ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』命題1~2.063を読解する

キルケゴール『死に至る病』冒頭を読解するという記事を以前書きましたが、その続きで、ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』の読解をやることにします。使うのは、岩波文庫の野矢茂樹訳です。

ただ、すべてを読むことはできないので、命題1~2.225(つまり命題3の手前)までを読みます。今回は命題1~2.063を読み、次回命題2.1~2.225を読みます。

追記: なぜ命題3の手前までなのかは、次回の読解を終えてに書きました。

前回同様、哲学書の文章を読解するもので、ウィトゲンシュタインの思想を説明するものではありません。それを望まれる方は、野矢茂樹『「論理哲学論考」を読む』をお読みください。『論理哲学論考』という難解な書物をいかに読み解くか、実践してみましょう。

『論理哲学論考』読解にあたっての凡例

  • 野矢茂樹訳には訳注が数多くつけられていますが、これは読みません。原文のみで読解することを目指します(注釈を読むことが悪いという意味ではありません。これについては、哲学書を「読む」を参照)。
  • 命題番号について。岩波文庫は縦書きであるので(「命題一」のように)漢数字が使われていますが、本ブログは横書きであることを考慮して、(命題1のように)算用数字に変更致しました。
  • 命題1~2.225とありますが、2.225以降の命題に適宜飛ぶことがあります。

目次

『論理哲学論考』命題1~2.0124……「対象」「事態」「事実」など基本概念の説明

1節では、「世界」や「対象」「事実」といった基本概念に関する説明が行われます。ただ、「事態」に関する詳しい説明は、1を越えて2節にて展開されます。

1 世界は成立していることがらの総体である。

1.1 世界は事実の総体であり、ものの総体ではない。

こんな具合で淡々と議論が始まるので、いきなり面喰ってしまう人もいるかと思います。が、ここで慌ててはいけません。命題を一つずつ読み解いてみましょう。

まず、命題1から「世界=成立していることがらの総体」だと分かります。次に命題1.1を見ると、「世界=事実の総体」「世界≠ものの総体」であることが分かります。この2つをあわせて考えると、「成立していることがら=事実」「事実≠もの」であることが導けます。

この1節に限らず『論理哲学論考』全般にいえることですが、文章の意味を考える前に、文章の構造を把握することが重要です。「成立していることがらって何?」「事実って何?」と意味を考えずに、「成立していることがらと事実は、どうやら同じものらしい」と理解することが大事です。

こんな具合で、命題1~2.011を整理してみましょう。

世界
成立していることがらの総体=事実の総体=論理空間の中にある諸事実≠ものの総体

事実
成立していることがら=諸事態の成立=論理空間の中にあるもの

事態
諸対象(もの)の結合
対象
もの=事態の構成要素

「事実」「事態」「対象」という三つの基本概念です。これらが「世界」を構成しており、この三つから、(後に出てくる)「像」や「命題」が作られることになります。

概念を整理した上で、今度は内容の理解に入りましょう。

例えば、「A君」というのは「対象」です。「A君」「林檎」「太陽」など、「世界」に存在するあらゆる「もの」が「対象」となります注1

この「A君」が、例えば「B君」「教室」という別の「対象」と結合するとします(「A君はB君と教室にいる」という具合に)。これは「事態」ですから、まだ「成立」しているかどうかは不明です。

現実に、「A君」は「B君」と「教室」にいるとしましょう。このとき、「事態」が成立しているので、これは「事実」となります。

別の例を考えてみます。「1+1=3」という命題を考えます。これは二つの「1」と「3」という「対象」が「結合」したものですね。これは「事態」ではありますが、1+1=3ではないので、「事態」の成立は起こらず、「事実」ではありません。

ここまで1~2.01の「対象」「事態」「事実」について整理してきましたが、読み飛ばした命題もありました。それを読みます。

1.11 世界は諸事実によって、そしてそれが事実のすべてであることによって、規定されている。

1.12 なぜなら、事実の総体は、何が成立しているのかを規定すると同時に、何が成立していないのかをも規定するからである。

「世界」は「事実の総体」なのですから、それによって「規定」されるというのは分かるでしょう。しかし、命題1.12はどういう意味なのか。

例えば、A~Dの4つの「事態」があるとしましょう。そして、A・Bの2つの「事態」だけが成立しており(つまり「事実」)、これが「事実の総体」であるとします。

「何が成立しているか」といえば、A・Bの2つでしょう。そして、事態は成立するか・しないかの二択ですから注2、A・Bが成立していると分かれば、C・Dが成立していない「事態」であることも分かります。

つまり、成立する事態すべてを列挙できれば、成立しない事態も判明するわけです。

1.13 論理空間の中にある諸事実、それが世界である。

「論理空間」という単語が突然出てきますが、これについては後で説明がありますので、今は措いておきます。

1.2 世界は諸事実へと解体される。

さらにいえば、「諸事実」は「対象」へと「解体される」のですから、「世界は諸事実へと、そして対象へと解体される」とも読めます。

1.21 他のすべてのことの成立・不成立を変えることなく、あることが成立していることも、成立していないことも、ありうる。

この文章は、ちょっと納得しがたいものでしょう。

まず、「すべてのこと」「あること」の「成立」「不成立」といっているように、これは「事態」を指します。つまり、「他の諸事態の成立・不成立を変えることなく、ある事態が成立していることも、成立していないことも、ありうる」と読み換えることができるわけです。

こう読み換えたところで、やはり意味が分からない。そして、なぜそういえるのか。

はっきりいえば、ここは『論理哲学論考』の中でも怪しい部分です。ですが、今すぐそれを示すことはできないので、一旦は飛ばしましょう。後に取り上げることにします。

追記: 2013年12月22日の記事で、命題1.21について書きました。

2.011 事態の構成要素になりうることは、ものにとって本質的である。

これは、次の命題2.012と関わる内容です。ですので、そちらを先に読みましょう。

2.012 論理においては何ひとつ偶然ではない。あるものがある事態のうちに現れるならば、その事態の可能性はすでにそのものにおいて先取りされていなければならない。

これを読むと、命題2.011の意味も分かるでしょう。

先ほど挙げた「A君はB君と教室にいる」で考えましょう。「A君」「B君」という対象が「A君はB君と教室にいる」という事態に現れているわけですが、「A君」「B君」は「偶然」にもこの「事態」に出現したわけではない。「A君」「B君」という対象のうちに、既に「教室にいる」という「可能性」が「先取り」されていなくてはならないのであり、それは「事態の構成要素になりうる」ということです。逆にいえば、「教室にいる」という「可能性」が考えられないような「対象」が、突然「教室にいる」という事態において現れることはありません。

命題2.0121は、これを詳しく説明しただけなので省略します。

命題2.0122は少し難解ですが、要は、「対象」を「事態」における可能性と分離して考えることはできないといっています。いっていることは命題2.012とほぼ同じですね。

次は命題2.0123ですが、これを後回しにして、先に命題2.01231を読んでみましょう。

2.01231 対象を捉えるために、たしかに私はその外的な性質を捉える必要はない。しかし、その内的な性質のすべてを捉えなければならない。

この「内的な性質」という言葉に説明がありませんが(訳注はありますが)、後の命題4.123にて説明が出てきます。

4.123 ある対象がその性質を持たないとは考えられないとき、それは内的性質である。(この青色とあの青色は、その本性上、より明るい/より暗いという内的関係にある。これら二つの対象がその関係に無いことは考えられない。)

「内的性質」と「内的関係」で微妙に意味が違っているのですが、いっていることはほとんど同じです。一つの「対象」の「性質」について考えるときは「内的性質」、複数の「対象」の「関係」について考えるときは「内的関係」という言葉が使われます。

「この青色」と「あの青色」が同じ明るさである可能性もあるのではないか、と思われるかもしれませんが、もちろん同じ明るさでも問題ありません。重要なのは、「この青色」と「あの青色」が何の「関係」も持たないことなど考えられないということです。

「外的な性質」には説明が本文中にないのですが、「内的性質」の逆と考えれば意味は分かるでしょう。ある対象がその性質を持たないことを考えられる性質のことです。

「外的な性質」「内的な性質」の意味が分かったところで、命題2.01231に戻りましょう。

「青色」の例でいうと、「青色」は、「青いペンキで塗られた」などの「性質」を持っていますが、青いペンキで塗られていない「青色」も存在するわけです。このとき、「青色」にとって、「青いペンキで塗られた」ということは「外的な性質」にすぎません。

一方、「他の青色と比べて明暗がある」などは「内的性質」です。青色が、それを持たないとは考えられないからです。

我々が「青色」を見るとき、どんな塗料で塗られたかといった「外的な性質」を捉える必要はありません(捉えてもよいのですが)。しかし、「青色」が必ず持たなくてはならない「内的な性質」だけは捉えなくてはならないのです。

ここで、先ほど飛ばした命題2.0123を読みます。

2.0123 私が対象を捉えるとき、私はまたそれが事態のうちに現れる全可能性をも捉える。

「事態のうちに現れる全可能性」とありますが、これが「内的な性質」を指していることは分かりますね。そして、(今まで議論してきた)「対象」のうちに「先取り」される「可能性」のことを指していることも分かるでしょう。

命題2・0124は、命題2.012をいい換えただけなので意味は分かるでしょう。

『論理哲学論考』命題2.013~2.0131……「論理空間」も図解すれば分かりやすい

次の命題2.013と2.0131は、命題1.3にて出てきた「論理空間」を考える上で重要です。

2.013 いかなるものも、いわば可能な事態の空間のうちにある。私は、この空間が空であると考えることはできるが、空間を欠いたものを考えることはできない。

2.0131 空間的対象は無限の空間のうちにあらねばならない。(空間点は対象を項とする座である。)(略)

命題2.013は意味が分かりにくいので、先に命題2.0131を考えます。

まず、「項」「座」という聞き慣れない単語が出てきます。これだけでは何のことが分からないでしょう。岩波文庫版では親切に訳注があるのですが、訳注がない哲学書もあります。

このように、日本語の訳文で意味が分からない場合、原文を調べてみることをお薦めします。原文の言語を知らなければ、英訳などでも結構です(ちなみに、『論理哲学論考』の原文はドイツ語です)。Tractatus Logico-Philosophicusというサイトから、命題2.0131のドイツ語原文と英訳を引用します。

Der räumliche Gegenstand muss im unendlichen Raume liegen. (Der Raumpunkt ist eine Argumentstelle.)

A spatial object must lie in infinite space. (A point in space is an argument place.)

「Raum」が「空間」、「punkt」が「点」という意味の単語なので、「Der Raumpunkt」が「空間点」にあたります(英訳の「A point in space」)。「ist」が英語の「is」に当たるので、後の「eine Argumentstelle」は英訳の「an argument place」に対応します。

Argumentstelleというのは、引数・項を意味するArgument、場所・地点を意味するstelleの合成語です。「argument place」とほぼ同じ意味ですね。

ここで日本語訳に戻ります。「項」「座」とありますが、「引数」「座標」と捉えたほうが分かりやすいでしょう。つまり、何らかの対象を引数として代入したとき、「空間」上の座標(「空間点」)が対応するということです。

何をいっているか分かりにくいでしょうが、もう少し我慢して、命題2.0131の続きを読んでみましょう。

2.0131 (略)視野内の斑点は必ずしも赤くある必要はないが、しかし色をもたねばならない。いわばそれは色空間に囲まれている。音はなんらかの高さを持ち、触角の対象は何らかの硬さをもつ、等々。

「色空間」という単語が当てられていますが、これは比喩的な言葉であって、そういう「空間」が物理的に存在しているわけではありません。斑点という「対象」は、色という「対象」と結びつくことによって「事態」を構成するわけですが、必ずしも「赤」色である必要はない。しかし、「色」を持っている必要がある。この「色」の様々な可能性が、「空間」の中にあまねく存在するというニュアンスです。

先の「引数」「座標」で考えます。「斑点」は、「赤」色以外にも色の可能性を持っている。つまり、色の「対象」は多くあるのですが、その中から一つの色を引数として代入すると、「空間」上の座標が決定されるのです。

ここまで来ても、やはり分かりにくいでしょう。そこで、図を用意致しました。以下の図1をご覧ください。

raumpunkt

まず、xyの座標平面が「色空間」と考えてください。「空間」なので、本当は三次元の座標空間で描いたほうがよいのですが、二次元のほうが分かりやすい(あと描きやすい)ので、平面にしました。

直線は、y=f(x)という関数で表現される「斑点」です。赤色の斑点・青色の斑点・緑色の斑点・黒色の斑点etc.といったすべての斑点の集合体と考えてください。

前述の通り、斑点は何らかの色を持たなくてはなりません。色を持たなくては、斑点が直線上のどこにあるのかが確定しないからです。なので、「赤」「青」などの色をとる必要があります。これが、横軸上の「赤」「青」で表現されています。

横軸上の座標が確定すれば、縦軸上の座標も確定します。このとき、斑点の直線上の位置が確定します。これが「空間点」です。

「色空間」というのは、上記のようなことです。そして、「斑点」という直線は「色空間」に囲まれており、何らかの色を座標としてとったとき、「空間点」が確定するのです。

そして、「色空間」にあるのは「斑点」に限りません。机でも料理でも何でも構いませんが、これらの「対象」は「色空間」に存在しており、(図1の直線のように)何らかの形で表されます。

ここまでの内容を、抽象的に表してみましょう。

色空間は、「対象」を引数として代入すると、何らかの色の可能性を出力するものの総体です。例えば、「斑点」を引数として代入すると、図1のような色の可能性が出力されるわけです。

音空間は、「対象」を引数として代入すると、何らかの音高の可能性を出力するものの総体です。例えば、図1の横軸を「周波数」にすれば、音高の可能性の直線ができあがります。

ここで、命題1.13にて読み飛ばした「論理空間」の概念に戻りましょう。

1.13 論理空間の中にある諸事実、それが世界である。

「論理空間」とは、対象を引数として代入したとき、論理の可能性を出力したものの総体です。「論理の可能性」とは、「対象」が「事態」のうちに現れる可能性のことです。その可能性のうち、成立したもの(すなわち「事実」)だけが「世界」となります。

ここまで来ると、今までの議論の意味が分かってくるのではないでしょうか。色空間とは、斑点が何らかの色をとりうるという「事態」の可能性であって、「論理空間」の一部にあたるのです。

『論理哲学論考』命題2.014~2.0141……「形式」

命題2.014では、「状況」という概念が登場します。これは、命題2.11で「諸事態の成立・不成立」と説明されています。「事実」は成立する「事態」のみを指すので、「状況」は、「事態」の「不成立」をも含む、より大きな概念といえます。命題2.014は、「状況」以外の内容については、今までの議論のまとめなので問題ないでしょう

次の命題2.0141では、「対象の形式」について述べられます。

2.0141 事態のうちに現れる可能性が対象の形式である。

「事態のうちに現れる可能性」は対象の内に「先取り」されるという話がありましたが、それをいい換えたものですね。

先ほどの「論理空間」で考えてみましょう。「事態のうちに現れる可能性」とは、「論理空間」内に存在する「可能性」のことです。斑点の例でいえば、とりうる色の可能性ですね。このとき、「斑点」という対象は、「色」という「対象の形式」を持っているといえるわけです。この命題は、後の命題2・0233、2・033と絡んできます。

『論理哲学論考』命題2.02~2.0201……「単純」「複合」

2.02 対象は単純である。

2.0201 複合的なものについての言明はいずれも、その構成要素についての言明と、その複合されたものを完全に記述する命題とに、分解されうる。

この「単純」「複合」とはどういう意味か。かなり後ですが、命題3.2と3.201にて説明があります。

3.2 思考は命題で表現される。そのさい、思考に含まれる諸対象に命題記号の諸要素が対応する。

3.201 この要素を私は「単純記号」と呼ぶ。そこにおいて命題は「完全に分析された」と言われる。

いきなり話が飛んでしまったので分かりづらいでしょうが、なるべく簡単に書きます。

「単純記号」とは、「命題」において「諸対象」に「対応」する「要素」のことです。なぜ「単純」なのかといえば、「対象」が「単純」だからです。そして、「単純記号」において「命題は『完全に分析された』」ことになります。

つまり、『論理哲学論考』でいわれる「単純」とは、ある「命題」や「要素」や「対象」が、他の「命題」や「要素」や「対象」に「分解」されないことだと分かります。逆にいえば、「複合」とは、ある「命題」や「要素」が、他の「命題」や「要素」に「分解」されることです。

具体的に考えてみましょう。

例えば、「赤い服を着た年老いた犬」というのは「複合」であって「対象」ではありません。というのは、これは、

  • 犬は年老いている。
  • 犬は服を着ている。
  • 服は赤い。

などの複数の「命題」に分解できるからであり、つまり複数の「対象」に分解できるからです。

一方、「犬」というのは、これ以上分解ができません。ですから、「犬」は対象といえるわけです。

ここまでを踏まえた上で、命題2.02と2.0201を読んでみます。

2.02 対象は単純である。

2.0201 複合的なものについての言明はいずれも、その構成要素についての言明と、その複合されたものを完全に記述する命題とに、分解されうる。

「対象は単純である」というのは、「対象」が「事実」「事態」における最小の単位だからですね。

そして、命題2.0201は、上記の「赤い服を着た年老いた犬」という命題と、それを分解して発生した三つの命題について述べたものです。三つの命題が「構成要素についての言明」であり、「赤い服を着た年老いた犬」が「複合されたものを完全に記述する命題」といえるわけです。

追記: 2013年12月22日の記事にて、「対象」の「単純」「複合」について書きました。

『論理哲学論考』命題2.021~2.0212……理解に苦しむ「実体」という概念

2.021 対象が世界の実体を形づくる。それゆえ対象は合成されたものではありえない。

「実体」(Substanz)という概念が突然出てきました。「実体」とは、古代ギリシアのアリストテレス以来、色々と議論の続く概念です。

正直にいって、この「実体」という概念はよく分かりません。というのも、『論理哲学論考』内で明確な説明がないからです。

命題2.0211~2.025にある「実体」の説明をかき集めると、以下の通りです。

  • 対象から作られるもの
  • 命題がそれ自体で意味を持つならば、存在しなくてはならないようなもの
  • 形式のみを規定しうるもの
  • 何が事実として存在しているかとは独立に存在するもの
  • 形式と内容からなるもの
  • 対象が存在するときにのみ、不変の形式を持つもの

この説明を読んだところで、やはり意味が分からないでしょう。ここは意見が割れる箇所で、米澤克夫「ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』の存在論と「永遠性」の概念」世界大百科事典の「分析哲学」の項では、「対象(実体)」と、「対象」=「実体」と捉えられています。一方、永井俊哉「前期ウィトゲンシュタイン」では、「対象」と「実体」とは異なると書かれています。野矢茂樹『「論理哲学論考」を読む』でも、明確な説明はありません。

この「実体」という概念について議論すると長くなるので、今は後回しにして、次に進むことにしましょう。また、今後出てくる「実体」の命題も、基本的には後回しにします。

追記: 2013年12月22日の記事にて、「実体」について書きました。

『論理哲学論考』命題2.022~2.0251……「写像形式」「論理形式」

命題2.022と2.023は、後に登場する「写像形式」と関係する話です。そのときまで措いておきましょう。

追記: 次回の命題2.15にて、命題2.022と2.023を取り上げました。

2.0231 (中略)世界のあり方は命題によってはじめて描写されるのであり、すなわち、諸対象の配列によってはじめて構成されるからである。

2.0232 ひとことで言うならば、対象は無色なのである。

命題2.0231の前半は、「実体」に関する議論なので、今は措きます。それよりも、この「諸対象の配列」という議論が重要です。

命題2.027以降で詳しく説明されますが、変化するのは「対象の配列」であって、「対象」ではありません。「対象の配列」とは、「対象」が並びあって「事態」を構成するということです。つまり、「対象の配列」による「事態」が変化するのであって、「対象」そのものは変化しない。そのことを、「対象は無色」と表現しています。

2・0233 同じ論理形式をもつ二つの対象は、それらの外的対象を除けば、ただそれらが別物であるということによってのみ、互いに区別される。

「論理形式」という言葉が登場します。「二つの対象」が「論理形式をもつ」とあるように、これは「対象」の形式であることが分かります。

「対象の形式」の議論が先ほど出てきましたが、あれと同じ話です。論理形式とは、「論理空間」内の「対象」が持つ可能性の総体を指すわけです。斑点が持つ「色」という「形式」は、「論理形式」の一部なのです。

ちなみに、命題4.023を読むと、「内的な性質〔すなわち論理形式〕」という言葉が出てきます。命題2.01231で出てきた「内的性質」とは、実は「論理形式」のことであったのです。

なお、「外的性質を除けば、ただそれらが別物であるということによってのみ、互いに区別される」とはどういうことでしょうか。

例えば、二つの色があるとしましょう。この二つの色(「対象」)は、どんな色にもなりうる(「事態」)という可能性を持つという意味で、共通の「形式」を持ちます。しかし、二つの色がそれぞれ赤色・青色になった場合、「事実」は異なります。このとき、赤色と青色をなぜ区別できるかというと、色という「外的性質」が異なるからです。「内的な性質」が同一である以上、それでは区別できません。

では、「外的性質を除」いた場合、両者を区別する方法があるのか? それは、「別者である」ということでしか区別できません。

命題2.02331は、命題2.0233の補足説明にすぎないので飛ばしましょう。また、命題2.024と2.025についても、「実体」に関する議論なので、一旦飛ばします。

2.0251 空間、時間、そして色(なんらかの色をもつということ)は対象の形式である。

「対象」が「空間」と「時間」という「形式」を持つことについては問題ないでしょう。例えば、斑点の「色」という形式も、斑点の表面という「空間」に現れたものです。

問題は、なぜここで「色」が出てくるのかということです。斑点であれば色が「形式」となるのは理解できますが、「音」や「触覚」など、「色」を持たない「対象」も存在するのですから。

この「色」は文字通りの意味ではなく、命題2.0232で出てきた「色」の比喩なのだ、という解釈もできるかもしれません。「無色」である「対象」が、「配列」によって「色」を持つこと(つまり「事態の構成要素になりうる」こと)を、「色」という形式で表現しているのでしょうか。

文字通りの色彩を表現しているのだ、という意見もあるでしょうが、私は、それでは無理があると思います。というのも、文字通りの色彩と捉えてしまうと、それは「空間」に属する事柄だからです。わざわざ、「空間」「時間」と別の「形式」として挙げる理由がありません。あと、「音」や「触覚」など、「色」を持たない「対象」の「形式」をどう説明するのかが分からなくなります。

なので、私は比喩的な「色」で捉えたほうがよいのではないかと考えています。

『論理哲学論考』命題2.026~2.0271

命題2.026の「世界の不変の形式」とは、「実体」のことです。これは一旦飛ばします。

次の命題2.027です。

2.027 不変なもの、存在し続けるもの、対象、これらは同一である。

この命題と次の命題2.0271は、前の命題2.0231と同じことを述べています。ただ、「対象」が「存在し続ける」という文言に違和感を抱く人は多いのではないでしょうか。

この「対象」は、「概念」「観念」などと読み換えたほうが分かりやすいかもしれません。

例えば、自動車が壊れたとします。このとき、自動車という「対象」が、壊れるという「事態」において現れます。

自動車という「対象」は壊れてしまったわけですが、では「対象」はなくなったのでしょうか。確かに、壊れはしましたが、我々は、自動車という言葉が指す「対象」について忘却したわけではありません。「自動車が壊れてしまった」というとき、壊れた自動車を見ながら、本来の自動車という「対象」を思い浮かべることができるはずです。

煙に巻いたような議論で、あまり納得できないかもしれません。正直、私もこの議論は怪しい部分があると思っていますので、後に詳しく取り上げます。

追記: 2013年12月22日の記事にて、「対象」の「不変」について書きました。

『論理哲学論考』命題2.0272~命題2.063

命題2.0272~2.031は、(「対象の配列」が「事態」を構成するという)今までの議論のまとめですね。その次は、

2・032 諸対象が事態において結合する仕方が事態の構造である。

2・033 構造の可能性が形式である。

二つの命題をあわせると、「形式=諸対象が事態において結合する仕方の可能性」と読めます。今まで登場した「対象の形式」は、「対象」が「事態」のうちに現れる可能性の総体であったわけですが、これとよく似たことをいっています。

ただ、「対象の形式」と違う点があります。「対象の形式」は、あくまで一つの「対象」(例えば斑点)の「形式」にすぎません。しかし、ここでいう「事態の構造の可能性」は、複数の「対象」が「事態において結合する仕方」のことです。

命題2.034ですが、「事態」が成立したものが「事実」なのですから、「事実の構造」が「諸事態の構造」から構成されます。

命題2.04は命題1.1や命題2.01を、命題2.05は命題1.12をまとめただけです。命題2.06と2.063も今までの議論をいい換えただけですね。

命題2.061と2.062ですが、命題1.21でも述べた通り、ここは後に取り上げましょう。

追記: 2013年12月22日の記事で、命題2.061と2.062について書きました。

さて、2節はさらに続くのですが、一旦ここで切ります。次回は2.1から読解します。

注釈

  1. この「もの」について、性質(「赤い」など)や関係は含まれるのか、という議論があります。これについては議論が分かれますので、後に取り上げます。 本文に戻る
  2. なぜ「事態は成立するか・しないかの二択」なのかというと、排中律というものが存在するからです。「Pであるか、Pでないかのいずれかである」という法則です。もっとも、これを認めない立場もあるのですが(直観主義など)、ウィトゲンシュタインは論理主義の立場をとるので、排中律は存在すると考えます。このへんは数学基礎論の話になるので、興味がある方は「直観主義」「論理主義」などで調べてみてください。 本文に戻る

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