察をしているように見えてしまう。佐藤の議論は、社会を分析するにあたって、難しい概念や知識を持ち出してアナロジーで考えるというやり方なので、難しい概念や知識に騙されなければ、そのおかしさに簡単に気づきます。

ただ、これだけなら佐藤の議論が粗雑というだけの話です。悪質なのは、佐藤が単に知識や教養を現代社会と繋げているだけではなく、知識を曲解し、恣意的な形で繋げることによって自分の主張を補強していることにあります。

例えば、『ぼくらの頭脳の鍛え方』で酒井順子『負け犬の遠吠え』と中村うさぎ『愛と資本主義』を推薦してこんなことを書いています。

三十以上、独身、子なしの女性は、全て負け犬で、それ以外の女性はすべて勝ち組であるという定義を導入し、同一律・矛盾律・排中律を見事に駆使して完璧な論理を打ち立てる。論理とは何であるかを知るためにも重要な本。(pp.81-82)

すべてが貨幣に変換される新自由主義的資本主義の恐ろしさがわかる。マルクスの『資本論』第一巻(岩波文庫の第一~三分冊)とあわせて読むと、中村氏が『資本論』の論理を実証していることがよくわかる。(p.273)

「同一律・矛盾律・排中律」とか「新自由主義」とか、本に書いてもいないことをあげつらってベタ褒めしています。さすがにおかしいと感じる読者もいるようで、「とてつもない買いかぶり、作者自身が考えたことすらなさそうな意図(笑)まで無理やり読み取ってしまうやり方は、いかがなものか」と書かれている方もいらっしゃいます(前原政之氏の「mm(ミリメートル)」というブログの佐藤優『功利主義者の読書術』)。

特定の本を異常に過大評価するのは佐藤の特徴ですが、これを見て「佐藤は酒井や中村のファンなのか?」とか「さすが佐藤さんは一般人にはできない深読みができるのだな」と思ってはいけません。これは、佐藤が自説を補強するための手口なのです。

佐藤優ファンの方はご存じかと思いますが、新自由主義は、佐藤が処女作『国家の罠』以来一貫して批判し続けているものです。また、「同一律・矛盾律・排中律」といった論理学の原則は、佐藤が一貫して重要視しているものです(佐藤優 日本の論理、そして思想を斬るでは、日本人外交官には「論理」が欠けていると批判しています)。

つまり、佐藤が本を紹介して「完璧な論理」とか「新自由主義的資本主義の恐ろしさ」とか過大評価するのは、自説の補強のためなのです。『愛と資本主義』に全く書かれていない新自由主義批判を読み取り、それを述べた本だと紹介することによって、自分の新自由主義批判も補強されるというわけです(余談ですが、綿谷りさ『夢を与える』を紹介したときも、佐藤は新自由主義批判に繋げていました)。

ここで本を変えて、『獄中記』からいくつか本の紹介文を引用しましょう。

週末にハーバーマスの『認識と関心』を二五〇頁程読み進めました。客観的認識などというものはそもそも存在せず、まず、「認識を導く関心(利害)」があり、そこから事実の断片をつなぎ合わせて「物語」を作っていくのが、近代的人間の認識構造であるということを、(中略)見事にまとめあげています。特捜部の手法を理論的に解明するうえで最良の参考書と思います。(p.75)

国策捜査の本質を捉えるにあたっても、案外、このような神学的知識(引用者注……神学論争では、正しい理屈の側が敗れることがあるということ)が役に立ちます。理屈の上では正しくとも敗れることは、それほど珍しくありません。(p.138)

理論面を重視する顕教とともに呪術的な密教が並立し、対立しているというのも、ロシア課(顕教)とわれわれ特命チーム(密教)の対立のようでとても面白いです。当然、密教の方が政治との結びつきを強めるわけです。(p.166)

『太平記』を読んでいて気付いた他の興味深い点は、日本が中華(中国)文化圏の辺境に位置しているのだということです。(中略)最近の日本のデフレ現象にしても、大きな流れとしてみるならば、日本が中華文化圏に再併合されていく過程なのかもしれません。(pp.171-172)

お分かりかと思いますが、「ハーバーマス」と「特捜部」、「神学論争」と「国策捜査」、「顕教と密教」と「ロシア課と特命チーム」、『太平記』と現代日本を、わずかな共通点を見出しては無理やり接合させるという手口です。そして、こうした紹介はすべて「特捜部」「国策捜査」「現代日本」批判という佐藤の自説補強に繋がっているのです。

もちろん、知識や教養を現代社会に当てはめることが悪いわけではありません。「神学論争」の知識を元に、「国策捜査」を読み解くこともできるかもしれない。しかし、佐藤が両者の共通点として挙げているのは、「正しい理屈の側が敗れる」というたったそれだけなのです。それなら「神学論争」以外の論争でも見られることであって、「神学論争」に限定する必要はない。

佐藤は知識人には珍しくキリスト教神学に詳しい人であり、『はじめての宗教論』では「神学は役に立つ」なんて書いていますが、彼のいう「役に立つ」とはこの程度のレベルです。わずかな類似点を見出すことによって現代社会を読み解いたつもりになって、「神学は役に立つ」といっているにすぎません。

〔2014年9月13日追記〕この箇所について質問を頂きましたので補足しますと、私は神学自体が役に立たないとは考えていません。詳しくはコメントに対する返信を参照。

2. 思考の土台である「知識や教養」が誤解や誤りに満ちていること

佐藤優は議論の仕方だけでなく、その知識も嘘に満ちています。きちんと本を読んだなら絶対にしないような誤解を平気で書いているからです。

例1: ゲーデルの不完全性定理により物理学や経済学の限界が証明された?

彼の知識や教養の怪しさを示すものとして、『ぼくらの頭脳の鍛え方』を取り上げましょう。p.256で、ゲーデルの『不完全性定理』を取り上げてこんなことを書いています

ゲーデルが、数学は自己の無矛盾性を証明できないことを証明したことによって、数学を用いる物理学、経済学などがすべてこの制約下に置かれていることを理解しておくことが重要。

「不完全性定理」はただでさえ誤解の多い定理ですが、佐藤も非常によくある誤解をしています。

まず、不完全性定理は数学全般に関する定理ではありません。「自然数論を含む帰納的に記述できる公理系」に関わる定理です。そうではない数学については関係ありません。

佐藤が「自然数論を含む帰納的に記述できる公理系」だと長いから「数学」と短縮して書いたわけではなく、「数学」全般と勘違いしていることは明らかです。というのも、不完全性定理を「数学」全般にまつわる定理だと誤解することの弊害を、『不完全性定理』訳者の林晋が「解説」で書いているからです。

実は、多くの場合、数学のある部分が不完全性定理的な現象に感染していることが判ると「それは真の数学でない」とされて、「数学の本体」から切り離されてしまう。そういう摘出手術を痛痒に感じないほど、数学は豊かなのである。

岩波文庫の『不完全性定理』は半分以上が解説で占められているので、佐藤がきちんと読んだのならこれを読み飛ばすはずがありません。佐藤が誤解している理由は、きちんと読みもせずに「不完全性定理によって数学の不完全さが証明された」というレベルの俗説を信じているからです。なお、佐藤は『ぼくらの頭脳の鍛え方』p.261で藤原正彦『国家の品格』を推薦しているのですが、その藤原も「論理に頼っていては永久に判定出来ない、ということがある。それを証明してしまったのです」などと書いています。もしかして佐藤は藤原の説明を鵜呑みにしたのでしょうか。

「数学は自己の無矛盾性を証明できないことを証明した」という説明は百歩譲って認めるとしても、「数学を用いる物理学、経済学などがすべてこの制約下に置かれている」というのは嘘がすぎるというものです。「物理学」や「経済学」の多くは、「自然数論を含む帰納的に記述できる公理系」ではない数学を用いるのですから、不完全性定理があったとしても依然として正しいままです。

例えば、アインシュタインの相対性理論はニュートン力学の不完全性を指摘しました。ただ、だからといってニュートン力学が全くだめなわけではありません。あくまで、光速とかブラックホールといった一部の条件下ではニュートン力学が破綻するということであって、一般的な物理法則の世界ではニュートン力学は十分に正しい。

なぜ急にニュートンとアインシュタインの話を始めたかというと、佐藤が全く同じことを『ぼくらの頭脳の鍛え方』p.221で述べているからです。

ニュートン的な世界観からカントは組み立てられていて、アインシュタイン以降それが限界に達してるということはその通りです。しかし、この近代は現在の宇宙観とはかけ離れたところで、ニュートン的な世界、力学的な世界の上に築かれていると思うんです。政治的な勢力均衡論も国連のメカニズムも、基本的にはいまだにカント的な世界観の上に立っています。

これは物理学の話ですが、数学に置き換えても同じことがいえる。不完全性定理によって数学の一部の不完全性が指摘されたとしても、「自然数論を含む帰納的に記述できる公理系」とは「かけ離れたところ」では、数学は十分に完全です。佐藤が自分のいっていることをきちんと理解できているならば、「数学を用いる物理学、経済学などがすべてこの制約下に置かれている」などとデマを飛ばすはずがないのですが。

ちなみに、佐藤はこの後で、我々の世界が「ニュートン的な世界」から成り立っており、カントの形而上学はニュートンを元にしているので、カント哲学を学ぶべきだなどと脈絡のないことを書いています。わずかな共通点だけで無関係な事象を繋ぐお馴染みの手口です。

例2: ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』は論理や情緒について語っている?

今度は別の例を挙げましょう。佐藤は『ぼくらの頭脳の鍛え方』p.77ではウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を推薦していますが、この本と『国家の品格』は同じテーマを扱っていると述べています。『ぼくらの頭脳の鍛え方』では詳しい説明がありませんが、『国家と神とマルクス』によれば、こういうことらしい。

さらにウィトゲンシュタインは「七 語ることのできないものごとについては、ひとは沈黙しなくてはならない」(三二頁)と述べているが、これは藤原正彦氏が『国家の品格』(新潮新書)で述べていることと同じと思う。

論理と情緒の世界をきちんと分けて、「語ることのできるものごとの世界」、つまり経済政策や外交については論理を重視し、「語ることのできないものごとの世界」、つまり情緒や文化については、一義的価値観を押し付けてはいけないということだが、(中略)

「語ることのできるものごとの世界」「語ることのできないものごとの世界」というわずかな共通点から、ウィトゲンシュタインと藤原正彦を結びつけようとしています。お決まりの手口ですが、無理がある。佐藤の『論理哲学論考』理解が間違いだからです。

ウィトゲンシュタインが『論理哲学論考』の命題七で「語ることのできないものごとについては、ひとは沈黙しなくてはならない」と書いたのは事実ですが、これは別に神秘主義とか「世の中には人間には分からないものがある」という不可知論では全くありません(「不完全性定理」同様、この命題も誤解されやすいものです)。

ウィトゲンシュタインは、「情緒や文化」は論理の限界を超えたものだとは一言も書いていません。むしろ、『論理哲学論考』の命題三・〇三で「非論理的なものなど、考えることはできない」と書いているのです。彼は、思考の限界とは論理や言語の限界であり、それを超えたものについては「ナンセンス」であるから考えることはできないし、考えてもむだだといったのです。

ところが、「論理」以外のものが存在していると考える佐藤は、ウィトゲンシュタインも同じことをいっているのだと誤解する。そして、藤原の考えをウィトゲンシュタインを援用して補強し、自分の考えが藤原と同じだから、自分の考えもウィトゲンシュタインによって補強されたと勘違いしてしまう。『論理哲学論考』をまともに読んでいれば、絶対にしないレベルの誤りです。

〔追記〕余談ですが、私は以前『論理哲学論考』を訳文を元に読解するという記事を書いたことがあります(ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』命題1~2.063を読解する)。佐藤のいい加減な解説よりも参考になる内容だと思いますので、ご興味のある方はご覧ください。

佐藤にはこんな誤りが大量にあります。彼は蔵書を「一万五千冊」と豪語しますが、そのうちきちんと読んだのは何冊なのか、正確に理解しているのは何冊なのか聞いてみたいものです。

補足しますが、『不完全性定理』や『論理哲学論考』理解が間違っているから佐藤が間違いだというわけではありません。そうではなく、佐藤が読んでもいない本を読んだふりをして紹介するという詐欺まがいの行為をしていること、誤った理解に基づいて誤ったアナロジーで結論を導いていることを批判しているのです。

もし佐藤が正しい理解を持っているなら、議論の手法(誤ったアナロジー)さえ改善すれば正しい結論を導けるようになるかもしれません。しかし、彼の理解すらも間違いなのですから、それさえもありえないのです。

なぜ佐藤優は評価されるのか

このように、佐藤優の議論の杜撰さ、知識のいい加減さは、少し注意すれば簡単に気づくレベルのものです。彼は立花隆と並んで「知の巨人」と称されていますが、実はかなりいい加減であることも立花と共通しています。

さて、そんな佐藤優ですが、なぜ評価が高いのでしょうか? 彼の誤りに気づかない読者がバカなのでしょうか?

それもあるかもしれませんが、主な原因はそうではないと思います。私の考えでは、彼が評価されるのは、読者の教養主義とスノビズムを程よく満たしてくれるからです。

昔は「教養」とか「必読書」とか色々いわれましたが、最近ではほとんどなくなりました。竹内洋『教養主義の没落』という本も出ました。もちろん完全に消滅したとはいえませんが、以前ほど教養への圧力が減ったのは確かです。

しかし、辛気臭い教養なんて身につけたいと思わない一方で、何となく頭が良くなりたい、知識を身につけたいのが一般人というもの。真面目に勉強するほどの気力はないが、何となく知識を得られるぐらいの勉強をして、頭が良い気分になりたいのです。

佐藤優の本は、こうしたニーズに見事に合致するのだと思います。先に説明した通り、佐藤の議論の手口は、数学や宗教や文学といった教養と現代社会の問題を無媒介にくっつけて論じるというものです。これを読んだ読者は、「教養を使ってそんな見方ができるのか」「役に立たないと思っていた教養にはそんな使い方があるのか」と驚く。詳しく見れば杜撰な議論であっても読者はそこまで詳しく見ませんし、読者は「学問的に正しい議論」よりも「読んでいて頭が良くなった気分になる本」が好きですから、特に気にしません。

まとめましょう。佐藤優が支持される理由とは、一見役に立たない知識や教養を使って社会を見事に分析している(ように見せる)ことによって、読者の知識欲や教養主義を満たすとともに、頭が良くなりたいというスノビズムをも満たすことにあります。

余談ですが、以前話題になった橋爪大三郎・大澤真幸『ふしぎなキリスト教』もそんな本でしたね。知識や教養と適当に結びつけて、宗教学的にはいい加減だが、読んでいると何となく頭が良くなった気になる考察を並べることによって、読者の気分をよくするというタイプの本です。佐藤は第1回 「なぜいま、キリスト教を問題にするのか。(1)」でこの本を評価していますが、クリスチャンなのにこの本を評価するあたり、彼のキリスト教理解のレベルが知れます。

佐藤優的にいえば、『ふしぎなキリスト教』が評価される日本人の「内在的論理」(佐藤がよく使う言葉です)を勉強すれば、佐藤優が多くの日本人に支持されるという「パラダイム」を学ぶことができるのでしょうね。佐藤優が批判を浴び始めたときこそが、「国策捜査」と同様のパラダイムの転換期なのです。

なお、こんな佐藤優ですが、数少ないおもしろい本があります。『国家の罠』『自壊する帝国』ですが、この二冊がおもしろいのは、佐藤流の議論が少なく、ノンフィクション的要素が強いからです。知識と教養で社会を読み解く(ように見える)佐藤の著作の中で、知識と教養があまり出てこないこの二冊がおもしろいのは皮肉な話ですね。

補足1: 佐藤優のキリスト教解説の問題点

佐藤優のいい加減な議論の弊害が最も大きいのは、実はキリスト教ではないかと思っています。彼の数学や哲学の議論の杜撰さについては色々と批判がありますし指摘する方も多いのですが、キリスト教の議論についてきちんと批判している記事を見たことがないからです。いや、正確にはいくつかあるのですが、具体的に批判しているものはめったにないのです。

https://twitter.com/suzutuki1980/status/364248309033992192

上述の『ふしぎなキリスト教』は多くの批判に晒されており、この本を擁護した佐藤優も一部で批判されているのですが(橋爪大三郎×大澤真幸『ふしぎなキリスト教』に対する批判73など)、佐藤のキリスト教解説自体を批判したものを見たことがありません。

ただ、私はキリスト教神学に精通していませんし、佐藤のキリスト教解説本すべてに目を通したわけでもありません。ですので、私でも分かるような(そしてキリスト教理解としてはかなりまずい)誤りを指摘するにとどめます。

『国家論』という佐藤の著作があります。この中でキリスト教の説明が出てくるのですが、相当怪しいことを書いています。

キリスト教というのは、教義の根本の部分がよく分からない。神様はひとつのはずなのに、父なる神と、子なる神と、精霊(ママ)なる神があるという。単一の神だけれども、三つある──一で三だと言う。これも神学的な処理は最終的には簡単です。分からないがゆえに、不合理であるがゆえに信じる。こういったかたちでカタを付けているわけです。

〔追記〕三位一体論における位格は「精霊」ではなく「聖霊」ですが、佐藤の原文は「精霊」になっています。参考までに、『国家論』p.24を画像として掲載します(赤の実線部分が「精霊」)。

佐藤優『国家論』p.24

佐藤優『国家論』p.24

キリスト教の根本教義(ドグマ)である「三位一体論」に関する解説です。佐藤はこの後で、三位一体論は「そもそもわけが分からない話」だといい、キリスト教は「根っこのところがいい加減です」といっています。

確かに、三位一体論は難解というか、合理的に解釈するのが不可能な教義です。以前「ニコニコ大百科」に「三位一体」の記事を書いたことがありますが(三位一体とは (サンミイッタイとは) [単語記事] – ニコニコ大百科)、調べていて納得のできる説明を見たことがありません。そういう意味では、「わけが分からない話」というのは分からなくもない。

しかし、三位一体論は「そもそもわけが分からない話」であっさり片付けられたわけではありません。「存在」の訳語の違い(ウーシア・ヒュポスタシス・スブスタンティア・エッセンティア。詳しくは存在の訳せない重さ参照)やギリシア定式とラテン定式の違いをめぐって、アウグスティヌスやトマス・アクィナス、ボエティウスといった数多くの思想家が議論を続けてきた教義です(佐藤がしょっちゅう引用するカール・バルトですら、三位一体論に言及しています)。そういった教義の歴史を全部吹っ飛ばして、「そもそもわけが分からない話」で片付けるのは適切な解説といえるのでしょうか。

三位一体論については仮に認めるとしても、佐藤はこの後でこんなことを書いている。こちらのほうがキリスト教理解としては問題です。

それから、神学論争では、論理整合性が高くて、知的水準が高いほうがだいたい負けます。知的水準が低くとも、時の政治権力と結託したほうが常に勝っています。(中略)

キリスト教は究極的には反知性主義です。

キリスト教は三位一体論とかいう意味不明な教義があったりと「論理整合性」が低い宗教なのだが、そういう「反知性主義」な側面がキリスト教では重要だといっているのです。

佐藤は明言していませんが、この発言の意味は恐らくこういうことです。

  1. ゲーデル『不完全性定理』によって、論理だけでは世界は解明できないことが明らかになった(知性主義への警鐘)
  2. キリスト教は「論理整合性」の低い宗教なので、論理に頼る部分が少ない(反知性主義)
  3. よって、キリスト教は反知性主義として重要である

つまり、佐藤には論理や知性に対する根強い不信感(それはただの誤解なのですが)があって、それを打破してくれるものとしてキリスト教や神学が重要だといっているのです。これは論理に対する理解として完全に誤っていますし、そういう文脈でキリスト教を評価するのも誤りでしょう。論理性が低いことを「反知性主義」とはいいませんし、キリスト教は頭の悪い宗教だといっているに等しい。

こんなのは些細な違いではないかと思われるかもしれません。確かにそうかもしれない。しかし、佐藤のキリスト教解説の厄介なところは、単に知識として間違っているだけではなく、佐藤の解説が信憑性があるものと受け取られやすいことにあります。

佐藤はプロテスタントではありますが、カルトや原理主義(ファンダメンタリズム)のような過激派ではありません。むしろ、他のキリスト教宗派を認め、仏教やユダヤ教を評価していたりと、エキュメニズム的な部分が大きい。また、キリスト教の悪い(と佐藤が思っている)ところを悪いとはっきり書きますから、読者からは「この人は過激なクリスチャンではなく、客観的なクリスチャンだ。この人なら信用できる」と思われやすい。

前述の通り、佐藤はただでさえ「元ロシア外交官」「知識人」「クリスチャン」として信用されている人物です。そんな人物がキリスト教について語っていたら、どんな怪しい解説でも(正確な知識を持つ人を除けば)信用する人が増えるのも無理はありません。

さらに厄介なのは、佐藤が正確な学術的解説を放棄して、甘い言葉を投げかけて誤ったキリスト教理解を喚起することです。

例えば、先ほど挙げた三位一体論が分かりやすい。前述のように、三位一体論は真面目に研究すると相当に難しい教義です。興味のある方は、三位一体論を解説した聖書的「三・一」論と教義の「三位一体」論との区別というページをご覧いただきたいのですが、哲学書並に理解不能な文章が並んでいます。

〔追記〕三位一体論について知りたい方は、まずニコニコ大百科をお読みになるのがよろしいかと思います。私の書いた記事ですが、三位一体とはどういうものか予備知識なしでも理解できるように書いたつもりです。

個々の思想家が三位一体をどのように捉えたかを知りたい方は、福田誠二「生命倫理とペルソナ論」(PDFファイル)12ページの「二 キリスト教神学におけるペルソナ概念」をお読みください。トマス・アクィナスの三位一体論については、飯塚知敬「神における関係について : トマス・アクィナス,『能力論』q.8,a.1」(PDFファイル)も参考になります。

三位一体論に限らず、学問というのは多かれ少なかれ難解・複雑なものです。読者が「三位一体論って何が何だか全然分からない」という場合、著者が最大限分かりやすいように説明すべきであって、「わけが分からない話」で済ませてよいはずはありません。説明する余裕がないなら、せめて「詳しくは参考書籍を参照」とでも書いておくべきでしょう。

しかし、佐藤は「おっしゃる通り、三位一体論っていい加減でむちゃくちゃでしょう? キリスト教ってそんなものばかりなんです。しかし、そんなキリスト教を知らないと現代社会は読み解けないんですよ」と優しく説明する。読者は「三位一体論が分からないのは自分が無知だからではなく、そもそも三位一体論が意味不明な説なんだ」と納得してしまう。佐藤は知識のない読者を甘い言葉で擁護し、佐藤流のいい加減な現代社会分析の世界へと誘導する。これによって、読者は何となくキリスト教を理解し、何となくキリスト教で現代社会を分析した気分になるのです。

お分かりでしょうか。佐藤優の著作で得られるのは正しいキリスト教の知識ではなく、佐藤流のキリスト教知識と、佐藤流の粗雑なキリスト教的社会分析だけです。キリスト教について正しい知識を得たい方は、まず佐藤の本を読まないことです。

補足2: なぜ佐藤優は池田大作や創価学会を絶賛するのか

佐藤が創価学会の池田大作を絶賛しているから、彼を批判している方々がいらっしゃいます。

私は創価学会について書いた彼の文章をほとんど読んでいないので、この記事で取り上げることは控えていました。が、彼がある宗教に入れこんでいることと、彼のキリスト教観に何か関係があるのではないかと思い、取り上げることにしました。

断っておきますが、佐藤の創価学会への考え方を批判するわけではありません。あくまで、彼の創価学会絶賛がどこから来ているのかを分析するつもりです。

まず、sokaodo氏「私がJR東労組と創価学会を好く理由」佐藤優Add Starや森田実氏「平和・自立・調和の日本をつくるために【194】」やrevo2009氏「佐藤優が創価学会について書いていること ケータイ投稿記事」を参考に、佐藤優の考えをまとめます。

  • 創価学会は、日露両国の国交や新自由主義の台頭の阻止において重要な役割を果たした
  • 創価学会は旧来の日本の宗教と違って、社会に対して能動的に働きかけている
  • 池田大作は悟りを開いた仏でありながら、すべての衆生を救済するために現世に生きる「菩薩」である

こうして見ると、佐藤が創価学会や池田大作を評価しているのは、「宗教でありながら現代社会と関わっている」という理由が大きいのが分かります。では、なぜ佐藤は、社会に関わろうとすることをそんなに高く評価するのでしょうか。

佐藤優ファンの方はご存じでしょうが、彼はフロマートカとカール・バルトという二人の神学者を大変に尊敬しています。佐藤によると、この二人には、キリスト教神学者でありながら宗教に閉じ籠ることなく、政治や社会に対して積極的に関与したという共通点があるらしい。私はフロマートカとバルトの著書を読んでいないので、佐藤のこの理解が正しいのかは分かりません。ただ、少なくとも佐藤は二人をそう理解しているということが重要です。

ここで、佐藤のアナロジーの手法を思い出してください。宗教者でありながら社会に積極的に関与しているという点で、池田はフロマートカやバルトと同一である……とまでは佐藤は書いていませんが、恐らく彼はそう考えていると思われます。

もっといえば、佐藤はフロマートカやバルトどころではなく、池田がキリスト教的生き方を体現していると思っているのではないか、と私は推測しています。次の動画は、前にも引用した「危機神学入門」です。

53:07以降で、佐藤はこんなことをいっています。

  • 人間の一人一人は弱いが、「他者のために生きる」という素晴らしい生き方を見ることによって、その生き方を見習うことができる
  • イエスの生き方を見た人間たちには、イエスの生き方が「伝染」した
  • 信仰とは、他者のために生きることを「伝染」させることである

このキリスト教・イエス理解が正しいか否かは、今は論じません。それよりも、「他者のために生きる」ことを「伝染」させるのが信仰だといっていることに注目してください。

前に述べた通り、佐藤は池田のことを、宗教者でありながら衆生を救う(他者のために生きる)存在だと尊敬しているわけです。佐藤の「信仰伝染説」と照らしあわせて考えると、佐藤にとって、池田大作こそがキリスト教的な「他者のために生きる」生き方の体現者ということになります。

最初これは私の邪推ではないかと思っていましたが、そうでもないようです。『聖書を読む』という本がありますが、そこで佐藤は、「パウロは池田大作みたいな人」だといっています(「池田大作はパウロみたいな人」ではなく、その逆なのが凄いですね)。創価学会を率いて社会に関わる池田と、キリスト教の基礎を築いてキリスト教を世に広めたパウロは、同じだというわけです。

「池田大作はイエスみたいな人」といわないのは、さすがの佐藤も、神であり人であるイエスと池田を同一視するのはプロテスタントとしてまずいと思ったからでしょう。しかし、2011年の「潮」という雑誌に掲載した記事で、イエスと池田を並列して語るという恐ろしいことを既にやっています。

キリスト教徒にとってイエス・キリストという名は極めて重要である。それと同じように創価学会員にとって池田大作氏の名が決定的に重要なのである。(中略)

濱野智史の本ではありませんが、そのうち佐藤が『池田大作はキリストを超えた』という本を書くのではないかと私は期待(?)しています。

佐藤優を斬る──なぜ佐藤優はデタラメな議論をしているのに評価が高いのか」への111件のフィードバック

    • > 金田一輝様
      初めまして。コメントありがとうございます。
      『国家論』の該当箇所についてですが、ここは原文でも「精霊」になっております。
      以下が原文の画像です。

      ご指摘を記事内にも記載しておきました。

      私も佐藤の著作すべてを調べてはおりませんが、検索で調べた限り、佐藤はこれ以外の文章では「聖霊」と正しく書いているようです。
      例えば、「創造論(3) 聖霊の力(1)」(下記URL)では「聖霊」になっています。
      http://webheibon.jp/blog/satomasaru/2013/05/post-58.html

      ですので、佐藤が「精霊」と勘違いしているというより、誤字や誤植の類ではないかと思っています(真実は不明ですが)。

  1. なんか、揚げ足取りの域をでない批判だな。
    キリスト教を何にもわかってないくせにね。
    よくこんなはずかしいブログ公開できるな。
    自分の無知をさらすM男子のブログだなw
    主はもっと勉強したほうがいい。
    アンチヒューマニズってわかるか?

    • > 通りすがりの貴族さん
      初めまして。コメントありがとうございます。
      この記事については批判のご意見が少なかったので、大変興味深く読ませていただきました。

      揚げ足取りの域をでない批判だな

      こういうご批判はいくつか頂いたのですが、そのすべてが
      ・なぜ佐藤優の議論手法批判が「揚げ足取り」であるといえるのか
      の理由説明を欠いたものばかりでした。通りすがりの貴族さんのご意見も、それに該当しますね。

      勘違いされている方が多いのですが、「揚げ足取り」であると指摘すること自体は、批判でも何でもありません。
      なぜ「揚げ足取り」といえるのか、なぜ本質的な議論でないといえるのかを説明できて、初めて批判として成立します。
      この点から、通りすがりの貴族さんのご意見は、批判の要件を満たさないという意味で、「揚げ足取り」以下であると思います。

      主はもっと勉強したほうがいい。

      これもよくある誤りですね。他人の知識の誤りを指摘して、それで批判をしたつもりになるというご意見です。
      ・どの点を、なぜ「勉強」したほうがよいのか
      ・それが佐藤優の議論とどのように関係するのか
      この理由説明が完全に抜け落ちているからです。

      http://bit.ly/1kHO28g
      で強調して説明したことなのですが、私は佐藤優の知識の誤り自体はそれほど批判していません。私とて間違うことはあるからです。
      それを差し置いて「勉強したほうがいい」とおっしゃるのは、私の記事を全く読んでおられないどころか、よくある俗流の佐藤批判レベルでしかありません。
      そういった俗流の批判こそ、私が最も批判する「揚げ足取り」にほかなりません。

      アンチヒューマニズってわかるか?

      アムヴィヴァレンス

      「アンチヒューマニズ」って何ですか? 「アンチヒューマニズム」の誤りではありませんか?
      原語がambivalenceなのだから「ビヴァ」が正しいのであって「ヴィヴァ」はおかしくありませんか?

      「揚げ足取り」って、こういうものだと思うんですね。議論と関係のない些末なところばかり指摘する意見。
      私の記事のどこが「揚げ足取り」であるのか、通りすがりの貴族さんのご指摘を待ちたいと思います。

  2. まあ、批判のほとんどが嫉妬からくるものだ。アムヴィヴァレンスな
    感情があるんだろーな。
    ちなみに俺は別に佐藤優を弁護してるわけではない。
    勉強不足や認識不足は公言するものではない。
    非常に恥ずかしい。

  3. 佐藤優と金田一輝様の皮膚感覚の違いがよく分かる記事ですね。
    例えば三位一体をしっかり説明しないのはいけないというあなたの主張があ
    るわけですが、佐藤優はキリスト教を虚学だという発言もしています。(どの書籍かは失念しました、すみません)つまり三位一体に関して論じることは、ドラゴンボールのベジータと魔人ブウがどっちが強いか議論することと本質的変わらないので、反知性主義だと主張しているのだと思います。
    ちなみに金田一輝様の佐藤優は時には飛躍した発言をするというのは概ね賛成です。
    ですが不完全という言葉にたいする初歩的な理解が間違っているとも思います。物理学においてニュートン力学はマクロな世界では成り立ちますが、ミクロな世界では成り立ちません。さてニュートン力学は完全なのでしょうか?、一般的なのでしょうか?、普遍的なのでしょうか?(すいませんこれは水掛け論か、揚げ足取りになるかもしれませんね、この部分は無視してくださっても結構です)
    それと池田大作がパウロと似た性質あるということがなぜ恐ろしいのか私には分かりません。
    なぜ佐藤優が池田は創価学会の会員にとって、キリスト教徒にとってのキリストと同じ精神的ポジションにあると主張することを問題視されるかも分かりません。

    • > 紳士様
      初めまして。コメントありがとうございます。
      いまいちよく分からないのですが、このコメントは金田一輝様に対して向けられたものですか? あるいは私(流星群)に対して向けられたものですか?
      この記事は金田一輝様ではなく私が書いたものですので、金田一輝様宛てでしたら宛先が違います。

      ただ、内容自体は私の記事に言及していらっしゃるようですので、コメントをしておきます。

      三位一体をしっかり説明しないのはいけない

      私は、「三位一体をしっかり説明しないのはいけない」とは書いていませんよ。説明しないならしないで問題もありません。
      三位一体を説明するにあたって、三位一体論の変遷を端折って「わけの分からない理論」で片付けるな(つまり嘘を書くな)、といっているだけです。

      三位一体に関して論じることは、ドラゴンボールのベジータと魔人ブウがどっちが強いか議論することと本質的変わらないので

      三位一体は、キリスト教以外においては「虚学」かもしれませんが(私も胡散臭いと思いますが)、キリスト教においては極めて重要な「教義」です。
      『ドラゴンボール』以外の作品においては、ベジータと魔人ブウの強弱はどうでもいいことですが、『ドラゴンボール』内においては重要です。
      というわけで、『ドラゴンボール』を引きあいに出して、三位一体が「虚学」だというのは全く説得力を持ちません。

      反知性主義だと主張しているのだと思います。

      佐藤優はそんな理由で「反知性主義」とはいっていませんよ。
      佐藤の本を読みもせずに佐藤の意見を代弁するのは問題があるかと思います。

      不完全という言葉にたいする初歩的な理解が間違っているとも思います。

      この文章は、不完全性定理に対するコメントでしょうか? でしたら意味が全く分かりません。
      私のいいたいことは極めて簡単で、佐藤の不完全性定理理解は数学的に全くの誤りであるということです。
      これは、「不完全という言葉」の理解の問題ではありません。ただ、佐藤が無知なだけです。

      池田大作がパウロと似た性質あるということがなぜ恐ろしいのか私には分かりません。

      私はこんなことは書いていませんよ。池田大作とイエスを並列して語るのが「恐ろしい」とは書きましたが。

      なぜ佐藤優が池田は創価学会の会員にとって、キリスト教徒にとってのキリストと同じ精神的ポジションにあると主張することを問題視されるかも分かりません

      崇拝されているとはいえあくまで人(あるいは仏?)にすぎない池田大作と、唯一神であり救い主であるイエスを同列に扱うというのは、まともなクリスチャンなら絶対にできないことだと思いますよ。
      それを認めてしまうと、イエスと池田大作という神が二柱存在することになってしまいます。

  4. 佐藤優氏の中東問題、ウクライナ問題の説得力ある評論に感心させられ納得しますが、国内問題に移った途端トラブルメーカーに変身。そう天は二物を与えずなのかも。歴史的背景・文化的背景の全く異なる問題を同じ土俵で語るが為の無理難題なコメントになるのかと思います。
    これは佐藤氏に限らず、元・現大学教授の専門外のコメンテーターにも共通していますが、これは専門外のコメント依頼をするマスメディアの問題かも知れません。

    • > 気ままな独り言様
      初めまして。コメントありがとうございます。

      佐藤優の外交分析が正しいのかどうかは私には判断できませんが、おっしゃる通り、佐藤優は外交実務という分野においては優秀な人物だと思っています。
      ただ、外交官時代の彼の人脈開拓がキリスト教神学によって行われたということから、彼を外交官としてよりも知識人として評価する動きが出てきました。
      これは佐藤優にとっても我々にとっても不幸なことだと思います。彼は外交官としては優秀かもしれませんが、知識人としては無能なのですから。

  5. すいません宛先を間違えました、流星群様へです。
    佐藤優自身が「私にとって池田大作はイエスキリストと同じである」と言えばクリスチャンとして問題ですが、創価学会の会員の内在論理を理解して「創価学会の会員にとって大作は私にとってのイエスのような物」というのは、何も問題がないと思うのですが

    • > 紳士様
      コメントありがとうございます。

      おっしゃる通り、彼の池田大作発言が、創価学会員の心境を分析しているにすぎないならば、特に問題はなかろうと思います。
      しかし、池田は別のところで、「悟りを得たという点では仏であるが、すべての衆生を救うためにわれわれの世界にとどまっている菩薩」などと書いています。
      この発言を読むに、佐藤は池田大作を本当にイエスやパウロに匹敵する人物と思っているのではないかという疑念が拭えないのです。

  6. 流星群様、初めまして。
    大変興味深い記事でしたので拝見させていただきました。
    まず私個人としては佐藤優氏は好意的なポジションにあります。
    また私は創価学会員です。
    ですが全体的な内容はなるべく中立性を持って拝見させていただいたつもりです。
    (好意的、と言っている時点で中立性を持つ、というのも矛盾であるかもしれませんが;)
    それを踏まえ、若干長文ではありますが、批判・揚げ足取りではなく、
    あくまで拙い私見を述べさせていただきますが、ご容赦ください。

    一点目に流星群様のおっしゃるパウロと池田大作ですが、
    キリスト教と創価学会の成り立ちからすると、
    パウロ・・・キリスト教を世に広めた(パウロはキリスト没後に活躍されたと聞いたことがあります。)
    池田大作・・・創価学会を世に広めた。(創価学会前身の創価教育学会の創設者は牧口常三郎)
    キリスト自身が存命中はキリスト教ではなく、ユダヤ教であったと思いますので、
    実質キリスト教を作ったのはパウロであったかと思います。
    池田大作は創価学会を作ったわけではありません。
    そういった意味では若干の差異はありますが、パウロと池田大作の近似するのは
    上記の大きく世に広める、という点でないかと思います。
    こちらは流星群様も本文の中で述べられているので蛇足の感はあるかもしれませんが。

    二点目にイエスと池田大作を並列に語るという箇所ですが、
    >イエスと池田を並列して語るという恐ろしいことを既にやっています。
    以下本文引用部
    >キリスト教徒にとってイエス・キリストという名は極めて重要である。それと同じように創価学会員にとって池田大作氏の名が決定的に重要なのである。(中略)
    とありますが、これはあくまでその宗教に属する人間にとってのポジションの
    比較というものになるのではないでしょうか。
    イエス・キリストと池田大作を並列に語るのであればそれぞれの団体においては
    「なんだと」ということになるかもしれませんが、
    あくまで団体とその人物という2点でもっての相互の比較であれば問題ないかと思います。
    (こちらも紳士様のご意見と重複するため蛇足の感がありますが)
    またキリスト教の中ではイエス・キリストは唯一神ですが、
    そもそも創価学会では唯一神という概念はなく、池田大作は師匠という
    概念ですのでそういった意味でも並列ということはないと思います。

    文章の一部、そして内部の人間の、また引用がない穴ボコな見解ではありますので
    「それがどうした」程度ではありますが、あくまで私見ととらえていただければと思います。

    末尾となりますが私が氏を好意的に感じているのは、
    あくまで好き嫌いという感覚に近いものがあります。
    それは氏が学会のことを書くよりも前からですので、本当に感覚です。
    何かのきっかけで180度変わることもあるかもしれないようなあやふやなものです。
    恥ずかしながら流星群様のように、論を持って理を織りなすような整然とした
    思考・賢察の結果ではありません(汗)。
    とはいっても流星群様のご意見に憤慨するわけではありません。
    むしろ非常に引用もよく用いられ、整然としたものと思います。

    初めてのコメントにてここまでの長文、誠に失礼いたしました。
    またご不快に思われる内容があるかもしれませんが、拙文と捉え
    ご容赦いただければと思います。

    • > 四方堂様
      初めまして。コメントありがとうございます。
      創価学会に所属しておられる方からお話を伺うのは初めてですので、大変興味深い内容でした。

      パウロと池田大作の近似するのは
      上記の大きく世に広める、という点でないかと思います。

      おっしゃる通り、佐藤優がパウロと池田大作を比較して論じているのはそういう意味でしょうね。

      これはあくまでその宗教に属する人間にとってのポジションの
      比較というものになるのではないでしょうか。

      キリスト教の中ではイエス・キリストは唯一神ですが、
      そもそも創価学会では唯一神という概念はなく、池田大作は師匠という
      概念ですのでそういった意味でも並列ということはないと思います

      おっしゃることは理解できますが、そうすると、佐藤がイエスと池田を並べて書いているのは不適切に思えますね。
      イエスの名前を迂闊に出さず、司祭や牧師、あるいはパウロやヨハネぐらいにとどめておけば、「師匠」である池田大作と並列しても違和感はなかったと思います。

      私が氏を好意的に感じているのは、
      あくまで好き嫌いという感覚に近いものがあります。

      人の好き嫌い自体は論理とは別にあると思いますし、支離滅裂なことをいってはいるが人間的には良い人物というのもいらっしゃると思います。
      私も、佐藤が人間的にも全く尊敬できないダメ人間だといっているわけではありません。
      外交官としての活躍を見るに、彼は自分の仕事に実直な官僚タイプの人間ですし、サラリーマンとしてつきあう分には好人物だと思います。
      それが知識人として活躍することになってしまったのが、佐藤の不幸ですね。

      • 四方堂さんの意見に共感.ただ,キリストと池田大作の比較は,単純に「絶対的だ」と言いたいだけだと思う.深堀りするところではないかと思う.

    • > k様
      初めまして。コメントありがとうございます。

      おっしゃる通り、科学用語を権威付けのために誤用するポストモダニストたちは、佐藤優を先取りしていたと思います。
      ソーカル事件から20年以上経過しているにも関わらず、同じことが(しかも日本で!)繰り返されているのは恐るべきことです。

  7. 一通り一読しましたが、売国よりはマシであると結論づけました。
    単純な結論ですが、それが全てです。
    今、ロシアとの外交を強化し新の意味で国際交流を国と国民で強め良い関係を構築できる事を望みたい。
    ロシアはアメリカとの板ばさみで難しい立ち場の関係国ですが、若い世代の人々は決して昔のような事をばかりを引きずっている人ではなく親日も芽生えている、国民性も他の西洋諸国と変わりないと感じます。
    政府は技術面だけでなく、文化交流を促進し理解を深める事で自然と日本の真の友好を切り開き、対話によるオープンな外交をとおし緊密化させることで先進国としての重要な発言力とリーダーシップを勝ち取る事ができるでしょう。
    ロシアが日本にとって将来に渡り全ての面で良い友好国になれば中国は横暴を続ける事は出来ません。

    興味深いブログ内容でした、ありがとうございます。

    • > NIL様
      初めまして。コメントありがとうございます。
      が、私の記事を佐藤優の政治的立場と結びつけて論じていらっしゃるあたり、どうも私の記事の意図を勘違いされているのではと思います。
      私はあくまで佐藤優のアナロジー思考や「教養」の誤りを指摘しただけで、彼の政治的立場にはほとんど興味がありません。
      したがって、私にとっては「売国」などどうでもいいことですし、まして「ロシア」はこの記事に一切関係ありません。

  8. 拝啓、
    佐藤 優氏の著作「新、帝国主義」左巻を読んでいました。
    Page 155 で「内閣法制局が従来の解釈を変更し集団的自衛権を認めることがわが国益に貢献すると筆者は考えると述べています」。
    しかるに2014年6月2日の毎日新聞、対談 加藤登紀子×佐藤優
    「平和」に修飾語要らないでは
    「首相の集団的自衛権に関する会見はポエムだったかもしれないと」言っております。
    このような(相反すると考えますが)言論人はいかがなものでしょうかと
    思っております。
    毎日新聞にも意見を求めていますがいまだに回答がありません。
    とても残念です。

    • > 小笠原 洋明様
      初めまして。コメントありがとうございます。
      私はその記事を読んでいないので判断できませんが、その引用文だけを読むと
      「集団的自衛権を認めることが国益に貢献すると考えており、それを内閣に期待していたが、首相会見ではそれが実現されるものとは到底思えず、失望を味わった」
      という類のもので、決して「集団的自衛権の容認」という思想を捨てたわけではないのではないでしょうか。
      「ポエム」というのは首相会見を批判したものであって、「集団的自衛権の容認」自体が「ポエム」であったといいたいわけではないでしょう。

  9. 流星群様

    はじめまして。「通りすがり」です。なかなかの鋭いご指摘、感服しました。

    私の「佐藤勝」体験は、①「宗教改革の物語」、②「国家の罠」、③「知の武装」(手嶋龍一との対談)、④「獄中記」という順番で全てですので、量的には未熟、かつ、入り方はアブノーマルなので、私の見方はさほど参考にはならないと思いますが、これらの読書経験を通じて感じた事は、

    ①同じ内容の繰返しが非常に多い(記憶力の強さを自慢することと矛盾する)
    ②第三者の口を使って自分のことを述べることが多いが、その場合は、ひとつの例外もなく自己賞賛である(そういう形で自慢するには、理由がある)
    ③自称、「作家」とされていて、評論家との表示はない
    ④「国家の罠」の既述が全て真実なら、あれで懲役2.5年(執行猶予4年)は信じがたい重罰である
    ⑤「獄中記」にはやたらと難しい書籍が並んでいるが、自分の頭で内容をこなしているとは思えない

    ことからして、「何だかうさんくさいモノ書きだな」と思っておりましたが、あなた様のご指摘内容を勘案させて頂くと、自分の見方もそれほど的を外していないな、と思います。

  10. はじめまして。
    1点だけ、創価学会と佐藤氏に関する部分について述べさせてください。
    「キリスト教徒にとってイエス・キリストという名は極めて重要である。それと同じように創価学会員にとって池田大作氏の名が決定的に重要なのである。」という佐藤氏の発言は、「名前」に関して述べただけであると解せます。
    本来、創価学会の教義の上から述べるならば、尊信の対象たる本仏は日蓮であるため、創価学会の教義の上からイエスと同列に論じるならば、日蓮をあげることが適切だと思われます(ただし、キリスト教と仏教というそもそも依文の違う宗教同士であることから一概に論ずることはできないが)。
    しかし、佐藤氏がここであえてキリスト教徒にとってのイエスの名と創価学会員にとっての池田氏の名を同列に論じたのかは、「潮」に連載ということもあり現在の創価学会員と池田氏の関係性を重視してのことだとろうと解せます。
    具体的に述べるならば、現在の創価学会員にとって池田氏を誹謗されること、あるいは逆に誉められることがキリスト教徒にとってのイエスに対するそれと最も近いということです。だから、あえて「名」と書いたのです。
    したがって、佐藤氏は神とか仏とか、あるいは本尊であるとかそうでないとか教義的なこと云々ではなく、読者にとってわかりやすい具体例をあげたまでであって、神であるイエスと人間たる池田氏を同列に論じようというような意図は無かったと思われます。なので、イエスと池田氏を並列したからと言って、佐藤氏が恐ろしいことをしたと述べることは論理の飛躍ではないでしょうか。

  11. 前回の投稿に追記させて頂きます。長くなり恐縮です。この文章は掲載されなくても差し支えありません。

    前回の投稿で私が申し上げたかったことは、出世作の「国家の罠」はフィクションである、ということです。いかにもノンフィクションのような実名盛り沢山の仕掛けがありますが、これはフィクションなので、本人は「作家」と自称しているわけです。ところが、世間は、これをノンフィクションとして読ませられます。その仕掛けを補強するかのごとき「獄中記」というフィクション(ありもしない外務省後輩に対して返信という形でいろいろ書付けをしています)がまたまたノンフィクション仕立てで、こともあろうに、あの出版社から出ていますので、ますます「国家の罠」に書かれていることが全て真実であるかのように騙される仕組みになっている訳です。

    「国家の罠」については出版から時間も経っていますので、これまでにも私と同じような指摘をされた方もいらっしゃることとは思いますが、念の為に申し上げます。大方の人は、これをノンフィクションと捉えておられたことと思います。読後は、国家ににらまれた個人の無力さから著者に同情を覚えるような方も少なくなかったと思います。では、なぜフィクションと決めつけるかと申し上げますと、あの内容が真実であれば、最高裁まで行って「あれだけの刑罰をもって有罪」認定されることはないということと、あの中で作者は「国策捜査」という概念を主人公とそのカウンターパート(何がし検事)の両者の口から読者に説明していますが、それによれば、いずれも「国策捜査」は、「冤罪事件」ではないと言明しています。ところが、主人公が口をすっぱくして繰り返すことは「自分は冤罪だ」ということでしかありません。一人称小説ですので、ここで論理が破綻している訳です。

    30年後の情報公開により自分の主張の正しさを証明してみせる、などと主人公は意気込んでいますが、そんなことには誰も関心がないことはとっくに承知の上で空威張りをしているだけです。外務省に保管されているべき証拠書類が意図的に破棄されたような文章もありますが、それなら冤罪作りのための証拠隠滅行為ですので、裁判の場できちんと争点化している筈です。それをしていなければ担当弁護人が無能だということになります。

    第一審判決内容朗読の際に、公判当初から担当していた女性陪席裁判官の表情を描いた箇所があり、これを以って読者に対して、いかにも「中途参入の裁判長が間違った判決文を朗読している」かのような印象付けをさせますが、この箇所は、お粗末なテレビドラマの法廷劇(で不満のある裁判官のアップ顔)をみているようです。このような小細工も使って「冤罪」を訴えている訳ですが、合議制で結論を出した判決内容について裁判長の朗読中に陪席裁判官が不服顔をするはずがないです。

    そのほかにも真実と誤解させる仕掛けがいろいろ施されているので、一般読者をして「ああ、不運な被害者だったんだ」と嘆息をつかせる読み物にしつらえてあります。「国家の罠」を読んだ作家・井上某は著者に対して「作家の心得(具体的には出版社との付き合い方)」を伝授してくれたそうです(「宗教改革の物語」に出てきますが、さすがに本職、慧眼といえば慧眼です)。

    つまり「国家の罠」は、刑事被告人が未確定の公判手続き中に虚実ないまぜて書いた自己弁護用のフィクションであって、これがうまいぐあいにヒットしたので、これ幸いに続々と自称「作家」が売文に勤しんでいるわけです。

    ただし、問題は、所詮下級公務員の身で前科モノにすぎないのにやたらと自分に箔をつけ、大物気取りをしていることです。厚生労働省の冤罪事件と対比すれば、佐藤優は、厚生労働省事件の課長補佐以下の地位の人間ですが、あたかも自分が外相補佐であるかの如く主人公を仕立て上げていることはご承知の通りです。そのヨロイを羽織って、時事問題について、いっぱしの評論家気取りでモノを言うものですから、「(デタラメな議論をしているのに)評価が高い」というようなことになる訳です。「デタラメな議論」になるのは、この作家が「(自己流の)神学と語学」という足元のあやふやな世界をベースにしていて論理的にモノを考えることができないからです。きちんとした論理構成も、知性もないがゆえに、その場の思いつきをご指摘のような「類似」という糊で接着して説得を試みようとする、その程度の人間(分かりやすく言えば、コピペ・マン)ということです。

    このような原点を見極めてしまえば、「大森実のタチの悪い二番煎じ、三番煎じ」というのがせいぜいの位置づけですので、目くじらをたてるにも値しない作家・売文ヤ、ということになりそうです。従い、流星群様の次の文章は、多くの読者と同じくあなたも最初のところで見事に騙されたお一人である、ということを示しているように思います。

    (引用)なお、こんな佐藤優ですが、数少ないおもしろい本があります。『国家の罠』と『自壊する帝国』ですが、この二冊がおもしろいのは、佐藤流の議論が少なく、ノンフィクション的要素が強いからです。知識と教養で社会を読み解く(ように見える)佐藤の著作の中で、知識と教養があまり出てこないこの二冊がおもしろいのは皮肉な話ですね。

    但し、誤解のないように申し上げますが、流星群様の数々の鋭いご指摘のお陰で、私もなんとなく胡散臭く感じていたワケをこうして自分なりに整理することができました。改めて御礼を申し上げます。

  12. これを読むまで記憶の中の佐藤批判の1つ1つは繋がらなかったがここで繋がった。
    二つの分野を繋げて結論を出すことの危険性がわかったのがよかった、今後似たような論の読むときに注意します。

  13. 数学そのものについては佐藤優さんは変なことを言っている訳ではなく、逆にブログ主が変なことを言っています。

    > これは物理学の話ですが、数学に置き換えても同じことがいえる。不完全性定理によって数学の一部の不完全性が指摘されたとしても、「自然数論を含む帰納的に記述できる公理系」とは「かけ離れたところ」では、数学は十分に完全です。佐藤が自分のいっていることをきちんと理解できているならば、「数学を用いる物理学、経済学などがすべてこの制約下に置かれている」などとデマを飛ばすはずがないのですが。

    例えば、この部分のコメントは変ですよ。

    数学では「自然数論を含む帰納的に記述できる公理系」を認めようと、認めまいと、無矛盾な論理体系が出来るのです。完全云々を「自然数論を含む帰納的に記述できる公理系」を認めるかどうかで話すのは、それこそ無理解です。

    数学の基礎教育が無い人には説明しても理解出来ないかもしれません。(大学の数学科在籍の学生でも理解出来るとは限らないので、分からない部分があっても気にしないで下さい。)少しだけ説明してみます。

    選択公理を認めても、認めないでも無矛盾な論理体系が出来てしまう。これがビックリの内容で、それを安直な論理学で鑑みると、どっちでも良い仮定で導かれる結論もドウデモヨイと言えてしまい、何となく不安を覚える。でも、まあ無矛盾なんだし、実学っぽい物理などでも数学は充分に役立っているし、「選択公理を認めててもOK♬」と思って大多数の数学者は数学をやっている。ただ、この少し後ろめたい感じ(※)と、論理体系は何れでも無矛盾でしかも実学にも役立つのだけれど、ドウデモヨイと言えてしまえる感じもする点があることに、物事の超越性を宗教的にも感じる。まあ、「数学を用いる物理学、経済学などがすべてこの制約下に置かれている」という意味が、この後ろめたさ(※)であるならば、佐藤優さんは矛盾の無い話をしています。

    佐藤優さんの発言で突っ込む点は他にあると思います。

    鳩山さんの話は「今直ぐ決められないから、様子見て、後で決めるよ」という優柔不断さ(★)を「関数に喩えて、色んな値(要素)を代入してみて、変化を見て、適切なタイミング(これも要素)での得られる値(様子)で判断する」と数学的文学で表現しただけです。最近は永田町の選挙での応援だったり、政治活動費の胸算用だったり、そういう足す引く掛ける(割るは無いかも・・・)で動く政治家が多いのに比べると、少し違うと言いたかったのかも。事実、鳩山さんは私利私欲で動く必要の無い資産家ですので、+−×の不要な人です。その意味で他の政治家とは明らかに違います。また、弟の邦夫さんは一般教養の意味では相当に頭の良い人なので、兄の由起夫さんもそれ相当だと思います。(政治家として賢いかは疑問だけれど・・・。)とはいえ、朝令暮改程度のことにリサーチ云々とご大層に数学を引っ張り出すのは、相手を煙に捲こうとしているようにも思えます。

    後、非ユークリッド幾何の発想がイスラムからは出て来ないと断言しているのは、これは悪意があると思いますが、これも意図的に異教を悪く言っているだけの気もします。これで佐藤優さんの強要を疑うのは、それはそれで変です。但し、イスラム教関連の本も複数読んでいるはずの佐藤優さんなので、場合都合に寄って意図的に事実と違うことを平気で言う人なのだとは指摘出来るかもしれません。個人的には、イスラエル関連で時折、過度にイスラエルの肩を持ち、アラブやイスラムについて悪く言うときにこのような危険性を感じます。彼が「アルカイダ」という言葉の由来だったり、その組織論について語ったことが無いのも、多分、意図的で、「要はテロリストだよ」といった区別というか隔離というか、そういう嫌悪を感じたりもします。ただ、それも感じというだけで、事実の捏造といったことではないと思います。(イスラム教よりもキリスト教の方が知的にレベルが高いとか、まあ、そういうことを言う人がいても、それはジャイアンツ愛とか言うのと大差無いので、それは事実の捏造とまで批難しないでも良いとも思います。)

    イスラム教にもismといった発想があり、名付ける行為そのもので神との接触を感じるので、交わる無限遠点のような発想が出て来るのは、別に何の不思議も無い気がします。数学で言えば、体の完備化だったり、特異点のあるリーマン多様体のコンパクト化だったりを神との接触と喩えているのであって、佐藤優さんのポエム描写のようなものは幾らでも出来ます。「神との接点は一点とは限らない」とか、世の中を色んな閉じていないリーマン多様体に喩えれば、色々と言えます。これも鳩山さんの描写と一緒で、別に対したことは何も言っていません。

    ただ、嘘は言っていないし、描写に意外性があるので、彼の話を聞いている強要ある人は驚きと感動を覚える。知的に人を惹き付ける才能があるし、そこにある種の嫌らしさを感じなくもないです。

    兎に角、佐藤優さんは、やはり相当に優秀な人で沢山の情報を仕入れ、分析する能力に秀でていると思います。

    例えば、最近、彼が韓国の反日になる理由を経済だと説明している件はナルホドと思いました。韓国にとってのアベノミクスは単なる為替ダンピングにしか映らず、それを当時の韓国は訴えたけれど、そもそも日本円が過度の円高だったのを世界も承知しており、他の国は通貨戦争とは認識しなかったので、そのことを韓国は国際社会に訴えたけれど、誰にも聞き入れて貰えなかった。(あまり騒ぐとウォンが不当に安かっただけだと突っ込まれるだけだし。)しかし、僻みというか恨みというか、兎に角、アベノミクスも安倍も憎い。韓国経済にマイナスだ!パククネの就任時期とも被っていて、「ナルホド、日本の経済政策に韓国が何を言っても如何ともならない。じゃあ、反日全快でも特に新たな経済的マイナス要因にはならない。」と頭の良い彼女は直ぐに判断した。佐藤優さんはこういう下卑た言い方はしていなかったけれど、まあ、そういうことを新自由主義(過度の競争)なども描写しつつ、上手に説明していました。私はその説明を関心しながら聞きました。

    まあ、どんな人でも100%正しいことを常に言う訳でもなく、志向や主義といったものもあるだろうから、その分だけ偏ることもある。全部鵜呑みにするのでなければ、佐藤優さんは他よりも有益な情報ソースだと思いますよ。

    • > hajmo_rakija様
      初めまして。コメントありがとうございます。
      見覚えがある名前だと思ったら、当記事でリンクを貼ったブログの方でしたか。

      実をいいますと、hajmo_rakija様が何をおっしゃりたいのか、私の発言のどこを問題にされているのか、きちんと理解できておりません。
      数学についてはhajmo_rakija様のほうがお詳しいかと思いますので、一つ一つ確認させていただきたいと思います。

      まず、「自然数論を含む帰納的に記述できる公理系」においては、無矛盾な論理体系が存在している。これは私も認めますし、hajmo_rakija様も特に異論はないかと思います。
      だが、無矛盾な論理体系においては、自身が無矛盾であることを証明できない。これが不完全性定理だと思われますが、これでよろしいでしょうか?

      佐藤優はこれを援用して、「自然数論を含む帰納的に記述できる公理系」に限らず数学全体が不完全な学問であり、数学を援用した物理学や経済学も不完全だといっています。
      これがとんでもない誤りだと私はいっているわけですが、これもよろしいでしょうか?

      私がいいたいのは、不完全性定理は「自然数論を含む帰納的に記述できる公理系」にのみ適用される定理なのだから、「不完全」なのは「自然数論を含む帰納的に記述できる公理系」だけである(数学全体は「不完全」ではない)ということなのですが、これも数学的に正しいでしょうか?
      で、hajmo_rakija様が私の発言のどこを問題視されているかよく分からないので、もう少し詳しい説明をお願い致します。

      それを安直な論理学で鑑みると

      揚げ足取りの突っこみかもしれませんが、「安直な論理学」って何ですか? 論理に「安直」も「安直でない」もないと思うのですが……。
      論理や数学という厳密な世界に「安直」などという感覚的すぎる表現を持ちこむところに不信感を禁じえません。
      この人は本当に論理や数学を分かっているのか? と。

      論理体系は何れでも無矛盾でしかも実学にも役立つのだけれど、ドウデモヨイと言えてしまえる感じもする点があることに、物事の超越性を宗教的にも感じる

      色々質問したいのですが、

      ・「後ろめたい感じ」というのは数学者が共通して持つ感情なのでしょうか。それともhajmo_rakija様固有の感情なのでしょうか?
      ・「物事の超越性を宗教的にも感じる」という言葉の意味が全く分からないので、具体的かつ論理的に説明お願い致します。
      ・「後ろめたい感じ」と「物事の超越性を宗教的にも感じる」には、どういう論理学的・数学的な繋がりがあるのでしょうか?
      ・「という意味が、この後ろめたさ(※)であるならば」と、佐藤優が書いた文章を勝手に解釈していますが、その解釈が妥当である根拠はどこにあるのでしょうか?
      私には、(佐藤優と同じく)自分の都合のよいように曲解しているとしか思えませんが……。

      「数学の基礎教育が無い人には説明しても理解出来ないかもしれません」とおっしゃっていますが、残念ながら「数学の基礎教育」がある人でも理解できないでしょう。hajmo_rakija様の話は数学と無関係だからです。

      嘘は言っていないし

      「宗教の神の交わりと数学に関係がある」という話を何の根拠も示さず(示せるはずもなく)主張することは「嘘」「デタラメ」とはいわないんですか? 

      私からすると、佐藤優は数学をネタに「ポエム」を読んでいるだけなのだからそこまで目くじら立てる必要はない、とhajmo_rakija様はいっているように見えます。
      確かに、芸人ならそれでもよいでしょうね。政治漫談芸人、数学漫談芸人、結構だと思います。
      しかし、佐藤優は外交評論家・知識人として活躍している人物であり、それによって書籍や連載も書いている人物です。
      そういう人間が、漫談だから結構とデタラメを吹聴するのは許されないと思いますよ。

      兎に角、佐藤優さんは、やはり相当に優秀な人で沢山の情報を仕入れ、分析する能力に秀でていると思います。

      「兎に角」の前後で全く文章が繋がっていないのですが、どう繋がると「やはり相当に優秀な人」という結論になるんですか?

      断っておくと、私も別に佐藤が優秀であることを疑ってはいません(優秀さを発揮する方面を間違っているとは思いますが)。
      しかし、hajmo_rakija様の今までの文章から、「兎に角」「やはり相当に優秀な人」という結論は絶対に導かれないでしょう。
      「佐藤優はそれでも優秀だ」という結論を導きたいがためのこじつけでしかありません。

      例えば、最近、彼が韓国の反日になる理由を経済だと説明している件はナルホドと思いました。

      私の記事を批判する人に共通していえるのですが、佐藤優の外交分析や政治分析の話を持ち出してきます。それをもって、やはり佐藤は優秀だと。
      別にそれを否定するつもりはありませんが、私は別に佐藤の政治的立場については全くコメントしていません。彼の議論の手法がおかしいといっているだけです。

      議論の手法がおかしいという批判には目をつむり、政治的立場という別のものを持ち出して「やはり佐藤は優秀だ」というのは、佐藤以上にデタラメな擁護だと思います。

      • 久しぶりに自分のブログを見ようとしたら、消えていました。それでここでコメントしていたのに気付きました。

        不完全性定理に関して「自然数論を含む帰納的に記述できる公理系」云々の理解はそれで良いですが、それを含まない数学と云うのは、空虚にしか思えないし、論拠にするには、薄い気がします。(基礎論の人は「そんなこと無い」と言うかもしれませんが、私には感覚的に分かりません。)それに、そもそも不完全性定理はどうでも良く、本質は他にあります。

        佐藤さんの誤解もあなたの誤解も本質は同じです。どちらも数学を知らない。仕方無いことです。それは受け入れて頂くしかないので、申し訳無いですが、ご理解下さい。昔の発言の責任と云う意味で、その意味合いを説明します。

        数学者の藤原さんが何を言いたかったのか、それを佐藤さんは理解していないし、理解していないでウィトゲンシュタインが云々と言い出したのを藤原さんは完全にスルーしているのも可視化されています。言ってもどうせ分からないし、説明も面倒臭いし、言っても恨まれそうだし、親しい友達でもないし・・・。この意地悪な藤原さんの感覚は理解できます。(私が彼の立場であれば、説明しちゃった気がします。)

        藤原さんがウィトゲンシュタインの本を読んだかどうかは知らないですが、読んだとすれば理解できる筈です。ウィトゲンシュタインの「論理哲学論究」自体は、今にして思えば、別に大したことを言ってないと思える内容です。歴史的意義以外には無いです。ニュートンの語る巨人の肩に乗った感じです。但し、哲学の人達は数学を絶望的に知らない人達ばかりで、数学の人達の圧倒的多数は哲学者に興味が無いので、何も言わないし、言えないままなのです。多分、プラトンや論語なんかは楽しく読んでも、最近の哲学なんて鼻糞に思えます。

        ウィトゲンシュタインは数学の知識があると読み易いですが、そちらは注目されず、言語ゲームから文学で使えるネタ探しに利用されるだけに思えます。論拠があり、情緒もある。彼自身がどの様に情緒があるべきかを探求し続けていて、それを何となく実感できるから。ウィトゲンシュタインよりも優秀なハーバーマスは人間としては最低の糞ですが、言語ゲームを更に発展させていて、話としては面白いです。

        「論理哲学論究」を本気で語れば、ポール・コーエンの仕事について言及することになります。排中律が成り立たない事例、無限の濃度がどの様に無限にあるかは、それを決定できず、その各々の可能性を公理として認めるしかないことが証明されたのです。そして、現代数学はそこで情緒的な選択をした上で、数学を続けているのです。これは数学そのものが矛盾を含んでいるなんて話ではなく、証明できると思っていたことが実は公理に属することだったと云うことで、そこに関しては情緒で把握するしか方法が無いと、そう云うことです。

        「論理だけでは議論を続けられない。そこには情緒が必要だ」との意味合いはこんな感じです。(この内容を悪人正機というペンネームで本に纏めて、アマゾンで紹介し始めています。宜しければ確認して下さい。2冊が既刊で、後3~4冊出す予定です。)

        佐藤さんが優秀だとの意味合いは、私もロシアで長年飲んだくれていたので、佐藤さんが本当にロシアで仕事をしていたことは、それは実感できます。メルマガでロシアを語る銭ゲバよりも、佐藤さんは情報の正しさで信憑性が高いです。長年ロシアにいても、ロシア語ができる様になる訳でもなく、その程度でもロシア人の女房を娶ることもできると銭ゲバは告白し続けているのだから、見世物としては面白いです。また、今の日本はロシア語のできる優秀な人が少ない惨憺たる状況を炙り出す役割も果たしています。

        確かに佐藤さんは怪しいことも言っています。彼はウィトゲンシュタインのことも十分に理解できていません。ダンテの「神曲」の解説本を阿刀田高さんが書いていて、それに佐藤さんが書いた解説で、自分は薄っぺらい人間だと告白しています。天国篇が神への信仰だと気付かなかった、気付かせてくれて感謝とか、抱腹絶倒の冗談です。でも、それ等は些末です。

        こんなことを言い出すと皮肉に過ぎるのだけれど、佐藤さんも彼の話し相手のロシア人も優秀ではあっても万能ではなく、薄っぺらい部分も持ち合わせていたと紹介してくれていると思う方が読書に深みが出るし、事実にも肉薄できる気がします。そんな人達も含めて、万能ではない、高々優秀な人達が世の中の政治を動かし、蠢いている。怖いですね。でも、そう云うことだと思います。

        「優秀」は「万能」を意味しません。それだけのことです。私だって語る世界を数学やロシアに引き摺り下ろすから、分かったことを少し言えるだけであって、それ以上ではありません。

        因みに、佐藤さんはこの解説を理解できると思います。彼は排中律自体を正確に理解しているから。但し、彼が自分の生き方を変えるとは思えません。穴路地に嵌るのが大好きそうだし。(親父ギャグです。すいません。)それは或る意味で音痴になることなんだけど・・・。アナロジーは便利ですが、それに過度に溺れるのは拙いこともあります。

        返事が遅れました。すいません。

  14. 最近読み出しましたが・・
    本の内容に関しては特に佐藤氏の主観で書いた本だと認識していますので内容に対してのコメントは差し控えますが
    真実は時として複数に跨ることがあります。それは書き手の主観が入ってくるので仕方がないのでしょう。良いところも真実ですし悪いところも真実だろうと察します。この本の主たる目的は見えない部分を佐藤氏の主観で
    伝えるところにあります。カラクリを暴露的な部分に関しては読者の
    興味をそそる内容としては十分に達成したのではないでしょうか?
    暴露本に対してあれこれ注釈をつけること自体ナンセンスではないかと思います。これが公式論文なら問題ですがね!
    外務省に告ぐ 国家の罠 

  15. こんにちは。拝読しました。

    あなたの佐藤氏批判は妥当だと思いますね。佐藤氏の著作の中ではノンフィクション的な要素のある作品はおもしろいというのも同感です。

    でも「精霊」と「聖霊」に関してだけは出版社の誤植ではないですか?

    鳩山首相の息子が交通渋滞を研究しているから決断力あるという飛躍も、もし冗談で言ってるんでなければ、失笑ものです(ただ佐藤氏はそういうタイプのジョーク、つまり、交通渋滞と政治的決断力の間になにも相関性がないのに飛躍的に結合するジョークを言ったりもしますよ)。

    佐藤氏は「鳩山さんは数理モデルの博士なので、世の中のありとあらゆる展開を予測して政治運営している」というような趣旨のことさえ言っています。

    佐藤さんはモスクワで大学の講義をしていたことはあるとはいえ、学者ではありません。たんなる読書人です。教養人でもある。知識人でもあるけど、学者とは言えません。知名度を生かして本を売るという芸能人作家なのだから学問的な緻密さを彼には求められません。

    池田氏への賞賛ははじめて目にしました。仏教ってのは集団化とか政治権力との完全な断裂を目指す孤独な営為なはずなので、あれほどの教団を組織する池田氏はすくなくとも仏とも菩薩とも逆ベクトルですね。パウロに近いのはそうだとしても。

    あなたの批判分析に私は同感しました。

    • >でも「精霊」と「聖霊」に関してだけは出版社の誤植ではないですか?

      でもも糞も流星群さんは既に「誤字や誤植の類ではないかと思っています」って言ってますが・・・

  16. はじめまして。
    拝読させていただきました。佐藤氏のアナロジー的な手法や前提知識の誤解を鋭く批判されていて非常に面白かったです。
    ここで私が聞きたいことは

    1.知識と社会を「無媒介」につなげていると主張されていましたが、逆に「無媒介に接合していない」手法を提示してほしい。

    確かに佐藤氏の知識と社会の繋げ方は無理が過ぎるとも感じられますが、本来知識と社会とはそのようにつなげていくものではないのでしょうか?

    2.貴方は「神学は役に立つとはこのレベル」と仰いましたが、それは貴方が「神学は現代において役に立たない」と思っているわけではないのですよね?

    神学を学んでいる身として聞きたいです。確かに佐藤氏のやり方には無理がありますが自然破壊を旧約聖書の原初史からアプローチしていく方法や人権思想とキリスト教倫理を絡めるなど、様々なアプローチがあります。あなたは、そういったものまでをも役に立たないと言っているわけではないんですよね?

    この2点についてお聞きしたいです。

    • > 神学を学んでいる人間様
      初めまして。コメントありがとうございます。
      質問に対して回答させていただきます。

      「無媒介に接合していない」手法を提示してほしい。

      「知識と社会を媒介させた上でつなげる」ことです。
      つまり、

      1. 神学ではAである。
      2. 社会ではA’である。
      3. AとA’は、Bという理由から本質的には同じである。
      4. よって、A’は神学のAを元に理解することができる。

      と、知識と社会をつなげる「媒介」、つまり根拠を示せばよいわけです。
      「本来知識と社会とはそのようにつなげていくもの」というのはおっしゃる通りですが、佐藤優の議論の問題点は、この「つなげる」根拠が全く示されていないことにあります。

      貴方が「神学は現代において役に立たない」と思っているわけではないのですよね?

      もちろんです。
      正確にいえば、自然科学や経営学などの「実学」と同じレベルで「役に立つ」かといわれれば微妙ですが、哲学などと同様に、基礎研究や知の体系としては「役に立つ」と思っています。

      私が佐藤の「神学は役に立つ」発言を批判したのは、
      「佐藤が神学の実用性を主張して以来、『神学で社会が読み解ける』『これからは神学が教養』などと息巻いているが、彼のいう『役に立つ』はこの程度のレベルにすぎない。
      神学自体は役に立つものだが、彼のこの程度の神学理解を元にして『神学は役に立つ』などと掌を返すのは、それこそ神学に対する無理解だ」
      ということを主張したかったためです。

      私は本文中で「神学」そのものを批判したことは一度もないと思いますが、確かにこれは説明不足でしたので、本文中に追記しました。

  17. >確かにこれは説明不足でしたので、本文中に追記しました。

    ワロタw
    お前は朝日新聞の記者かよ
    自分の間違いくらい素直に認めて謝罪しろよ
    実際に神学が役に立つ証明を外交の世界で実践したのが佐藤だろ

    • > yas様
      初めまして。コメントありがとうございます。

      自分の間違いくらい素直に認めて謝罪しろよ

      誤解されているようですが、私は自分の記述が間違いだったとは書いていませんよ。
      事実、私は「神学は役に立たない」とは本文中に一言も書いていないのですから。
      ただ、「流星群が、神学は役に立たないと思っているのではないか」と思われた方がいらっしゃったので、それに対する説明を追記しただけのことです。
      私の主張は一貫して変わっていません。

      実際に神学が役に立つ証明を外交の世界で実践したのが佐藤だろ

      私は「神学は役に立たない」などとは一言も書いていないのですから、この主張は何の批判にもなっていません。
      相手を批判するなら、最低限相手の主張は理解すべきかと思います。

      そもそも、「神学が役に立つ証明を外交の世界で実践したのが佐藤」という主張には大いに疑問があると思いますよ。
      『国家の罠』や『自壊する帝国』を読んでも、彼が神学を頼りに「外交」を行った箇所など読み取れません。

      彼が行ったのは、古本屋「インタープレス」の主と出会ったり、モスクワ大学でサーシャと知りあうきっかけ作りに神学の名を使ったぐらいのものです。
      人脈作りという意味で「神学」を実践したとはいえるかもしれませんが、それは「外交」ではないでしょう。

  18. ブログ見させていただきました。

    正直むずかしくてよくわかんかかったですが

    批判ブログを書くなら もう少し 優しくといいますか

    佐藤ではなく佐藤さんとかにしたほうがいいと思います。(レベルが低くてすいません。)

    この書き方書評や批判を通り越して 名誉棄損に近い文章に僕は感じまし
    た。

    しかし 佐藤優さん信者に近かった僕に 改めて考えさせるブログを

    読ましてもらい 感謝してます。

    • > yuu様
      初めまして。コメントありがとうございます。

      正直むずかしくてよくわかんかかったですが

      どのあたりが難しいとお感じになりましたか?
      読者が理解できないのは筆者の責任だと考えていますので、可能な限り分かりやすく説明させていただきます。

      この書き方書評や批判を通り越して 名誉棄損に近い文章に僕は感じました。

      佐藤は市井の一個人ではなく、元外交官・知識人として公に活動している人物ですから、彼に敬称をつける必要もあるまいと私は判断しました。
      まあつけてもよいのですが、これは好みの問題です。

    • ブログ拝見しました。
      わたしもおおむねyuuさんと同じ感想です。
      おそらくあなたは非常に優秀な方なのだとお見受けします。
      しかしながらこの記事はただ強くやさしい人への批判だけのように思います。
      たぶん何回も本を読み直せば誤解が解けると思います。
      私も同じですが考えされられる意見をいただきありがとうございました。

  19. 「偏微分」を解すると称して小澤一郎氏と鳩山由紀夫氏、また大田昌秀氏を過剰に持ち上げたかと思えば、いつのまにか鳩山氏のイラン訪問を二元外交と批判する佐藤優氏に、ある種の「胡散臭さ」を感じていましたが、貴ブログを読ませて頂いた後、「目から鱗」状態になり「あぁ、やっぱり!」と膝を叩きました。感謝。粗製濫造の本は買いません。(笑)

  20. 佐藤優氏の評論が成されることは、大変有意義だと思います。多くの方が論理的な評論を展開されることを希望します。活発な評論がされる事は、佐藤氏にとっても、その読者にとっても、有意義です。

  21. よく考察されて書かれたものと思います。ただ、長いので全部は読んでいません。

    佐藤優の著書は一冊も読んでいません。ラジオの朝の番組でコメンテーターとして定期的に話しているのを聞いているだけです。

    そのコメントを聞いていると、ぼくちんは他人の知らないことをこんなに知ってるんだじょー、そのな人の知らない情報や知識をベースに、こんなに鋭く世界情勢や国内情勢を分析しているんだじょー、てな感じです。そのときは妙に納得してしまうのですが、ほとんどの場合、後に何も残りません。まあラジオのコメントなんて、どれもそんなものでしょうが。

    というわけで、私の結論はというと、まさるちゃんはただのナルシストです。ナルシストの私が言うのだから間違いありません。

  22. 今日病院の待合室で置いてあったワシズムの最終号で佐藤優の言論封殺のことが詳しく書かれていて、それまで名前も知らなかったので、ネットで検索してここに辿り着きました。勿論その人の本などよんだこともなく、読む気もありませんが、本を出すと快感に酔うようですね。また本を読む方も、自分の考えに近いものしか読まない傾向が強いので、中身の真偽、当否は余り考えず買うので、上手く立ち回ればそれなりに売れることでしょう。 本が出し易くなると駄作が溢れてくるのは仕方ないですね。そういう駄作に付き合うのは時間の無駄ですが、このサイトのお陰で無駄が省けました。

  23. 佐藤本 大ファンです。ただ、アヤシイなと常々おもっています。

    議題と本質的に関係ない知識をひけらかして読者を惹き付ける(読者の目を眩ませる)という手法は、確かに古典的な手法ですよね。ほとんどの人が知らないであろう知識をひきあいに出されると、反論の術が無くなるという戦術ですね。

    それから、神学、ロシア語、そして外交、という僕にとって予備知識がまったく無い分野で、かなり文字数を割いて、分りやすい(分った気にさせられるだけ?)解説つきで、話をすすめるので、とても面白く感じます。その意味で、適度に読者のスノビズムを満たしてくれる、という指摘も同感です。

    ブログ主さんへの意見: 佐藤氏の外交官としての活躍譚として「これは本当にノンフィクションなのか」ということを一番に衝くべきなのではないでしょうか。鈴木宗雄議員や東郷大使のみならず小渕・橋本・森首相などから「俺は気に入られていた」「信用されていた」というのを、執拗に披露します。おかしいと思っている人は多いはずです。ちょっと常軌を逸脱していると思います。
    加えて、「オレはチェチェンでの戦争を止める寸前までいったが村山総理官邸がダメだった」「北方領土は鈴木先生とオレの力で返還寸前だった」というような「結果は出なかったがオレは凄いことをやっていた」というのがどうもオカシイ。
    佐藤氏の本は、とにかくこの辺りのような気がするんですが。

    あともう一点。僕は立花隆はニセモノだと思っています。ブログ主さんはむしろ微妙な書き方をされていましたね。とても興味深かったです。もしよかったらご意見を聞かせてください。

    • > Taira Hitoshi様
      初めまして。コメントありがとうございます。

      佐藤氏の外交官としての活躍譚として「これは本当にノンフィクションなのか」ということを一番に衝くべきなのではないでしょうか。

      この点については、そもそも「衝く」ことが不可能だと考えています。
      佐藤の言動と歴史的事実に明らかな矛盾があるというなら話は別ですが、それがない限り、「佐藤の活躍譚は嘘だ」と立証することはできないからです。

      また、佐藤の自慢話は、それを根拠にして政治的主張をするなら問題ですが、単なる自慢話であれば、エンターテイメントとして捉えてもよいのではないでしょうか。
      『国家の罠』『自壊する帝国』は、どれほど史実に則っているかは謎ですが、フィクションであっても非常におもしろい本だと私は思っています。
      譬えがよくありませんが、副島孝彦のようなおもしろさです。

      僕は立花隆はニセモノだと思っています。

      立花については斎藤美奈子『文壇アイドル論』などの批判書籍がありますし、インターネットに批判記事も多いので、特に取り上げる予定はありません。
      彼について少し述べれば、彼も佐藤と同様、ルポルタージュなどのエンターテイメントを書かせれば一流ですが、自身が手がけた研究記事については誤りが多く、参考に値しないと思います。

  24. meteorite1932様

     個人的に外交の専門家としては信用していますが、色々と胡散臭いとは思っています。
     佐藤の推薦する『世界十五大哲学』(PHP文庫)という本に関する記述で考えられないような矛盾が生じています。以下に指摘します。

     『世界十五大哲学』において佐藤は『復刊によせて』という形で巻頭にコメントを書いているのですが、そこで佐藤は『押田謙文堂という書店がある。当時、大宮で最大の本屋だった。この書店で私はこの本を買った。….(中略)….今から42年前、1972年のことで、私は中学1年生で12歳だった。』と述べています。さらに、『山田義塾で読まされる課題図書をよりよく理解するためには哲学の知識が必要だと思って、塾に行く途中で押田謙文堂に寄って、然るべき入門書を探したのである。』とも書いています。
     一方、佐藤の著作の『読書の技法』では30~31ページ目に『高校に進学すると、読書の関心は小説から哲学書に移っていった。….(中略)….最初からその手の本をなんとか読みこなせたのは、中学時代の読書習慣に加えて、高校一年生のときにたまたま行った書店(大宮駅東口にいまもある老舗の押田謙文堂)の店員がすすめてくれた入門書が優れていたからだ。大井正/寺沢恒信『世界十五大哲学』は説明が丁寧でわかりやすく….』とあり、世界十五大哲学を初めて手に取ったのは高校1年生ということになっています。
     『読書の技法』では佐藤が哲学書を読み始めたのは高校1年生からということになっており、『復刊によせて』の「中学時代に塾の課題図書を理解するために哲学の知識が必要だと考えて入門書を探した。」という”筋書き”とは完全に矛盾しています。

     これは”勘違い”というレベルを超えています。『世界十五大哲学』に関するエピソードは完全に佐藤の作り話だろうと私は考えています。
     
     

  25. リーマンの非ユークリッド幾何学というのは、平行線が交わらないものではありませんか(点Pを通り直線ABに平行な直線は一本も引けない)。平行線が交わるのは、ボーヤイやロバチェフスキーの非ユークリッド幾何学(点Pを通り直線ABに平行な直線は何本も引ける)ではないでしょうか。
    youtubeで『危機神学入門』を先日みて、読書家なんだなと驚きつつも、この件に関してへんだなと思いました。佐藤さんの本を読んだことが無かったので、どんな人なのかと思い、あれこれサイトを検索し、貴兄のページを拝読した次第です。

  26. 初めまして。
    本日のJB Pressで、佐藤優氏が最近の原油価格の大幅下落によるルーブル安が「露国にダメージを与えない」と語っているのを読んで、「何言ってんだこいつ」と思い、こちらに辿りつきました。

    自国の製造業がダメで、原油と天然ガスの輸出で国家収入の大半を賄っている国なのに、「ルーブルの下落が国内の製造業を育てるのに役立つ」「ルーブル安はロシアの国家戦略だ」なんて言っております。

    その理由として、ロシアは石油(エネルギー資源)を輸入していないので、ルーブル安でも赤字は増えない、というトンデモ論を展開しています。唯一と言っていい売り物の原油が安くなり、輸入品はルーブル安で高くなるんだから貿易赤字が拡大するのにです。

    原油安→ロシアの外貨不足→ルーブル下落 という図式を理解できないのでしょうか?

    こんな人が「知の巨人」と呼ばれるなら、「無知」と呼ばれることは、むしろ名誉か?

  27. 原油安が長期化するかにもよりますよね、http://ecodb.net/country/RU/f_reserve.html
    上のサイトにあるようにロシアには昔と違ってかなりの外貨準備があります
    この原油安が短期間にすめば、さして大きなダメージは受けないでしょう。

    ちなみにこないだあるイベントで佐藤優の顔を見て、質問者に
    対する反応応答、話し方などをを見て来ましたが、失望しましたね。
    よく、外交関係以外の本や人生相談の連載で、様々な価値観に寛容な
    姿勢をとっているので、外交の分野で分析能力がある人格者である
    と思っていましたが、「人格者」ではなかったですね。
    質問者の意図を、読み取ろうとせず、適当にはぐらかして、佐藤優自身がラジオなどで言ったことを、オウムのように繰り返すつまらない質疑応答でした。
    頭が良いというイメージが売りなので、答えに詰まって、適当にはぐらかしたのか、想像力の欠如なのか分かりませんが。
    少なくとも、彼の外交関係の分析以外の本や人生相談での発言、言動で
    「佐藤優が本気でそう思っているのか」という点については、信用しないほうがいいです。

  28. 初めてまして。非常に興味深く読ませて頂きました。

    私は神学校に通っている神学生です。その立場から佐藤の事を語らせて頂きます。

    最近、佐藤の書物を読んできっかけに神学校に入学される社会人を多く知っていますし、何かを期待されて社会人をリタイア若しくは、知的好奇心で神学校に入学するのは方が少なからずおられます。その人達の話を中心的に書きます。

    その方達の中には佐藤の神学部のストーリーに憧れて入学する社会人の方が多少おられます。神学校は伝道者教育をする場所でもありますから、そういった方が興味本位、面白半分でキリスト教を大学で学ぶと痛い目にあいます。

    特に佐藤優氏のキリスト教関係の書物はキリスト教の導入部分が多くて、それを読んだだけでキリスト教に詳しくなったような心持ちになるのだと思いますが、実態は違います。

    特に佐藤が語る危機神学、弁証法神学はドイツ語が不可欠ですし、それ以外にも歴史神学の流れや組織神学の体系的な神学の積み重ねの前提を学ばないと簡単ではありません。それ以外の神学であれば、神の死の神学や、解放の神学など多種多様でもっと面白い神学がたくさんあります。ですが、佐藤はその神学を積極的に紹介せず、危機神学を中心に据えて紹介してしまうので、あたかも神学が幅の狭い領域として紹介されているのは非常に問題だと感じています。
    また、プロテスタントの教派間の対立を知らずに、適当に神学校や大学に入学すると大失敗すると思います。
    なにより神学校は人間関係が複雑です。左右の力関係や、T神大やD志社大の関係、神学生同士の対立、どの教授に学ぶかなど、それこそ人たらしの技術が必要になります。それを相対的に判断しながら、神学校に入学する決断をしないといけません。

    プロテスタントの神学校の関係で述べると、日本基督教団という団体が一番大きい団体で、戦中の宗教団体法で強制的に宗教団体に各プロテスタントの教派がひとまとめにされた団体で、それが戦後、現在でも続いています。(戦後すぐに脱退した教派もあります。)

    しかし、複数の教派を一つの団体として運営するのは非常に難しいく、日本基督教団では教派対立(大学ごとの対立)が続いており、非常にめんどくさいです。教団総会が定期的に行われますが、毎回、総会が大荒れします。日本基督教団はイスラム国に殺された後藤さんや勿論、佐藤優、また、自民党の石破さんも日本基督教団の教会員だったりします。一部では左翼団体とか反日団体と叩かれていますが、とても左右、上下に幅が広い団体だと思います。

    認可大学を大体一言で述べます。参考にして頂くとありがたいです。

    T神大
    危機神学に一番強い。特にバルト研究では一歩上をいくが、そのその他は埃っぽいし、古臭い神学を教えている。説教が大好きなのか、説教学に力を入れすぎている。入学者が一学年一桁台。社会人入学多し。ネームバリューはない。一般的な総合大学ではない。伝道者なる前提の入学になる。上下関係きつ過ぎ。隣の大学ICUにディスられながら学生時代を過ごす。改革長老派。伝道者になるなら人事では一番教会があるが、以下略。教団執行部側。真面目な牧師が多いが、ヤバイやつも少しいる。全てにおいて保守的で神学的にも保守。

    D志社大
    最近、朝ドラで有名になる。人数が一番多い。一学年60人。総合大学。スポーツ推薦入学者多し、ネームバリュー狙いも多い。伝道者になる人も少なからずいる。満遍なく学べる。特に組織神学が強いが、その他は専門性に欠ける。教団総会ではここの教区が抗議し教区全員退出したりする。真面目な牧師は少ししかおらず、ヤバイ牧師が多い。全てにおいてリベラル。組合派。

    K学大
    アメフトが強い大学。一学年30人弱。伝道者コース、キリスト教の文化を学びたいコース2つで別れる。文化コースは所謂、総会大学の文学部のキリスト教学科を緩くした感じ。スポーツ推薦もいるし、ネームバリュー目当ての生徒も勿論もいる。満遍なく学べるが、組織神学、旧約聖書学には教授陣的にこれから弱くなる。実践神学、社会福祉には強い。特に宗教間対話においては一歩先を行く。最近はキリスト教文化に力を入れている。教派はメソジスト。中道左派。牧師は可もなく不可も無いが、ヤバイ牧師も少しからずいる。人事の教会が上の2つに比べると少なめ。

    ざっと、こんな感じです。認可大学はその他もありますが、その他は割愛します。

    是非とも佐藤の浅い知識を真に受けず実際の大学を見学してから色々考えて入学して下さい。そして神学は本当奥が深いです。

  29. はじめまして。記事を読ませていただきました。楽しく読ませてもらっています。ありがとうございます。時間がある時にまたゆっくり読みたいと思っています。
    最近は 佐藤優氏の顔写真が新書の帯どころか高校生用の学習参考書にまで貼り付けられており、頭を痛めておりました。この方の議論は、本来高等教育を受けた人間ならば即座に拒絶反応が出るような、悪質なものが多いように見えます。
    ソーカル事件以来、この手の人は、少しは減っても良いはずだとも思いましたが、人は学ばない生き物なのだと痛感する次第です。

  30. 初めまして、ブログ主さんの問題提起している内容とは直接関係ないことかもしれませんが、佐藤氏の言動が気になりましたのでコメントさせていただきます。
    佐藤氏が沖縄出身であるためか、最近沖縄の米軍基地移設問題に言及し、「中央政府」を一方的に批判しているのではないかと感じています。「WiLL」8月号にて岡本行夫氏と対談し、「いまは沖縄県内の場所はどこであっても不可能です。」と、まるで知事のごとく断言している姿に欺瞞を感じます。実際に普天間、辺野古の住民の本音を聞いたのでしょうか?皮膚感覚だけで、沖縄の総意であるかのような言動をするのは、一言論人として慎むべきではないか、沖縄県民に対して失礼だと思います。
    また、国防は国家の専権事項であって、ただの感情的な発言は破壊的であると思います。

  31. 初めまして。先日佐藤氏の「知性とは何か」を読みました。タイトルとは裏腹に「反知性主義」攻撃が主な内容でした。
    私には知性主義の正反対の概念が反知性主義とも考えていません。そもそも反知性主義なる思想がはっきり定まっているとも思えないからです。内田樹氏編集の日本の反知性主義も多くの方の多様な意見があり、森本あんり氏のアメリカの反知性主義ではむしろ反知性主義をある面では肯定的に評価しており、反知性主義=バカってわけではないからです。
    加えて、民主主義やマルクス主義のように、ある考え方を支持しているという意味の主義とはちょっとニュアンスが異なる響の言葉です。にも関わらずそのあたりの議論をすっ飛ばして、いきなり反知性主義の定義から佐藤氏は入っていきます。彼の反知性主義の定義と内田樹氏の定義は驚くほど似ており、本当に自分で考えたものなのかと首を傾げます。
    当該本は佐藤氏が批判対象を反知性主義者とレッテルを貼ることで攻撃の正当性を我田引水しているようにも受け止められる内容です。最初に麻生副総理の「ヒトラーのやり方」発言が槍玉に挙げられていますが、彼は反知性主義者ではなく、自分の発言がもたらす影響について事前に予想することの出来ない政治家にすぎないのです。
    読んでいて大変気になったのは、佐藤氏の持論なのか、誰かの著作からの引用なのか判然としない本の作り方です。出版社にすれば、通常の場合、引用文は文字のポイントを小さくする、段落を下げる、字体を変える、余白を設ける、等の方法を取って読者の混乱を防ぐはずです。これは引用文を多様する場合の一種のルールだと思います。
    ところが当該本は、この引用文の区別が判然とせず、よくよくページを捲ってみれば、佐藤氏が自分の言葉で書いた分量は全体の3分の1もないのではないかという内容でした。出版社は分かっているのにそうしていない処に某かの小賢しさを感じざるを得ませんでした。
    ここにも貴方様が主張されている知識の切り貼りと飛躍した結論の手法が見られます(後半は特に酷い)。研究者の論文であれば、引用が多くなるのは理解できますが、凡そ作家を自称する佐藤氏が他人の著作の引用をあたかも自分の言葉のように見せかけて自説を補強する手法は、原稿の文字数稼ぎに必死になっている様子が透けて見えて感心しません。
    彼は読書家なのかもしれませんが、知識人とは蔵書の数を誇るのではなく、吸収した知識を自分の言葉に翻訳して他人に正しく説明できる人であって、知識の切り貼りの達人ではないはずです。彼の著作の中に一つとして重厚感ある作品が無いのは、彼のその言葉に対する姿勢の限界を示しているのだと思います。

  32. 立花と佐藤の読書に関する新書を読んで、学際的な専門知識を持てるなんてこの方達は南方熊楠の生まれ変わりかなにか?と思っていたが、この記事を読んで目が覚めた気分。
    特定の人物を批評する際、どうしても批判になってしまいがちだが、流星群氏のこの記事は徹頭徹尾、誰が見ても批評だと思う。
    それにしても、こういう知の巨人という輩はいつまでも蔓延り続けるのだろうか..ありがたがって使うマスコミのせいだろうと思うが。

  33. はじめまして。通りすがりの佐藤氏ファンです。

    氏の「読書の技法」の巻頭の写真を拝見しますと、蔵書が万単位なのに嘘はなさそうですね。ただ、それらをきちっと読んでいるのかはそれこそ「神のみぞ知る」ですが(笑)

    さて、ここでは佐藤氏の論理の飛躍に関しましてひとつ。
    ユークリッド幾何学と非ユークリッド幾何学における平行線について、私が考えたことを書いてみたいと思います。

    ユークリッド幾何学においては交わることがない平行線ですが(“ですが”と書いてますが、スミマセン、「そうなんだ〜」レベルです)、非ユークリッド幾何学においては交わります。

    一方、本来異質であって交わるはずのない神と人とが、キリスト教においては、イエスという一点において交わったという“事実”がキリスト教徒にはある。

    キリスト教徒はそういう「内在的論理」(w)を持っていたからこそ、ユークリッド幾何学においては交わらないとされている平行線であっても、交わる可能性があるのではないかと考えること(作業仮説をたてること)が可能であった。そしてその結果、非ユークリッド幾何学にたどり着くことができた。

    つまり、キリスト教徒であるリーマンがそこに到達したのには以上のように必然性が存在するのである。ということなんじゃないのかなあ、と私は読みました。

    加えて、うさぎ氏のテキストですが、失礼ながら、うさぎ氏自身が新自由主義的ななんちゃらとか、資本論におけるかんちゃらとかを意識して書いているとは思えません。

    しかし、「読者は著者が意図した以上のことを解釈によって読みこめる」という、これも佐藤氏が指摘していることから考えれば(そもそもはディルタイによる解釈学から来ているそうです)、うさぎの著書を資本論をもって読み解くことも、たぬきの著書を純粋理性批判をもって読み解くことも、それは読者に委ねられているということになるのでしょう。

    ただそうなると、これも氏が指摘しているように、シュライエルマッハーにその陰が見られる、「解釈の過剰」という問題が頭をもたげます。

    それだけに、氏には「なぜそれとそれがつながるのか」という点に関しては、細心の注意(と説明)を払ってほしいところではありますね。

    さて、ここまで見てきてもお分かりのように、現時点での私の指摘の内容は、全て佐藤氏の手の内にあったものを右から左です。

    ですが、私が佐藤氏のファンであるのは、そこにあるわけではありません。むしろ、氏の著作を読むことで、氏が挙げている様々な著作にあたってみようと思えたところにあります。

    だからといって、今更インテリジェンス要員になれるわけでもなければ、哲学者にもなれはしないのですが。それでも、氏の論理に飛躍や破綻があるのなら、それを“批判”できるようになれたらいいなあ、と。そんな現在の野望です。

    そういう意味でも、このブログは刺激的でした。

  34. どうもこんにちは。
     佐藤優さんの議論の仕方は、彼が在ロシア日本大使館時代に私淑していたアレクサンドル・カザコフ氏に影響を受けたものと思われます。直観的に把握したものを説明すべく既存の権威を借りる、という方法です。この方法自体は或る意味伝統的で、内容さえ良ければまあ通用します。孔子だろうと孟子だろうと何だかんだでこんな調子の文章が多い。然るべき人が使えば抜群の効果を発揮しますから、方法論自体が間違っているというより、本人のセンスが欠けている、というべきかもしれません。
     尤も佐藤優さんの場合は胡散臭い議論も多いですが、なかなかいい線行ってんなという主張もありますし、方法論よりもむしろ良い主張と悪い主張をバランス良く取り上げ、彼のセンスを測ることで「佐藤優」論を組み立てるべきでしたね。その際、同様の方法論を使っている人物を取り上げるなどしつつ・・・。私自身は、佐藤さんのセンスに関しては可もなく不可もなく、という評価です。ただ、語学力は素晴らしいものをお持ちのようですね。その点は尊敬します。
     また、佐藤優さんが所謂こけおどし調で読者を恍惚の境地に誘う、というのは事実ですが、松岡修造さんが自身のトークを後からビデオで見て苦笑しているのと同様、佐藤優さんも自身のやり口は自覚しているでしょう。まあそうでもして著述していかないと食っていけませんからね。異色の経歴と雖も前科者ですから。私は、佐藤さんが「僕色々書いてるけど、生活のためなのよ。良識ある読者の方は差し引いて読んでくださいね。すみません」という後ろめたい本音を発しているのを感じます。佐藤さんもまだまだ血気盛んなようですし、もっと彼には頑張って欲しいですね。

  35. あなたは池田大作が創価学会をつくったとおもっていたのですか?

    • 流星群の何がデタラメか教えましょう!
      まず第一に三百代言であることです!
      第二に佐藤優さんの論理すら捉えらていないくせに、非難していること!
      第三に佐藤さんの意見に反対はするものの、自分の意見は言えていないこと(流星群は無知だから!) まず第一に精霊の件ですが、佐藤氏の著作の宗教改革の物語では聖霊となっています!
      ここで一応、確認しましょう!聖霊とはキリスト教で、父なる神、子なるキリストとともに三位一体を形成する第三の位格。人に宿り、啓示を与え、聖化へと導く。助け主。慰め主。精霊は、万物の根源をなすとされる不思議な気。つまり霊魂です!まずこの基本的なことで佐藤優さんが間違えるはずがない!だってキリスト教ですから!しかも神学部です!
      三位一体は当然、佐藤氏はわかっています、しかし、ただ、その論理がキリスト教徒以外にはわかりずらいだけだと言っている!三位一体の説明をします。
      キリスト教では、創造主である神(エホバ)と神の子キリスト聖なる神は一体であるとする。仏教では、仏は法身、応身、報身の三身が一体になることをいいます。
      あと佐藤優氏の蔵書は約4万冊で(2012年時点で、ということは現在は約6万冊ぐらいです。
      ヤン フスについては佐藤氏はチェコ語ができるので他の専門家よりも優れたものになります。
      本から書いてないことを読み取るのは当然です!町田健さんの言語の有限性と無限性を参照!逆に読み取らないのは流星群が読み取れないのです!論理哲学論考の流星群の説明は支離滅裂としています!
      つまり、まとめると佐藤氏を非難しているこのサイトはデマです!

  36. あなたは池田大作さんが創価学会を作ったと思っていたんですか?あなたの職業はなんですか?

  37. あなたは佐藤優さんの本を何冊読んだのですか?あと柄谷行人さんの必読書に選ばれた本を全部を読んだのですか?当然佐藤優さんの本を全部読んだのですか?あときちんと名乗り出てください

  38. あなたは人の批判を名指しでするのならばあなたの名前を言ってください。デタラメを言ってるのはあなたです

  39. あとね、人のこと非難してるけどねあなたまず批判という言葉を理解してくれますか?批判という言葉はね、ある一定の基準で評価することなんですよ。あなた読者がはかとか言ってるけどね、君の方が愚かだと思うよ。こういう人にね誤解を与えるようなサイトを作っている君の方は笑止千万だよ

  40. あとね、言語っていうのはね有限性が必ずつきまとうのですよ!あなたは佐藤氏の論理哲学論考のところを否定しますがねあなたの方が間違っていますよ❗️四方堂さんの意見はさすがだと思います。イエスと池田大作さんのことについての!

  41. あとね、佐藤優さんの蔵書約4万冊ですよ!さてーあなたのデマがどんどんひきだされますよー後、あなた佐藤氏を否定するくらいだからそれ以上本を当然読んでいますよね。あとね、自分で書いた文章くらい理解しましょうね!書いたことを書いていないとか言うのやめようね!

  42. あなた教養が意味ないと言うのですか?あなたが教養も知識も乏しいのに!あなた早く返信してください。逃げ泣いでください?あとあなた本書いたらどうですか?作家を否定する人は大抵無知でお馬鹿さんですけどね。

  43. あとね、あなた、佐藤氏の宗教改革の物語を読んだ方がいいですよ!それから最近の佐藤氏の著作を読んだ方がいいよ!あなたの無知がよくわかるから!

    • これ最初に読んだ時この人無知だなと僕は認識しました!

  44. あと佐藤氏の読書の技法も読んで方がいいですよ!あなたのバカみたいな本の読み方を解消できます。あときちんと、文春新書で新約聖書を解説している佐藤氏の著作もあります!みなさん佐藤氏は本物です

  45. あなたは資本論を説明してください。それで本を書き上げて見てください!無理でしょ!君自分ができないからって佐藤氏に嫉妬するのは良くないと思うよ!キリスト教についての本を書いてください!官僚の階級について説明してください!あなたには無理なんですよ!嫉妬しないでください!佐藤氏に

  46. 批判という言葉の意味理解してくれたかなー。君みたいな人がね、批判という言葉がね、大衆によってね、変わってしまったんだよ!辞書で調べてみればわかるけどね、第一義的な意味は根、物事に検討を加えてね、判定、評価することなんだよ!だから、必ずしもね批判っていうことばはね、非難という意味を内包しないんですよ!大衆が間違えずに使い過ぎてしまったからそういった意味に理解されてしまっているけどね!

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