「佐藤優を斬る」と『ふしぎなキリスト教』批判への反応の違い

昨日の「はてブ砲」の余波で今日も「佐藤優を斬る」への大量アクセスがありましたが、炎上は収まってきました。はてなブックマークからの流入は減り、Twitterからの流入が主になってきました。あと、FacebookやGunosyからの流入もあります。

意外なのは、私への批判コメントがほとんどなかったことです(昨日の記事で紹介したコメントだけ)。「批判」というのは、どれだけ内容が正しくても受け入れられがたいものですから、何かしらの(批判ではなく)反発コメントがあるだろうと思っていたら、皆無です。それとも、感情的な反発を覚えた方は、「またバカが何かいってる」とコメントせずにスルーしているのでしょうか。

『ふしぎなキリスト教』批判と佐藤優批判には色々と共通点が見られますが、それに対する反応はかなり違うようです。『ふしぎなキリスト教』批判に対しては、以下のような批判が寄せられました。

1. 著者の肩書を口実にする
橋爪大三郎は社会学者であって宗教学者ではない
2. 著書の趣旨を口実にする
『ふしぎなキリスト教』はキリスト教の本ではない
3. 議論手法への批判を、事実誤認の指摘とすり替える
批判は揚げ足取りにすぎない
4. 人格攻撃をする
批判派は性格が悪い
5. 批判の様態を批判する
集団で批判をするのは「いじめ」「魔女狩り」である

この中で、今回私に向けられたのは、1番(佐藤優は元外交官であって宗教学者ではない)と3番(批判は揚げ足取りにすぎない)だけです。1番と3番についても、ごくわずかしかありませんでした。なぜこの違いが生まれたのでしょうか。

まず、批判の仕方が違っていたからでしょう。『ふしぎなキリスト教』批判は数十人で長期に渡って行われていましたが、佐藤批判は私一人、しかもブログで数記事書いただけです。このあっさりさが好まれたのかもしれません。

一番大きな要因は、佐藤の知識や教養の誤りではなく(それもありましたが)、議論の手法に的を絞って批判したからでしょう。単なる間違い指摘であれば「揚げ足取り」だと批判されますが、議論の手法に重大な問題がある場合はそう批判できないからです。

あと、特定の一冊を批判した『ふしぎなキリスト教』批判と違って、複数の書籍や講演を対象にしたのも大きい。佐藤批判にあたっては『ぼくらの頭脳の鍛え方』『獄中記』『国家論』、あるいはトークショー「危機神学入門」などを取り上げ、それらに共通する議論手法を俎上に載せました。これでは「○○はキリスト教の本ではない」という擁護は不可能になります。

こう書くと、すべて計算ずくの批判なのかと思われるかもしれませんが、そうではない。私は『ふしぎなキリスト教』批判派の人と違ってキリスト教の詳細な知識がありませんから、佐藤の事実誤認を槍玉に挙げることができない。だが、議論手法のおかしさならば知識がなくても気づけますから、それを批判の対象にしただけです。それが結果的によかったのでしょう。

コメントで色々と称賛を頂きましたが、実は私の佐藤優批判は難しいものではありません。詳しい予備知識なんか要らないのですから、佐藤優の本を複数読んで共通点を見抜き、論理的思考力を使って考えれば誰でも気づく。いいかえると、こんな簡単なことが今までなされなかったのが問題なのですが……。

私は佐藤批判をライフワークにしているわけではないので、ブログで佐藤批判をするのは今回で終わりにしようかと思います。もし私の記事への批判がありましたら取り上げるかもしれませんが。

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