林紀子、白木葉子について──「あしたのジョー」論その五

「あしたのジョー」論第五回です。今回は、ヒロインである林紀子と白木葉子について説明します。

※「あしたのジョー」論は全十三回です。全記事一覧をご覧になりたい方は、タグ「あしたのジョー」か、記事「『あしたのジョー』論」をご覧ください。

この記事の要旨

  • 「あしたのジョー」にヒロインが登場するのは、拳ではなく言葉でジョーとコミュニケーションをとる女性キャラクターを登場させることで、読者とジョーのコミュニケーションを図ろうとするからである。
  • 林紀子は小市民的幸せを望むドヤ街の代表的人物として登場し、ボクシングにのめりこむカーロス戦後はジョーから離れていった。
  • 白木葉子はボクシングを好む一方、ボクシングにまつわる醜さから目を背ける傾向がある。ジョーとの関わりを通じて、醜さから目を背けないようになっていった。
  • ジョーがホセ戦後に葉子にグラブを渡したのは、ともにボクシングの道を歩んできた葉子への友情の証である。グラブとは、言葉ではなく拳でコミュニケーションをとるボクサーの象徴だからである。

目次

なぜ「あしたのジョー」にヒロインが必要なのか

「あしたのジョー」は、主人公・矢吹丈(ジョー)が多くのボクサーと試合を重ね、友情を育んでゆく、非常に男臭い作品です。

作中でもボクシングとは男の競技だとされており(第一回参照)、女が入りこむことができない世界です。

そんな男臭い「あしたのジョー」にて、一際目立つ女性キャラクターが二人存在します。林紀子と白木葉子です。

男の作品に、なぜ女が登場する必要があるのでしょうか? 単に華を添えたいというファンサービスなのでしょうか? まずこの疑問から考えてみましょう。

私の考えでは、紀子と葉子という女キャラクターが登場することには必然性があります。それは、(第一回で説明した)「(言葉でなく)拳で語らうこと」という考えと関係があります。

「あしたのジョー」では、言葉によるコミュニケーションよりも、拳によるコミュニケーションのほうが互いを理解しあえることになっています。現代の日本にも存在するかもしれませんが、お喋りであること、言葉が多いことは軽薄だ、という考えがあるのです。葉子が少年院で力石徹にいった「男のおしゃべりなんて最低よ!」というセリフは最たるものです。

確かに、ジョーはボクシングの試合を通じて、「百万語のべたついた友情ごっこに勝る男と男の魂の語らい」をすることができたのでしょう。ですから、拳によるコミュニケーションに価値がないわけではない。

しかし、これではジョーとボクサーたちは理解しあうことができても、「あしたのジョー」読者とジョーが理解しあうことはできません。読者はジョーと殴りあうことができないので、拳によるコミュニケーションができないからです。

そこで、「あしたのジョー」読者にジョーを理解してもらうために、ジョーと殴りあいをすることなく心を通わせる人間が必要になります。それは女と子供、つまり紀子・葉子とドヤ街のチビ連です。彼ら(彼女ら)を通じて、読者はジョーという人間を理解することになります。

事実、ジョーが語った台詞のうち、ジョーの考えを端的に示すものの多くは、紀子や葉子に対して語られたものです。有名な「まっ白な灰だけが残る」発言は、紀子との会話なくしては出てきませんでした。

ジョーとの距離の近さや新密度でいえば、二人のヒロインよりも、力石やカーロス、段平や西のほうが上です。しかし、ジョーは彼ら男とは言葉をあまり交わさず、拳や目線・雰囲気でコミュニケーションをとってしまう。それでは彼らは理解しあえても、読者とジョーが理解しあえない。ですから、ジョーと拳でコミュニケーションをとることがなく、言葉でコミュニケーションをする二人のヒロインが必要になるのです。

林紀子について

「良妻賢母」「小市民」

葉子に比べると、紀子は非常に分かりやすいキャラクターです。乾物屋の働き者の一人娘、丹下ジムの家事を甲斐甲斐しく行う女の子……と典型的な「良妻賢母」です(西と結婚するのは物語の終盤ですが)。また、凄絶なボクシングよりも平凡な幸せを望む小市民的、ドヤ街的人物でもあります。

彼女の考えを端的に表しているのは、次の台詞でしょう。一つ目は、ジョーが南郷との試合で反則負けした後の丹下ジムでの台詞。

なにもボクシングばかりが人生じゃないわ
ちっぽけな林屋ですけど
つつましく地道に
下町の人たちに愛されながら
働く毎日だって……

これに対し、ジョーは「そこにも人生はあるだろう ほのぼのとした幸福ってやつがよ」「しかしとにかくこの矢吹丈にはご縁がねえってこった!」ときっぱり断っています。

ちなみにこの場面ですが、アニメ「あしたのジョー」の第65話「リングある限り」では会話が大きく改変されており、紀子が「男なら引き際が肝心じゃないの」「矢吹君 ボクシング以外のことを考えたことがあるの」とはっきり引退を勧めています。ジョーは「力石が死んでからはそうだな」「今の俺からボクシングを引いたら何も残らねえ」といっています。力石死後のジョーはボクシング以外に生きる道がないことが強調されていますね。

次の台詞は、カーロス戦後のジョーとのデート中の台詞。

だいいちボクシングはスポーツなんでしょう
スポーツに負い目だの死刑だのって感覚が
すでにおかしいわ!

第一回で説明した通り、「あしたのジョー」の世界では、ボクシングは単なる「スポーツ」ではなく、「魂の語らい」です。それを理解できないのは、紀子がボクシングをやらない女だからです。

次の台詞もデート中の台詞です。あの「まっ白な灰だけが残る」という言葉を引き出した重要な台詞です。

矢吹くんは……寂しくないの?
同じ年頃の青年が
海に山に
恋人と連れ立って
青春を謳歌しているというのに
(中略)
みじめだわ 悲惨だわ
青春と呼ぶには
あまりにも暗すぎるわ!

このデートの後、紀子はジョーについてゆけないことを悟り、身を退くのですが、そんな彼女も最初はジョーのボクシングを応援していました。ジョーがプロ・テストに合格した後、ジョーと西のためにトランクスまで作っていました。力石戦前までは、ジョーの試合を観戦しに行っていたほどです

しかし、原島龍戦でジョーが嘔吐して負けたとき、紀子は段平に「もう彼をボクシングから足を洗わせて」「人間じゃないわ」「かませ犬みたい」といっています。この台詞は上の「みじめ」「悲惨」とほぼ同じですね。

紀子がジョーから離れていった最大の理由は、「まっ白な灰になる」というジョーの考えについてゆけなくなったこともありますが、何より、ボクシングという世界を理解できなかったことにあります。ボクサーにとってボクシングとは「魂の語らい」をできる最高の場なのですが、彼女にはそれが「みじめ」「悲惨」に見えてしまうからです。

なぜ紀子はジョーから身を退いたのか

紀子がジョーから身を退いた理由ですが、実は原作とアニメ「あしたのジョー2」では少し異なります。

原作のほうはごく簡単で、ジョーについてゆこうとすれば、自分の考える「青春」や平凡な幸せを捨てなくてはならないからです。紀子にはそれを捨ててまでジョーについてゆく覚悟はなかったので、身を退いた後はジョーや丹下ジムに一切関わらなくなり、最後は西と結婚するのです。

アニメだと、デートの話はほぼ原作通りなのですが、その後もちょくちょくジョーとの関わりがあります。丹下ジムにも足を運びますし、ジョーから身を退いたものの、ジョーとの関わりを捨てたわけではないのです。

アニメでは、ジョーと紀子のオリジナルの会話が追加されています。第37話 「野性児その名は…ハリマオ」にて、紀子が「白い灰に……ずるい……」というのです。

あと、第46話「凄絶… 果てしなき死闘」で出てくるジョーと紀子の会話の回想で、「旅に出てしまいそう」「でも……行ってほしくない」といいます。回想の後、ジョーとホセの試合をじれったそう(?)に見る紀子がいます。

原作とアニメ版の紀子の違いは、ジョーへの恋愛感情を断ち切った後、ジョーという人間にどう接するかという違いだと思います。

原作の紀子は、ジョーへの恋愛感情を断ち切ると同時に、ジョーとの関係もほぼ断ち切ってしまいました(このデート以降、ジョーと紀子の会話はありません)。ジョーにとってボクシングが人生である以上、ボクシングを否定する自分は、ジョーとは違う道を歩むしかないと考えたのでしょう。

一方、アニメ版の紀子は、西との結婚を決めた後でも、ジョーへの思いを断ち切ったわけではないように見えます。「思い」というのは恋愛感情的なものではなく、ドヤ街の仲間としての思いです。「男女としては道を違えることになったが、苦難を共にしてきた仲間として、ジョーのボクシングを応援する」という感じでしょうか。

「白い灰に……ずるい……」という台詞の真意は不明ですが、恐らく、「矢吹くんだけがまっ白な灰になるのはずるい」という意味でしょう。これは「まっ白な灰」になるのを羨んでいるというより、(紀子自身も含め)ドヤ街の人たちを置いてきぼりにして、自分一人だけで「まっ白な灰」になるのは「ずるい」、もっといえば水臭いという感じではないでしょうか。ジョーが世界チャンピオンになったという喜びはジョーとドヤ街の皆で共有できますが、「まっ白な灰」になるという喜びはジョーだけにしか味わえないからです。

原作とアニメ版の紀子の態度の違いは、西との結婚式での顔に現れています。原作ではジョーが結婚式のスピーチをした後、紀子が「……」と沈黙するコマがあるのですが、このときの紀子の顔が、何ともいえない神妙な表情なのです。優しさとも冷たさともとれない、別の世界に行ってしまったジョーをただ眺めているだけのような表情です。

林紀子と西寛一との結婚式、矢吹丈のスピーチの後の紀子の顔(原作)

林紀子と西寛一との結婚式、矢吹丈のスピーチの後の紀子の顔(原作)

この結婚式はアニメでは第41話「ホセ来日…闘いの日はせまった」にて放送されました。この紀子の顔も再現されたのですが、原作に比べると、少し悲しそうな表情に見えます。眉毛が八の字ぎみで目の潤みがあることから、原作の無表情とは違うのです。アニメではジョーとの関わりを断ち切っていないので、ジョーとの恋が終わったことを改めて噛み締めているのでしょうか。

林紀子と西寛一との結婚式、矢吹丈のスピーチの後の紀子の顔(アニメ版)

林紀子と西寛一との結婚式、矢吹丈のスピーチの後の紀子の顔(アニメ版)

白木葉子について

「令嬢らしさ」と「令嬢らしくなさ」

紀子に比べると、葉子は複雑な側面を持つキャラクターです。彼女は、一言で要約すれば「白木財閥の誰からも愛される美人令嬢」なのですが、「令嬢」にふさわしい設定も持っている一方、「令嬢」らしからぬ一面も持っている。「良妻賢母」「小市民」的一面しか持たない紀子に比べると、一筋縄ではゆかない女です。

彼女の「令嬢」的な側面はというと、

  • 美しいものを好み、醜いものを嫌うこと
  • 他人に対する支配欲が強いこと
  • 他人に対する罪悪感に乏しいこと

です。

一方「令嬢」らしからぬ側面は、ボクシングを好むことです。

まずは「令嬢」的な側面から説明しましょう。

美しいものを好み、醜いものを嫌うこと

前述の通り、葉子は「美人令嬢」です。少年院の慰問劇のとき、西が「一六、七のごっつい美少女」だといっていますし、少年院収容生たちも力石も、葉子を褒め称えます。

少年院に限らず、家庭内でも葉子は愛されています。祖父の幹之介は葉子を甘やかしていますし、白木財閥の使用人や白木ジムのメンバーは、誰も彼女に諫言などしません。葉子を叱る立場にある両親は、白木家にはほとんど登場しません(唯一登場するのは、ジョーv.s.力石戦の前、白木家の食事の場面だけです)。

このように、誰からも「かわいい」「美しい」と褒められ、愛される葉子が、自分と同じく美しいものを好み、反対の醜いものを嫌うようになるのは自然なことでしょう。彼女は、醜いもの、汚いものを目にすると、目を背ける傾向があります。台詞の列挙になりますが、彼女が目を背ける台詞を引用してゆきます。

泥沼もいいとこね……あの三人!
身から出た錆とはいえ……どうにもやりきれなくなってくるわ
あんな みじめな人間見ていると

これは、プロ・テスト前にジョー・西・段平が白木ボクシングクラブに行ったときの台詞です。ジョーと西が白木ジムに勧誘されるのですが、それを断ったジョーが段平と乱闘になり、汚く揉みくちゃになる三人を見て葉子がいった台詞です。

わたしはもう見ていられないのよ!
あなたが日に日にやせ細っていく姿を……!
目が落ちくぼんでいく
その顔を……!

ジョーv.s.ウルフ金串戦がジョーの勝利に終わった後、力石が減量を始めた頃の台詞。「あなた」(力石)が減量に苦しむ様を「見ていられな」くなり、なぜ力石がジョーとの試合にこだわるのかを問いただす場面です。

うちの力石くんと戦った時―─
あの時の彼は
美しいほど凶暴で精悍な野獣そのものだった
でもいまの彼は
老いさらばえ疲れ切った一匹のやせイヌにすぎないわ
あまりにもみじめったらしくて
目をそむけたくなるの

力石の死後、ジョーv.s.南郷戦で葉子がカーロス・リベラとロバートにいった言葉。この頃のジョーはテンプルが打てずに不調ですから、「野獣」のように「美し」くなく、「目をそむけたくなる」といっています。

どういう訳だか
きょうはあまり
試合を見る気がしないの……
矢吹くんにとっては
初めてタイトルに挑戦する大切な試合なのに
申し訳ないけど
今夜はわたし帰ります
がんばってね
苦しいでしょうけど……

金竜飛戦の前に試合控室に来た葉子が、ジョーに花束だけを渡して帰ってしまう場面です。なぜ「試合を見る気がしない」のかは説明されていませんが、ジョーが減量に苦しんでいたことから、ジョーの試合が醜いものになるから見たくないのだと予想できます。

あと、台詞は引用しませんが、ジョーの試合途中で葉子が目を背ける場面が三回あります。少年院でのジョーv.s.力石の試合と、ジョーv.s.カーロスの公式戦10回戦と、ジョーv.s.ホセの世界タイトルマッチ15回戦です。いずれも、ジョーが試合でやられる醜い姿に目を背け、その場を去ろうとしています。

他人に対する支配欲が強いこと

少年院教官によると、白木財閥は「政界 財界で泣く子もだまる大立て者」だそうです。ジョーv.s.タイガー尾崎戦を組むとき、日本ボクシングコミッショナーですら白木財閥を恐れていたことから、相当の権力・財力を持っていることが分かります。葉子はそんな財閥の一人娘ですから、彼女自身も大変な影響力・財力を持っています。

葉子が影響力を発揮するのは、彼女自身の力というより、後ろ盾である白木財閥の力を使ったものであることがほとんどです。例えば、

  • ベネズエラからカーロス・リベラを招聘した
  • ホセ・メンドーサと日本における試合興行権の独占契約を結んだ
  • 東南アジア全域からボクサーを探し、マレーシアからハリマオを招聘した

こうした行動には相当の金や労力がかかっています(ホセとの契約では、5万ドル(当時の1500万円))が、彼女自身が稼いだ金ではなく、白木財閥の金でしょう。ボクサーを探したり呼んでくるのも彼女自身ではなく、彼女の命令で現地に飛んだ白木財閥や白木ジムの人たちです。

あと、実現しませんでしたが、ジョーv.s.力石戦の減量中、力石が水を飲みそうになったとき、葉子は「減量に失敗したのなら わたし おじいさまにお話しして試合のほうはどんな手を打ってでも中止させてあげます」といっています。あくまで白木財閥頼りなのです。

葉子からすれば、「頼る」という感覚すらないのかもしれません。前に述べたように、白木家は葉子をとても甘やかして育てていますから、葉子のいうことを聞くのが当然です。白木家以外の人間も、白木財閥の一人娘のいうことを聞かないわけにはいかないので、必然的に彼女のいうことを聞かない人間が誰もいない。彼女は財閥を「頼っている」のではなく、財閥が彼女の命令を聞くのが当然なのです。

こうした環境で育った葉子は、他人に対する支配欲を強めてゆきます。

他人に対する罪悪感に乏しいこと

上で述べたような他人支配が当たり前であるせいか、自分が他人を支配することに対して、葉子は罪悪感をほとんど持ちません。彼女が唯一罪悪感を抱いたのは、力石徹ぐらいでしょう。

葉子はジョーと力石徹、力石の死後はジョーを支援するために様々な手を打ちますが、その過程で多くのボクサーを犠牲にしています。

カーロス・リベラを日本に招聘したときは、彼を南郷・原島龍・タイガー尾崎と戦わせ、ジョーを復活させるための、いわば「生け贄」にします。カーロスの公開スパーリングを実施したときは白木ジムのボクサーに相手をさせ、ボクサーが満身創痍になっても「白木ジムが壊れたおもちゃ箱みたいになってしまう」と平然としています。そのカーロスがジョーと戦って壊れても、「かわいそうなカーロス」と他人事です。カーロスが壊されたのはホセが原因だと後に分かるので、葉子に責任はないともいえますが……。

ハリマオを来日させたときは、彼を東洋ランカー入りさせるために横倉ジムの滝川修平と戦わせ、滝川を「生け贄」にします。そのハリマオもジョーを復活させるための「生け贄」として捧げます。

もちろん、彼女はプロモーターとしての仕事をしているだけだから、責任を感じる必要はないともいえます。しかし、かつては「わたしが力石くんを殺したのよ……」とまで思い詰めた繊細な人間が、自分が原因で廃人となっていったボクサーたちに対して何も感じないのはどういうことでしょうか。ウルフ金串や力石、カーロスに対して「負い目」を感じるジョーのほうがよほど繊細です。

この葉子の鈍感さは、財閥令嬢という立場にあり、他人の運命を支配することが当たり前だからでしょう。ジョーもいっていますが、自分の目的を達成するために、他人の「運命の曲がり角」で待ち伏せる「悪魔みたいな女」です。

ボクシングを好むこと

次に、彼女の「令嬢」らしからぬ一面です。

別に女性がボクシングをしても観戦してもよいのですが、「あしたのジョー」の世界では、女はボクシングなどすべきではないということになっています。幹之介がいうように、「色白き娘は家でおとなしく花でも生けているほうが似合っとる」のです(ジョーv.s.殿谷浩介戦の後の台詞)。

葉子は女だてらにボクシングを嗜み、ボクシングジムの会長などもしているわけですが、彼女にはある欠点があります。それはこれから説明します。

自分の気持ちに無自覚であること

彼女の令嬢気質に由来するのかは不明ですが、葉子は自分の気持ちについて無自覚なところがあります。

少年院でのジョーと力石の試合中、葉子はジョーが「猛牛」であることを感じます。彼女は力石が圧倒的有利で試合を進めていることを理解してはいるのですが、なぜか心に不安を抱えている。それが何なのか、本人は自覚していないのです。

この傾向はジョーのプロデビュー後に如実に現れます。葉子は、力石も幹之介もジョーのことばかり話すのを不快に思うのですが、そういう葉子自身が最もジョーを恐れているではないかと力石に指摘されます。

また、彼女はジョーの初試合後に花束を贈るのですが、「葬式の花よ」と口ではいいながら、めでたい花ばかりであることを力石に指摘されます(ちなみに、アニメ「あしたのジョー」でも葉子は花束を贈りますが、力石との会話は省略されました。あと、「葬式の花」を贈るのは葉子でなく力石で、初試合後ではなく第24話「帰えってきたドヤ街」のドヤ街に帰ってきた後です)。

葉子はジョーのプロ復帰後の初試合を見て彼が完全に立ち直っていないと感じますが、なぜそう感じるのかは分かっていません。こんな具合で、彼女はジョーの状態を見抜くことは得意なのですが、自分の気持ちを見抜くことは不得手なのです。

「令嬢」と「ボクシングファン」の矛盾

前述の通り、彼女はボクシングが好きな女性です。しかし、その一方で、彼女には美しいものを好み、醜いものを嫌うという「令嬢」的一面がある。この二つが矛盾してしまうのです。

第一回で説明しましたが、ボクシングは「本能に打ち勝つこと」、「拳で語らうこと」ですから、美しいだけでなく、醜いことも出てくる。殴られて醜くなった顔面、血みどろになった顔、減量苦で痩せさらばえた体など、ボクシングをやる以上は醜いものから目を背けることができません。

しかし、彼女は醜いものが嫌いなので、ボクシングにおいて醜い場面に出くわすと、目を背けてしまうのです。彼女はボクシング自体が好きなのではなく、ボクシングの美しい一面だけが好きなのです。

それがよく現れているのが、カーロス戦前後のジョーへの接し方です。テンプルを打てなくなって不調であったジョーに対し、葉子はカーロスを呼んで試合をさせるだけで、直接何もしていません。丹下ジムに行ったり、ドサ周りの草拳闘を見に行ったりすると、醜いジョーを見るはめになるからです。

一方、ジョーv.s.カーロスの二度目のスパーリング(丹下ジム)で行われたとき、彼女はジョーが「野獣」に戻ってゆく姿を見て恍惚としています。醜かった頃のジョーには目もくれなかったのに、美しくなったジョーを見ると目が釘付けです。彼女は現金なのですね。

葉子にとっての「矢吹丈」

ここまでの葉子の性格を踏まえた上で、葉子にとっての「矢吹丈」とは何なのかを考えてみましょう。

それは「美しい野獣のボクサー」であり、「自分の欠点・矛盾をはっきりと指摘した初めての人間」です。葉子はジョーのことを前者として捉えていたでしょうが、無意識的には、後者のほうが大きな意味を持っていたと思われます。

前述の通り、葉子は誰からも愛された人間です。そんな彼女に対し、初めて反抗したのがジョーです。寄付金詐欺のとき、彼女の慈善精神に潜む自己欺瞞を見抜いた上に、少年院でのジョーv.s.力石戦で、醜いものから逃げ出そうとする彼女を引き止めました。自己欺瞞を指摘されたときに葉子が震え上がっていたこと、引き止められた葉子が結局はその場にとどまったことから、ジョーの言葉は彼女に大きな影響を与えたはずです。

そして試合後、彼女は大きな変化を遂げます。「日曜日の人」を止め、毎日少年院に通うことになるのです。これはどういうことでしょうか。

ふだんの日……
ムンムンするような
収容生のみなさんの生活の匂いにふれ
できることならお役にも
立ちたいと思って……

彼女は財閥令嬢ですから、少年院のような「ムンムンする」場所、はっきりいえば汚らしく暑苦しい場所になど来たことがなかったでしょうし、美しいものを好む彼女のこと、来たくありません。ですから、日曜日に慰問劇のためだけに、しかも演劇のヒロインという美しい役を演じるために来ていたのです。

しかし、醜いものから目を背ける自分の矛盾をジョーに指摘され、葉子は醜いものにも目を向けるようになる。だから、ヒロインではなくふだんの格好で、日曜日以外に来るようになったのです。

おもしろいのは、少年院に来たこの日、葉子は力石よりも前にジョーに会いにいっているのです(ジョーは開墾をしていたところ)。もちろん、彼女にとってはジョーよりも力石のほうが大事ではあったでしょうが、自分に従うだけの力石よりも、自分に刃向い、自分を変えてしまったジョーという人間が気になり始めたことは確かです。

なぜジョーと葉子はすれ違うのか

紀子と違って、葉子はよくジョーといい争いをする人です。なぜでしょうか。

カーロス戦後のジョーの台詞で、

なぜ あんたと会う度に
まともに話し合い
まともに別れることができねえんだ!

とあるように、ジョーとて好き好んで葉子と争いたいわけではないことが分かります。客観的に見てどうかは別として、少なくともジョー自身は、争いの原因を葉子が作っていると思っているわけです。

その理由の一つは、ジョーが葉子に対して悪印象を抱き続けているからです。

  • 葉子がジョーに十万円を寄付したとき、ジョーは「自己満足を買える」「うわべだけの愛」と非難する。
  • 葉子がジョーの裁判に来ていたとき、ジョーは葉子の視線を「さげすみに満ちていた」と解釈する。
  • 葉子がカーロス戦のファイトマネーを余分に渡したとき、ジョーは「かわいそう」という憐れみの金だと解釈し、葉子に怒る。
  • 段平が「なんだかんだいうても葉子さんはおめえのことを気に掛けてくださってるんだ」といったとき、ジョーは「そんなこたあ あの女にとっちゃどうだっていいことさ」と葉子の好意を否定する。

裁判所で葉子から「さげすみ」の視線を受けたことを、ジョーは「一生忘れない」といっています。あのときから、ジョーは葉子が自分に好意を向けている発想を完全に否定し、葉子を金とビジネスだけの冷血女として捉えるようになったのでしょう。だから、彼は葉子のやることなすことすべてを、金絡みとかビジネス絡みに曲解するのです。

ジョーの祝賀パーティーにてホセが登場したことがあります。ジョーが葉子が原因だろうと聞いたとき、葉子は「矢吹くんがこうして立派に立ち直った現在もうそんな小細工は必要ないじゃないの」と答えるのですが、このときのジョーが意外そうな戸惑ったような表情なのです。彼は、葉子が金儲けのためにカーロスを呼んだとしか思っておらず、自分のために呼んだとは全く思っていなかったので驚いたのでしょう。

ただ、ジョーが葉子に偏見を持っていることだけが原因でもない。もう一つの原因は、葉子が自分の本心をほとんど話さないことにあります。

  • 葉子がカーロス・リベラをベネズエラから招聘したとき
  • 葉子がハワイでホセ・メンドーサの日本興行権を買ったとき
  • 葉子がホセ・メンドーサの日本興行権をテレビ関東に譲渡する代わりに、ジョーの東洋タイトルマッチ防衛戦を提案したとき
  • 葉子がカーロス・リベラの頭蓋骨のレントゲン写真と、カーロスが廃人となった理由を記した手紙を送ってきたとき
  • 葉子がホセ戦前にジョーがパンチドランカー症候群であることを明かしたとき

ジョーの東洋タイトルマッチ防衛戦の提案が分かりやすいのですが、ジョーが「理由をいえ」と聞いているのに、葉子は「わたしは大橋さんとお話ししているのよ」と全く答える気がありません。こんな調子で、葉子はジョーに対して本心や理由を一切明かさず、ただ自分本位に事態を進めてゆくのです。ジョーはたびたび「何を考えてやがるんだ」と葉子にいっていますが、これではジョーが理解できないのは当然です。

私の考えでは、ジョーと葉子に決定的なすれ違いが生じたのがカーロスの公式戦10回戦以降です。

こんな葉子が、初めてジョーに本心を明かしたのが、世界タイトルマッチ前の告白です。あそこで葉子は初めて、自分の本心をジョーに告げたのです。そして、今まで一切リングサイドでジョーを応援したことのない葉子が、初めてリングサイドで応援の言葉をかけたのが、ホセ戦でもあります。

いつから葉子はジョーが好きになったのか

葉子がジョーへの思いに気がついたのがホセ戦の直前だそうですが、いつ頃からジョーを愛していたのかはよく分かりません。作中ではっきりとした描写がないからです。

私の想像ですが、「気づいたのは最近だけど」と葉子はいっていますが、実はこのときまで気づいていなかったのではと思います。告白後、葉子は自分の口を押さえて、自分でも驚いたような表情をするからです。葉子は「好き」といった後で、実は自分はジョーが好きであったことに気づいたのではないでしょうか。

ジョーに対する葉子の思いは、「ボクサーとしてのジョーに対する思い」と「人間としてのジョーに対する思い」で分けると考えやすい。葉子の思いは最初は前者でしたが、徐々に後者に偏ってゆくのです。

前述の通り、少年院での力石との試合後、葉子は力石でなくジョーに先に会いに行っています。この頃はまだ「好き」ではなかったでしょうが、ある意味で力石よりも気になる存在であったのは確かでしょう。

その後もジョーの初試合後に祝いの花束を贈ったり(花束を事前に用意していたということですね)、ウルフ金串との試合の1ラウンド後に安心した顔を見せたりと、口ではジョーを軽視しながらも応援していた節がある。ただ、この頃は「力石が倒すべきボクサー」としての思いで、「後に力石が倒すためには負けてほしくない」という思いであったのではないでしょうか。これは、ジョーが力石に抱いていた思いと全く同じです。

力石の死後も、葉子の思いはボクサーに対するもので、まだ恋心は見られません。バロンという店で再会したとき、彼女ははっきりと「リングで死ぬべき人間なのだ」と宣言するからです。

ジョーのプロ復帰後、ドサ周りになると、葉子はカーロスを招聘するという手をとります。葉子は元々美しいものが好きで、醜いものは嫌いなタイプですから、ジョーの姿を直視したがりません。この頃も、まだボクサーとして好きであったと思われます。

私の考えでは、葉子が人間としてジョーを愛し始めたのはカーロスとの公式戦10回戦以降と思われます。ジョーの連勝祝賀パーティーの最中、葉子とデートで脱け出すのですが、葉子が「ボクシングから手を退いたら」と薦めるのです(しかも、かつてリングの上で死ねといったバロンという店で)。このあたりから葉子はジョーの不穏な未来を予見し、それを避けようとし始めます。

この不安は、ハワイでのホセv.s.サム・イアウケア戦で決定的になります。葉子はジョーが「ホセに殺される」と恐怖を抱きます。ハリマオ戦の前後ではこの不安は出てきませんが、ジョーがパンチドランカーだと分かると再燃し、世界タイトルマッチをやめさせるよう動きます。

カーロス戦の前後で葉子の気持ちが変化したと思われますが、これはどういった理由でしょうか。それは、カーロス戦を通じて、二人の間にあるずれが生じたからです。

カーロスの公式戦10回戦までは、(多少の争いはあれど)ジョーと葉子にそれほどのずれはありませんでした。二人とも「自分が力石を殺した」という罪悪感を抱えていたので、ジョーはカーロスとの試合に熱心でしたし、葉子もそれに乗り気であったからです。いってみれば、この頃は罪悪感の克服のために二人とも同じ方向を向いていたのです。

第二回でも述べましたが、カーロス戦後ジョーはボクサー引退を、葉子はジム会長引退をほのめかしたことがあります。カーロス戦で力石の「亡霊」を倒した以上、二人がボクシングに留まる理由がなくなったからです。

ところが、ジョーがカーロスを廃人に至らしめたと聞かされたとき、二人の気持ちに隔たりが生じます。ジョーは「負い目」を感じますが、葉子は「かわいそうなカーロス」と他人事です。これが原因でジョーはボクシングをやめられなくなるのですが、葉子はボクシングをやめたらどうかと進言します。カーロスの廃人化については、二人は罪悪感を共有できていないからです。

なぜジョーは葉子にグラブを渡したのか

ホセ戦の後、ジョーが葉子にグラブを渡す場面があります。これは一体どういうことなのでしょうか。

このグラブを解釈するポイントは、ジョーが渡したのが言葉ではなくもの(グラブ)であること、そしてグラブとはボクシングの拳の象徴であることです。

前述の通り、「あしたのジョー」では、言葉によるコミュニケーションよりも拳によるコミュニケーションのほうが価値があるとされています。ですから、ジョーにとっては、拳を交わした力石やカーロスたちとの友情が最上位に位置づけられ、拳を交わしていない紀子やドヤ街住人との友情は下位に来ます。

ここで葉子に目を向けましょう。葉子はジョーと拳を交えてはいません(少年院で首を絞められたり、金竜飛戦で水をかけられたりはしていますが)。ですから、ジョーと拳を交えたボクサーたちに比べると友情の度合いは下がります。

しかし、ジョーが葉子に渡したのは言葉ではなくもの、しかも拳の象徴であるグラブでした。これは、直接拳を交えることはなかったが、ともにボクシングの道を歩んできた葉子への友情の証です。ジョーが最後葉子に言葉をかけなかったのは、葉子を友として認めたから、つまり「百万語のべたついた友情ごっこ」などいらない仲だと認めたからなのです。

今回は林紀子と白木葉子について書きました。次回は、「あしたのジョー」のテーマともいえる「あした」について書きます。

補足: 葉子とエスメラルダ

ジョーと力石が少年院で試合をする前、葉子率いる劇団が慰問劇をやったことがあります。上演された劇はユゴーの「ノートルダム・ド・パリ(ノートルダムのせむし男)」で、葉子はヒロインのエスメラルダを演じていました。これはどのように解釈できるでしょうか。

まず、「ノートルダム・ド・パリ」について説明しましょう。以下の図をご覧ください。

ユゴー「ノートルダム・ド・パリ」の人物相関図

ユゴー「ノートルダム・ド・パリ」の人物相関図

物語は少し複雑ですが、基本的にはカシモド・フロロ・エスメラルダの三角関係を中心に動いてゆきます。

フロロはノートルダム大聖堂、つまり教会の聖職者です。この男がカシモドという醜い幼児を拾うところから物語が始まります。彼は成長してノートルダムの鐘つきになります。

細かい事情は省きますが、カシモドとフロロはともにエスメラルダに恋をします。彼女はフェビュスという男と恋をしているのですが、この男は既に婚約者がいました。

フロロはじゃま者を消すためにフェビュスを殺害するのですが、そのとき殺害現場にいたエスメラルダが被疑者になり投獄されます。カシモドは彼女を助けるのですが、彼女はカシモドの醜い顔を見ることができませんでした。

じゃま者を消したフロロはエスメラルダに求婚しますが、彼女はそれを拒絶します。フロロは怒って彼女を兵士に渡し、彼女はフェビュス殺害の容疑で処刑されました。そんなフロロも、最後にはカシモドに殺されてしまいます。

いまいちピンと来ない方は、カシモドを矢吹丈、フロロを丹下段平、エスメラルダを白木葉子、フェビュスを力石徹、女をボクシングと読み換えてみてください(色々相違点はありますが)。

粗筋の説明を終えたところで、葉子と「ノートルダム・ド・パリ」について考えましょう。

まず、美しいものが好きな葉子がエスメラルダに感情移入し、それを自分で演じるというのは自然な発想です。また、エスメラルダが醜いカシモドの顔を見られなかったのも、醜いものから目を背ける葉子にそっくりです。

ところが、ジョーは葉子扮するエスメラルダを「ミスキャスト」だといっていました。これはなぜでしょうか。

先ほど説明を省きましたが、フロロがエスメラルダに恋したのは、エスメラルダがフロロに優しくしてあげたからなのです。ところが、葉子はジョーと裁判所で初めて出会ったとき、「さげすみ」の視線を向けていました(少なくともジョーはそう思いました)。優しさを向けるエスメラルダとは真逆だから「ミスキャスト」だとジョーは指摘したわけです。

なお高取英・必殺マンガ同盟『あしたのジョーの大秘密』では、葉子はエスメラルダではなくカシモドではないかと指摘されています。なぜなら、「あしたのジョー」では葉子は最終的にエスメラルダ(ジョー)に愛を捧げるからだと。ジョーがエスメラルダかどうかは微妙ですが、これは極めて重要な指摘です。「あしたのジョー」における葉子の性格の変化を示唆しているからです。

  • エスメラルダはカシモドに優しさを与えたが、葉子はジョーに「さげすみ」を与えた
  • エスメラルダは死ぬまでフェビュスを愛していたが、葉子は最終的にはジョーを愛した

「ノートルダム・ド・パリ」ではエスメラルダとカシモドの距離はそれなりに近かったのですが、結局最後まで縮まることはなかった。一方、「あしたのジョー」では葉子とジョーの距離は大変に遠かったのですが、最終的には近づいた。「あしたのジョー」とは、現代版「ノートルダム・ド・パリ」といえるのかもしれません。

紀子と葉子の関係

紀子と葉子は、原作ではほとんど接点がありません。数少ない接点は、カーロスとのエキジビジョンマッチ4回戦と、その後の丹下ジムでのスパーリングだけです。

エキジビジョンマッチでは西の代わりに紀子がジョーのセコンドをしていました。この試合の後、葉子が公式戦10回戦を後楽園で行うことを提案するのですが、このとき紀子は葉子を睨むような静観するような、絶妙な表情をしています。

矢吹丈v.s.カーロス・リベラのエキジビジョンマッチ4回戦後の林紀子と丹下段平

矢吹丈v.s.カーロス・リベラのエキジビジョンマッチ4回戦後の林紀子と丹下段平

この後カーロスがドヤ街で弾き語りをするという出来事が起こり、カーロスやロバートや葉子が丹下ジムを訪れます。実は、葉子が丹下ジムを訪れるのはこれが初めてです。

このとき丹下ジムでは紀子が洗濯をしていたのですが、それを葉子は見ています(紀子のほうは葉子を意識していません)。

矢吹丈v.s.カーロス・リベラのエキジビジョンマッチ4回戦後、丹下ジムを訪れた白木葉子

矢吹丈v.s.カーロス・リベラのエキジビジョンマッチ4回戦後、丹下ジムを訪れた白木葉子

サチは「ジョーにホの字」だといっていますが、これをそのまま受け取ってよいかは微妙です。ジョーのことが好きなサチがいっていることですから、バイアスがかかっていると見るのが自然でしょう。

私からすると、葉子は興味深そうな目で紀子で見ているように思えます。葉子はお嬢様ですから洗濯なんかしないでしょうし、丹下ジムのようなオンボロジムに来たこともないでしょう。そんなところに甲斐甲斐しく家事をしに来る下町の娘というのは、葉子にとって初めて見る存在でしょうし、自分とはまるで違う女の存在をおもしろく眺めていたのではないでしょうか。

カーロス戦後は二人の接点はなくなりますが、祝賀パーティーの後でジョーと葉子がデートしている最中、ジョーが紀子の名前を出すと、葉子が何となく不機嫌そうな顔をする場面があります。これが嫉妬なのかどうかは分かりませんが。

なお、アニメ「あしたのジョー」では多少紀子と葉子の絡みがあります。第33話「初勝利バンザイ」では葉子からジョーに贈られた花を見て紀子が不安そうにしたり、第79話「燃えろ 遠く輝ける明日よ!!」では試合会場で笑うジョーと葉子を紀子が見ています。「あしたのジョー2」では、第13話「丹下ジムは…不滅です」で道端で会った紀子と葉子が挨拶するだけです。

林紀子、白木葉子について──「あしたのジョー」論その五」への4件のフィードバック

  1. 非常に興味深く拝読させていただきました。

    ジョーが最後に葉子とわかりあえたのは、「自分の生き方」を貫くことで、本当に欲しいものを傷つけて、遠ざけてしまっているジョーの生き方と葉子の生き方に共通点を見出したからかなあと、拝読させていただき感じました。

    ジョーにとってのは本当に欲しいものは、他者とのつながりであり、葉子のほしいものは、ジョーとのつながりだったのではないかなと思います。

  2. ピンバック: ボクシング漫画の金字塔『あしたのジョー』が最後に伝えたかったこと | HIFUMIYO TIMES(ひふみよタイムズ)·

  3. ホセ戦のあと、ジョーが葉子にグローブをわたしたのは、友情の証ではなく、ジョーがあの時点で葉子に示しうる唯一のそして最大の愛情表現だったと思いたい。燃え尽きた後のジョーにとってほグローブは自分の存在そのもの、「俺の全てをお前にくれてやる」、という意味だったと解釈したい。葉子は燃え尽きるまで、なんだかんだいって付いてきたのだから。紀子はそこまでついていけなかった。あしたのジョーの幻の最後の一コマを考えればそう思いたい

  4. >ジョーがあの時点で葉子に示しうる唯一のそして最大の愛情表現だったと思いたい。
    私も愛情表現派です。
    葉子の告白に対し「女が軽々しくそんなことを口にするんじゃねえ。 実に安っぽく見えるぜ。」と答えます。
    「女が」と言ったことがジョーの優しさであり、ジョーに葉子に対する気持ちが無かったら
    「お前が軽々しくそんなことを口にするんじゃねえ。」
    と答えたと思うのです。

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