佐藤優を斬る──なぜ佐藤優はデタラメな議論をしているのに評価が高いのか

皆様は佐藤優という人物をご存じでしょうか。

読書家の方、北方領土問題や日露外交に関心のある方、鈴木宗男事件を覚えておられる方はご存じかもしれませんね。以前は外交官として、現在は著述家として活動している人物です。この記事は、そんな佐藤優の議論に潜む思考法と知識のデタラメさを批判しようというものです。

佐藤優は、大学卒業後に外務省に入って対ロシア(当時ソ連)外交官となりました。一時期は政治家の鈴木宗男と連携して北方領土問題に取りくんでいましたが、鈴木宗男事件に伴って背任容疑で逮捕されました。

その後、自身の半生や事件・逮捕後の様子を『国家の罠 外務省のラスプーチンと呼ばれて』という本に書き、ベストセラー作家としてデビューします。『自壊する帝国』『獄中記』『はじめての宗教論』『私のマルクス』などの多彩な著述活動を展開しています。

私は『国家の罠』から読み始めて佐藤のファンになり、一時は彼の著作を熱心に買い漁っていたものですが、あるとき彼の思考法や著述内容のデタラメに気がつき、読むのをやめました。今ではそれでよかったと思います。

ところが、論壇やインターネットを見渡しても、佐藤優を批判する記事はほとんど見当たらない。いや、皆無ではないのですが、極めて少ないのです。

ぐらいでしょうか(佐藤優と「偏微分(笑)」・ネタふり編などの記事を書かれていたliber studiorumというブログがありましたが、現在削除されて閲覧できません)。他にもあるかもしれませんが、問題の多いことを書いている人物なのに批判の数が少ないなあと常々思っていました。

そこで今回、かつての佐藤優ファンとして、佐藤優がどういう著述家なのか、どこに問題点があるのかを説明したいと思います。

〔追記〕当記事ははてなブックマークやTwitterを通じて多くの方に読んでいただきました。その際に寄せられた反響や批判については、「佐藤優を斬る」への反響とコメントについてで述べています。

この記事の要旨

  • 佐藤優の議論のほとんどは、持ち前の知識や教養を、何の関係もない社会現象や事件と無媒介に結びつけて論じただけのデタラメである。
  • 佐藤優は議論だけではなく、その知識や教養もデタラメである。きちんと本を読んでいれば絶対にしない誤解や誤りを書いているからである。
  • 「知識の誤りは誰にでもある」「些細な誤りにすぎない」と佐藤を擁護する人が多いが、的外れな擁護である。佐藤の議論の誤りは知識ではなく思考法にあるからであり、看過できない本質的な誤りだからである。

目次

佐藤優の特徴

まず、佐藤優とはどういう人物なのでしょうか。その説明をしましょう(既に佐藤優のことをよくご存じの方は、問題点まで読み飛ばしていただいても構いません)。

佐藤優という人物は、

  1. かつて対ロシア外交官であったこと
  2. 当代屈指の知識人とみなされていること
  3. クリスチャンであること

この三つの要素から成り立っています。この三つが上手くあわさって、佐藤優という著述家の人気を支えています。

1. 佐藤優はかつて対ロシア外交官であった

佐藤優の人気の要因の一つに、かつて対ロシア外交官であったということがあります。いいかえれば、諜報(インテリジェンス)の専門家であったということです。

佐藤は既に外交官を辞めているのですが、インテリジェンス関連の著作をたくさん書いています。『インテリジェンス人間論』『インテリジェンス 武器なき戦争』は書名からしてインテリジェンスの本ですし、『インテリジェンスの極意! 』という本にも一文を寄せています。ウォルフガング・ロッツの『スパイのためのハンドブック』『シャンペン・スパイ』に推薦文まで書いています。彼が旧来日本に少なかった(?)インテリジェンスの専門家として注目を集めていることは間違いありません。

ただ、インテリジェンスの専門家であれば、佐藤以外にもいらっしゃいます。佐藤優が人気を集めるのは、別の要因があるからです。

2. 佐藤優は当代屈指の知識人とみなされている

佐藤優人気の要因は、彼がずば抜けた知識人(インテリ)である(少なくともそう見える)ことにあります。

彼は立花隆との対談を本にまとめているのですが(『ぼくらの頭脳の鍛え方』)、冒頭で蔵書は「一万五千冊」、ひと月の書籍代は「約二十万円」と凄まじいことを書いています。立花の「七、八万冊」には及びませんが、佐藤も相当な蔵書家です。

これが本当かどうかは分かりませんが、佐藤の本を読むと、確かに色々な本や人物の名前が出てくる。『獄中記』は、彼が逮捕されて512日間勾留されていたときのノートなのですが、これにはヘーゲルだのハーバーマスだのドストエフスキーだのイスラームだの『新訳聖書』だの『太平記』だのカントだのレーニンだの廣松渉だのetc.と、大量の人名・著作名が出てくる。もしこのすべてを獄中で読んでいたとすれば、確かに恐るべき知識の幅広さ、量です。

彼が評価される理由は、この読書が単なる知識ではなく、外交という実戦の場で活かされていた(らしい)ことにあるのですが、これは次で説明します。

3. 佐藤優はクリスチャンである

佐藤優は同志社大学を卒業しているのですが、学部は何と神学部なのです。同支社はクリスチャンでなくても入れるそうですが、彼は入学後にプロテスタントの洗礼を受けたらしいので、正真正銘のクリスチャンです。

法学部や経済学部ならともかく、神学部を出た人(しかもキリスト教徒)が国家公務員になるのは珍しいでしょう。ご本人も、本来外交官になるつもりなどなかったと述懐しています(『国家の罠』)。

おもしろいのは、彼が外交官になってからは神学をさっぱり忘れたわけではなく、神学を活かして外交の世界で活躍してゆく点です。『自壊する帝国』にその様子が説明されています。

佐藤はロシア(当時ソ連)の外交官になってロシアに駐在していた頃、モスクワ大学の哲学部科学的無神論学科というところに出入りしていました。この学部はソ連では大変権威のあった学部で、卒業生のほとんどがソ連共産党のイデオロギー要因や大学教員になったそうです。

彼は、学生時代にキリスト教神学をまなんだ縁で学部への出入りを許され、そこで哲学部専任講師のアレクサンドル・ポポフや哲学部の秀才サーシャ・カザコフと出会い、ソ連政界との人脈を広げたり情報を獲得してゆきます。

『自壊する帝国』の解説で、恩田陸はこのように書いています。

私が初めて佐藤氏の著作に接した『自壊する帝国』のなかで、自分の学んだ神学を基準として、ソビエトやその周辺諸国で知識人に人脈を広げていくところは痛快であった。若い時に思考の訓練をし、自分の判断基準を持っている人がいかに社会に出てからも強いかということを、私は社会人二十年目にして、改めて佐藤氏の著作から教わったのだった。

恩田のいう通り、佐藤の魅力とは、外交という政治の場において(金や権力ではなく)知識や教養を駆使して戦ってきたことにあるのです。

外交に強い政治家や教養のある知識人であれば、佐藤以外にもいらっしゃるでしょう。しかし、彼らは「日本の政治家は教養がない」だの「日本の大学教授は知識はあっても社会で役に立たない」だのいわれがちです。

ところが、佐藤は獲得した知識や教養を駆使しながら、ロシア外交という修羅場をくぐり抜けてきた。「知識・教養」に「実践的な力」の二つが揃って活躍しているわけですから、佐藤が喝采を浴びるのも当然の話です。

ちなみに、かつて「知の巨人」として君臨した(今はそうでもない)立花隆も、膨大な知識・教養を駆使して、田中角栄金脈問題やロッキード裁判・日本共産党批判といった政治の世界で活躍した人物でしたね。

邪推を覚悟でいうと、佐藤の外交話が本当かどうかは分かりません。客観的なソースが全くありませんから、全部佐藤の創作の可能性もある。ただ、私はロシア時代の外交経験だけは本当なのではないかと思っています(逆に、読書話はほとんどが嘘だと思います)。

佐藤優の問題点

知識や教養もあり、外交という現場で戦ってきた経験もある佐藤の一体何が問題だというのか? 簡単にいえば、以下の2つです。

  1. 「知識や教養」と「社会」を無媒介に接合して説明してしまうこと
  2. 思考の土台である「知識や教養」が誤解や誤りに満ちていること

1. 「知識や教養」と「社会」を無媒介に接合して説明してしまうこと

まず1番から説明しましょう。

例1: オペレーションズ・リサーチの研究者だから鳩山由紀夫は決断力がある?

以下の動画は、佐藤が講演会で鳩山由紀夫とその息子について話していたときのものです。

冒頭で、彼はこんなことをいっています。

  1. 鳩山由紀夫の息子は交通渋滞解消の問題を研究している
  2. 交通渋滞解消の研究はマルコフ連鎖(オペレーションズ・リサーチの一つ)を用いる
  3. 鳩山由紀夫自身もオペレーションズ・リサーチを研究している
  4. オペレーションズ・リサーチは意思決定において重要である
  5. よって、鳩山親子は決断力がある

私はマルコフ連鎖に詳しくありませんが、4番までは仮に認めるとしても、5番の結論が明らかにおかしいことは分かる。オペレーションズ・リサーチはあくまで意思決定のための研究であって、その研究に通じていることと、本人が意思決定が得意であることは無関係だからです(佐藤のマルコフ連鎖理解が誤りであることは、Sokalian氏の佐藤優氏の「知の欺瞞」で説明されているので、詳しくはそちらをご覧ください)。

誤解しないでいただきたいのですが、私は別に佐藤優のオペレーションズ・リサーチの知識不足を指摘したいわけではないこと。私が指摘したいのは別のことです。

注目していただきたいのは、「オペレーションズ・リサーチ」とか「マルコフ連鎖」といった知識や教養に関わる事象を説明したあと、それを「鳩山親子の意思決定」といった社会に関わる事象に無理やり繋げていることです。オペレーションズ・リサーチの研究と本人の意思決定にどのような関係があるのかを明らかにせず、知識や教養(オペレーションズ・リサーチ)ではこうだから、社会(鳩山親子)もこうであると強引に繋げてしまう。こうした「知識や教養」と「社会」を無媒介に接合するアナロジーを覚えておいてください。

例2: キリスト教では神と人間が交わるから非ユークリッド幾何学では平行線が交わる?

今度は別の動画を挙げましょう。ジュンク堂で「危機神学入門」というテーマでトークショーをやっていたときの動画です。

43:06から数学の平行線にまつわる話が出てくるのですが、これについて佐藤はとんでもないことを喋っています。

  1. ユークリッド幾何学では平行線は交わらないが、非ユークリッド幾何学では交わる
  2. ユダヤ教やイスラム教では人間と神は交わらないが、キリスト教では交わる
  3. 非ユークリッド幾何学を考案したのはリーマンである
  4. リーマンはプロテスタントの牧師であった
  5. よって、キリスト教徒であるリーマンが非ユークリッド幾何学を考案したのは必然である

これがいかにいい加減な議論であるか、前の鳩山親子の話よりも分かりやすいでしょう。「幾何学」と「宗教」、「平行線」と「人間・神」という全く別の事象を、「交わる」という一点だけで繋げてしまい、リーマンの研究はキリスト教由来なのだと説明してしまう。幾何学ではこうで、キリスト教もこうであるから、リーマンもこうである。鳩山親子とオペレーションズ・リサーチをくっつけた議論と全く同じであることが分かるかと思います。

〔追記〕オウム真理教に関連して:20120617 へのコメント。では、イスラム数学者のウマル・ハイヤームの発見が非ユークリッド幾何学に影響を与えていることを指摘し、佐藤の意見を「暴論」と批判しています。

なお、この動画の41:18でも、14~15世紀のキリスト教界と現代の日本の政界を繋ぐというむちゃな議論を展開しています。

  1. 三人のローマ教皇は、キリスト教徒のヤン・フスに身の安全の約束をしたが、実際にはフスは安全ではなかった
  2. なぜなら、三人のローマ教皇は約束をしたが、「約束を守る」という約束はしていないからである
  3. 日本民主党は約束をしたが、「約束を守る」という約束はしていない
  4. よって、三人のローマ教皇と日本民主党の政治家は同じである

佐藤の議論は、ほとんどがこうした無媒介な接合から成り立っています。冷静に考えればおかしいことは分かるのですが、「マルコフ連鎖」とか「非ユークリッド幾何学」とか「ローマ教皇」いった一見教養じみた概念を使って説明しているだけに、何となく深い考察をしているように見えてしまう。佐藤の議論は、社会を分析するにあたって、難しい概念や知識を持ち出してアナロジーで考えるというやり方なので、難しい概念や知識に騙されなければ、そのおかしさに簡単に気づきます。

ただ、これだけなら佐藤の議論が粗雑というだけの話です。悪質なのは、佐藤が単に知識や教養を現代社会と繋げているだけではなく、知識を曲解し、恣意的な形で繋げることによって自分の主張を補強していることにあります。

例えば、『ぼくらの頭脳の鍛え方』で酒井順子『負け犬の遠吠え』と中村うさぎ『愛と資本主義』を推薦してこんなことを書いています。

三十以上、独身、子なしの女性は、全て負け犬で、それ以外の女性はすべて勝ち組であるという定義を導入し、同一律・矛盾律・排中律を見事に駆使して完璧な論理を打ち立てる。論理とは何であるかを知るためにも重要な本。(pp.81-82)

すべてが貨幣に変換される新自由主義的資本主義の恐ろしさがわかる。マルクスの『資本論』第一巻(岩波文庫の第一~三分冊)とあわせて読むと、中村氏が『資本論』の論理を実証していることがよくわかる。(p.273)

「同一律・矛盾律・排中律」とか「新自由主義」とか、本に書いてもいないことをあげつらってベタ褒めしています。さすがにおかしいと感じる読者もいるようで、「とてつもない買いかぶり、作者自身が考えたことすらなさそうな意図(笑)まで無理やり読み取ってしまうやり方は、いかがなものか」と書かれている方もいらっしゃいます(前原政之氏の「mm(ミリメートル)」というブログの佐藤優『功利主義者の読書術』)。

特定の本を異常に過大評価するのは佐藤の特徴ですが、これを見て「佐藤は酒井や中村のファンなのか?」とか「さすが佐藤さんは一般人にはできない深読みができるのだな」と思ってはいけません。これは、佐藤が自説を補強するための手口なのです。

佐藤優ファンの方はご存じかと思いますが、新自由主義は、佐藤が処女作『国家の罠』以来一貫して批判し続けているものです。また、「同一律・矛盾律・排中律」といった論理学の原則は、佐藤が一貫して重要視しているものです(佐藤優 日本の論理、そして思想を斬るでは、日本人外交官には「論理」が欠けていると批判しています)。

つまり、佐藤が本を紹介して「完璧な論理」とか「新自由主義的資本主義の恐ろしさ」とか過大評価するのは、自説の補強のためなのです。『愛と資本主義』に全く書かれていない新自由主義批判を読み取り、それを述べた本だと紹介することによって、自分の新自由主義批判も補強されるというわけです(余談ですが、綿谷りさ『夢を与える』を紹介したときも、佐藤は新自由主義批判に繋げていました)。

ここで本を変えて、『獄中記』からいくつか本の紹介文を引用しましょう。

週末にハーバーマスの『認識と関心』を二五〇頁程読み進めました。客観的認識などというものはそもそも存在せず、まず、「認識を導く関心(利害)」があり、そこから事実の断片をつなぎ合わせて「物語」を作っていくのが、近代的人間の認識構造であるということを、(中略)見事にまとめあげています。特捜部の手法を理論的に解明するうえで最良の参考書と思います。(p.75)

国策捜査の本質を捉えるにあたっても、案外、このような神学的知識(引用者注……神学論争では、正しい理屈の側が敗れることがあるということ)が役に立ちます。理屈の上では正しくとも敗れることは、それほど珍しくありません。(p.138)

理論面を重視する顕教とともに呪術的な密教が並立し、対立しているというのも、ロシア課(顕教)とわれわれ特命チーム(密教)の対立のようでとても面白いです。当然、密教の方が政治との結びつきを強めるわけです。(p.166)

『太平記』を読んでいて気付いた他の興味深い点は、日本が中華(中国)文化圏の辺境に位置しているのだということです。(中略)最近の日本のデフレ現象にしても、大きな流れとしてみるならば、日本が中華文化圏に再併合されていく過程なのかもしれません。(pp.171-172)

お分かりかと思いますが、「ハーバーマス」と「特捜部」、「神学論争」と「国策捜査」、「顕教と密教」と「ロシア課と特命チーム」、『太平記』と現代日本を、わずかな共通点を見出しては無理やり接合させるという手口です。そして、こうした紹介はすべて「特捜部」「国策捜査」「現代日本」批判という佐藤の自説補強に繋がっているのです。

もちろん、知識や教養を現代社会に当てはめることが悪いわけではありません。「神学論争」の知識を元に、「国策捜査」を読み解くこともできるかもしれない。しかし、佐藤が両者の共通点として挙げているのは、「正しい理屈の側が敗れる」というたったそれだけなのです。それなら「神学論争」以外の論争でも見られることであって、「神学論争」に限定する必要はない。

佐藤は知識人には珍しくキリスト教神学に詳しい人であり、『はじめての宗教論』では「神学は役に立つ」なんて書いていますが、彼のいう「役に立つ」とはこの程度のレベルです。わずかな類似点を見出すことによって現代社会を読み解いたつもりになって、「神学は役に立つ」といっているにすぎません。

〔2014年9月13日追記〕この箇所について質問を頂きましたので補足しますと、私は神学自体が役に立たないとは考えていません。詳しくはコメントに対する返信を参照。

2. 思考の土台である「知識や教養」が誤解や誤りに満ちていること

佐藤優は議論の仕方だけでなく、その知識も嘘に満ちています。きちんと本を読んだなら絶対にしないような誤解を平気で書いているからです。

例1: ゲーデルの不完全性定理により物理学や経済学の限界が証明された?

彼の知識や教養の怪しさを示すものとして、『ぼくらの頭脳の鍛え方』を取り上げましょう。p.256で、ゲーデルの『不完全性定理』を取り上げてこんなことを書いています

ゲーデルが、数学は自己の無矛盾性を証明できないことを証明したことによって、数学を用いる物理学、経済学などがすべてこの制約下に置かれていることを理解しておくことが重要。

「不完全性定理」はただでさえ誤解の多い定理ですが、佐藤も非常によくある誤解をしています。

まず、不完全性定理は数学全般に関する定理ではありません。「自然数論を含む帰納的に記述できる公理系」に関わる定理です。そうではない数学については関係ありません。

佐藤が「自然数論を含む帰納的に記述できる公理系」だと長いから「数学」と短縮して書いたわけではなく、「数学」全般と勘違いしていることは明らかです。というのも、不完全性定理を「数学」全般にまつわる定理だと誤解することの弊害を、『不完全性定理』訳者の林晋が「解説」で書いているからです。

実は、多くの場合、数学のある部分が不完全性定理的な現象に感染していることが判ると「それは真の数学でない」とされて、「数学の本体」から切り離されてしまう。そういう摘出手術を痛痒に感じないほど、数学は豊かなのである。

岩波文庫の『不完全性定理』は半分以上が解説で占められているので、佐藤がきちんと読んだのならこれを読み飛ばすはずがありません。佐藤が誤解している理由は、きちんと読みもせずに「不完全性定理によって数学の不完全さが証明された」というレベルの俗説を信じているからです。なお、佐藤は『ぼくらの頭脳の鍛え方』p.261で藤原正彦『国家の品格』を推薦しているのですが、その藤原も「論理に頼っていては永久に判定出来ない、ということがある。それを証明してしまったのです」などと書いています。もしかして佐藤は藤原の説明を鵜呑みにしたのでしょうか。

「数学は自己の無矛盾性を証明できないことを証明した」という説明は百歩譲って認めるとしても、「数学を用いる物理学、経済学などがすべてこの制約下に置かれている」というのは嘘がすぎるというものです。「物理学」や「経済学」の多くは、「自然数論を含む帰納的に記述できる公理系」ではない数学を用いるのですから、不完全性定理があったとしても依然として正しいままです。

例えば、アインシュタインの相対性理論はニュートン力学の不完全性を指摘しました。ただ、だからといってニュートン力学が全くだめなわけではありません。あくまで、光速とかブラックホールといった一部の条件下ではニュートン力学が破綻するということであって、一般的な物理法則の世界ではニュートン力学は十分に正しい。

なぜ急にニュートンとアインシュタインの話を始めたかというと、佐藤が全く同じことを『ぼくらの頭脳の鍛え方』p.221で述べているからです。

ニュートン的な世界観からカントは組み立てられていて、アインシュタイン以降それが限界に達してるということはその通りです。しかし、この近代は現在の宇宙観とはかけ離れたところで、ニュートン的な世界、力学的な世界の上に築かれていると思うんです。政治的な勢力均衡論も国連のメカニズムも、基本的にはいまだにカント的な世界観の上に立っています。

これは物理学の話ですが、数学に置き換えても同じことがいえる。不完全性定理によって数学の一部の不完全性が指摘されたとしても、「自然数論を含む帰納的に記述できる公理系」とは「かけ離れたところ」では、数学は十分に完全です。佐藤が自分のいっていることをきちんと理解できているならば、「数学を用いる物理学、経済学などがすべてこの制約下に置かれている」などとデマを飛ばすはずがないのですが。

ちなみに、佐藤はこの後で、我々の世界が「ニュートン的な世界」から成り立っており、カントの形而上学はニュートンを元にしているので、カント哲学を学ぶべきだなどと脈絡のないことを書いています。わずかな共通点だけで無関係な事象を繋ぐお馴染みの手口です。

例2: ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』は論理や情緒について語っている?

今度は別の例を挙げましょう。佐藤は『ぼくらの頭脳の鍛え方』p.77ではウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を推薦していますが、この本と『国家の品格』は同じテーマを扱っていると述べています。『ぼくらの頭脳の鍛え方』では詳しい説明がありませんが、『国家と神とマルクス』によれば、こういうことらしい。

さらにウィトゲンシュタインは「七 語ることのできないものごとについては、ひとは沈黙しなくてはならない」(三二頁)と述べているが、これは藤原正彦氏が『国家の品格』(新潮新書)で述べていることと同じと思う。

論理と情緒の世界をきちんと分けて、「語ることのできるものごとの世界」、つまり経済政策や外交については論理を重視し、「語ることのできないものごとの世界」、つまり情緒や文化については、一義的価値観を押し付けてはいけないということだが、(中略)

「語ることのできるものごとの世界」「語ることのできないものごとの世界」というわずかな共通点から、ウィトゲンシュタインと藤原正彦を結びつけようとしています。お決まりの手口ですが、無理がある。佐藤の『論理哲学論考』理解が間違いだからです。

ウィトゲンシュタインが『論理哲学論考』の命題七で「語ることのできないものごとについては、ひとは沈黙しなくてはならない」と書いたのは事実ですが、これは別に神秘主義とか「世の中には人間には分からないものがある」という不可知論では全くありません(「不完全性定理」同様、この命題も誤解されやすいものです)。

ウィトゲンシュタインは、「情緒や文化」は論理の限界を超えたものだとは一言も書いていません。むしろ、『論理哲学論考』の命題三・〇三で「非論理的なものなど、考えることはできない」と書いているのです。彼は、思考の限界とは論理や言語の限界であり、それを超えたものについては「ナンセンス」であるから考えることはできないし、考えてもむだだといったのです。

ところが、「論理」以外のものが存在していると考える佐藤は、ウィトゲンシュタインも同じことをいっているのだと誤解する。そして、藤原の考えをウィトゲンシュタインを援用して補強し、自分の考えが藤原と同じだから、自分の考えもウィトゲンシュタインによって補強されたと勘違いしてしまう。『論理哲学論考』をまともに読んでいれば、絶対にしないレベルの誤りです。

〔追記〕余談ですが、私は以前『論理哲学論考』を訳文を元に読解するという記事を書いたことがあります(ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』命題1~2.063を読解する)。佐藤のいい加減な解説よりも参考になる内容だと思いますので、ご興味のある方はご覧ください。

佐藤にはこんな誤りが大量にあります。彼は蔵書を「一万五千冊」と豪語しますが、そのうちきちんと読んだのは何冊なのか、正確に理解しているのは何冊なのか聞いてみたいものです。

補足しますが、『不完全性定理』や『論理哲学論考』理解が間違っているから佐藤が間違いだというわけではありません。そうではなく、佐藤が読んでもいない本を読んだふりをして紹介するという詐欺まがいの行為をしていること、誤った理解に基づいて誤ったアナロジーで結論を導いていることを批判しているのです。

もし佐藤が正しい理解を持っているなら、議論の手法(誤ったアナロジー)さえ改善すれば正しい結論を導けるようになるかもしれません。しかし、彼の理解すらも間違いなのですから、それさえもありえないのです。

なぜ佐藤優は評価されるのか

このように、佐藤優の議論の杜撰さ、知識のいい加減さは、少し注意すれば簡単に気づくレベルのものです。彼は立花隆と並んで「知の巨人」と称されていますが、実はかなりいい加減であることも立花と共通しています。

さて、そんな佐藤優ですが、なぜ評価が高いのでしょうか? 彼の誤りに気づかない読者がバカなのでしょうか?

それもあるかもしれませんが、主な原因はそうではないと思います。私の考えでは、彼が評価されるのは、読者の教養主義とスノビズムを程よく満たしてくれるからです。

昔は「教養」とか「必読書」とか色々いわれましたが、最近ではほとんどなくなりました。竹内洋『教養主義の没落』という本も出ました。もちろん完全に消滅したとはいえませんが、以前ほど教養への圧力が減ったのは確かです。

しかし、辛気臭い教養なんて身につけたいと思わない一方で、何となく頭が良くなりたい、知識を身につけたいのが一般人というもの。真面目に勉強するほどの気力はないが、何となく知識を得られるぐらいの勉強をして、頭が良い気分になりたいのです。

佐藤優の本は、こうしたニーズに見事に合致するのだと思います。先に説明した通り、佐藤の議論の手口は、数学や宗教や文学といった教養と現代社会の問題を無媒介にくっつけて論じるというものです。これを読んだ読者は、「教養を使ってそんな見方ができるのか」「役に立たないと思っていた教養にはそんな使い方があるのか」と驚く。詳しく見れば杜撰な議論であっても読者はそこまで詳しく見ませんし、読者は「学問的に正しい議論」よりも「読んでいて頭が良くなった気分になる本」が好きですから、特に気にしません。

まとめましょう。佐藤優が支持される理由とは、一見役に立たない知識や教養を使って社会を見事に分析している(ように見せる)ことによって、読者の知識欲や教養主義を満たすとともに、頭が良くなりたいというスノビズムをも満たすことにあります。

余談ですが、以前話題になった橋爪大三郎・大澤真幸『ふしぎなキリスト教』もそんな本でしたね。知識や教養と適当に結びつけて、宗教学的にはいい加減だが、読んでいると何となく頭が良くなった気になる考察を並べることによって、読者の気分をよくするというタイプの本です。佐藤は第1回 「なぜいま、キリスト教を問題にするのか。(1)」でこの本を評価していますが、クリスチャンなのにこの本を評価するあたり、彼のキリスト教理解のレベルが知れます。

佐藤優的にいえば、『ふしぎなキリスト教』が評価される日本人の「内在的論理」(佐藤がよく使う言葉です)を勉強すれば、佐藤優が多くの日本人に支持されるという「パラダイム」を学ぶことができるのでしょうね。佐藤優が批判を浴び始めたときこそが、「国策捜査」と同様のパラダイムの転換期なのです。

なお、こんな佐藤優ですが、数少ないおもしろい本があります。『国家の罠』『自壊する帝国』ですが、この二冊がおもしろいのは、佐藤流の議論が少なく、ノンフィクション的要素が強いからです。知識と教養で社会を読み解く(ように見える)佐藤の著作の中で、知識と教養があまり出てこないこの二冊がおもしろいのは皮肉な話ですね。

補足1: 佐藤優のキリスト教解説の問題点

佐藤優のいい加減な議論の弊害が最も大きいのは、実はキリスト教ではないかと思っています。彼の数学や哲学の議論の杜撰さについては色々と批判がありますし指摘する方も多いのですが、キリスト教の議論についてきちんと批判している記事を見たことがないからです。いや、正確にはいくつかあるのですが、具体的に批判しているものはめったにないのです。

上述の『ふしぎなキリスト教』は多くの批判に晒されており、この本を擁護した佐藤優も一部で批判されているのですが(橋爪大三郎×大澤真幸『ふしぎなキリスト教』に対する批判73など)、佐藤のキリスト教解説自体を批判したものを見たことがありません。

ただ、私はキリスト教神学に精通していませんし、佐藤のキリスト教解説本すべてに目を通したわけでもありません。ですので、私でも分かるような(そしてキリスト教理解としてはかなりまずい)誤りを指摘するにとどめます。

『国家論』という佐藤の著作があります。この中でキリスト教の説明が出てくるのですが、相当怪しいことを書いています。

キリスト教というのは、教義の根本の部分がよく分からない。神様はひとつのはずなのに、父なる神と、子なる神と、精霊(ママ)なる神があるという。単一の神だけれども、三つある──一で三だと言う。これも神学的な処理は最終的には簡単です。分からないがゆえに、不合理であるがゆえに信じる。こういったかたちでカタを付けているわけです。

〔追記〕三位一体論における位格は「精霊」ではなく「聖霊」ですが、佐藤の原文は「精霊」になっています。参考までに、『国家論』p.24を画像として掲載します(赤の実線部分が「精霊」)。

佐藤優『国家論』p.24

佐藤優『国家論』p.24

キリスト教の根本教義(ドグマ)である「三位一体論」に関する解説です。佐藤はこの後で、三位一体論は「そもそもわけが分からない話」だといい、キリスト教は「根っこのところがいい加減です」といっています。

確かに、三位一体論は難解というか、合理的に解釈するのが不可能な教義です。以前「ニコニコ大百科」に「三位一体」の記事を書いたことがありますが(三位一体とは (サンミイッタイとは) [単語記事] – ニコニコ大百科)、調べていて納得のできる説明を見たことがありません。そういう意味では、「わけが分からない話」というのは分からなくもない。

しかし、三位一体論は「そもそもわけが分からない話」であっさり片付けられたわけではありません。「存在」の訳語の違い(ウーシア・ヒュポスタシス・スブスタンティア・エッセンティア。詳しくは存在の訳せない重さ参照)やギリシア定式とラテン定式の違いをめぐって、アウグスティヌスやトマス・アクィナス、ボエティウスといった数多くの思想家が議論を続けてきた教義です(佐藤がしょっちゅう引用するカール・バルトですら、三位一体論に言及しています)。そういった教義の歴史を全部吹っ飛ばして、「そもそもわけが分からない話」で片付けるのは適切な解説といえるのでしょうか。

三位一体論については仮に認めるとしても、佐藤はこの後でこんなことを書いている。こちらのほうがキリスト教理解としては問題です。

それから、神学論争では、論理整合性が高くて、知的水準が高いほうがだいたい負けます。知的水準が低くとも、時の政治権力と結託したほうが常に勝っています。(中略)

キリスト教は究極的には反知性主義です。

キリスト教は三位一体論とかいう意味不明な教義があったりと「論理整合性」が低い宗教なのだが、そういう「反知性主義」な側面がキリスト教では重要だといっているのです。

佐藤は明言していませんが、この発言の意味は恐らくこういうことです。

  1. ゲーデル『不完全性定理』によって、論理だけでは世界は解明できないことが明らかになった(知性主義への警鐘)
  2. キリスト教は「論理整合性」の低い宗教なので、論理に頼る部分が少ない(反知性主義)
  3. よって、キリスト教は反知性主義として重要である

つまり、佐藤には論理や知性に対する根強い不信感(それはただの誤解なのですが)があって、それを打破してくれるものとしてキリスト教や神学が重要だといっているのです。これは論理に対する理解として完全に誤っていますし、そういう文脈でキリスト教を評価するのも誤りでしょう。論理性が低いことを「反知性主義」とはいいませんし、キリスト教は頭の悪い宗教だといっているに等しい。

こんなのは些細な違いではないかと思われるかもしれません。確かにそうかもしれない。しかし、佐藤のキリスト教解説の厄介なところは、単に知識として間違っているだけではなく、佐藤の解説が信憑性があるものと受け取られやすいことにあります。

佐藤はプロテスタントではありますが、カルトや原理主義(ファンダメンタリズム)のような過激派ではありません。むしろ、他のキリスト教宗派を認め、仏教やユダヤ教を評価していたりと、エキュメニズム的な部分が大きい。また、キリスト教の悪い(と佐藤が思っている)ところを悪いとはっきり書きますから、読者からは「この人は過激なクリスチャンではなく、客観的なクリスチャンだ。この人なら信用できる」と思われやすい。

前述の通り、佐藤はただでさえ「元ロシア外交官」「知識人」「クリスチャン」として信用されている人物です。そんな人物がキリスト教について語っていたら、どんな怪しい解説でも(正確な知識を持つ人を除けば)信用する人が増えるのも無理はありません。

さらに厄介なのは、佐藤が正確な学術的解説を放棄して、甘い言葉を投げかけて誤ったキリスト教理解を喚起することです。

例えば、先ほど挙げた三位一体論が分かりやすい。前述のように、三位一体論は真面目に研究すると相当に難しい教義です。興味のある方は、三位一体論を解説した聖書的「三・一」論と教義の「三位一体」論との区別というページをご覧いただきたいのですが、哲学書並に理解不能な文章が並んでいます。

〔追記〕三位一体論について知りたい方は、まずニコニコ大百科をお読みになるのがよろしいかと思います。私の書いた記事ですが、三位一体とはどういうものか予備知識なしでも理解できるように書いたつもりです。

個々の思想家が三位一体をどのように捉えたかを知りたい方は、福田誠二「生命倫理とペルソナ論」(PDFファイル)12ページの「二 キリスト教神学におけるペルソナ概念」をお読みください。トマス・アクィナスの三位一体論については、飯塚知敬「神における関係について : トマス・アクィナス,『能力論』q.8,a.1」(PDFファイル)も参考になります。

三位一体論に限らず、学問というのは多かれ少なかれ難解・複雑なものです。読者が「三位一体論って何が何だか全然分からない」という場合、著者が最大限分かりやすいように説明すべきであって、「わけが分からない話」で済ませてよいはずはありません。説明する余裕がないなら、せめて「詳しくは参考書籍を参照」とでも書いておくべきでしょう。

しかし、佐藤は「おっしゃる通り、三位一体論っていい加減でむちゃくちゃでしょう? キリスト教ってそんなものばかりなんです。しかし、そんなキリスト教を知らないと現代社会は読み解けないんですよ」と優しく説明する。読者は「三位一体論が分からないのは自分が無知だからではなく、そもそも三位一体論が意味不明な説なんだ」と納得してしまう。佐藤は知識のない読者を甘い言葉で擁護し、佐藤流のいい加減な現代社会分析の世界へと誘導する。これによって、読者は何となくキリスト教を理解し、何となくキリスト教で現代社会を分析した気分になるのです。

お分かりでしょうか。佐藤優の著作で得られるのは正しいキリスト教の知識ではなく、佐藤流のキリスト教知識と、佐藤流の粗雑なキリスト教的社会分析だけです。キリスト教について正しい知識を得たい方は、まず佐藤の本を読まないことです。

補足2: なぜ佐藤優は池田大作や創価学会を絶賛するのか

佐藤が創価学会の池田大作を絶賛しているから、彼を批判している方々がいらっしゃいます。

私は創価学会について書いた彼の文章をほとんど読んでいないので、この記事で取り上げることは控えていました。が、彼がある宗教に入れこんでいることと、彼のキリスト教観に何か関係があるのではないかと思い、取り上げることにしました。

断っておきますが、佐藤の創価学会への考え方を批判するわけではありません。あくまで、彼の創価学会絶賛がどこから来ているのかを分析するつもりです。

まず、sokaodo氏「私がJR東労組と創価学会を好く理由」佐藤優Add Starや森田実氏「平和・自立・調和の日本をつくるために【194】」やrevo2009氏「佐藤優が創価学会について書いていること ケータイ投稿記事」を参考に、佐藤優の考えをまとめます。

  • 創価学会は、日露両国の国交や新自由主義の台頭の阻止において重要な役割を果たした
  • 創価学会は旧来の日本の宗教と違って、社会に対して能動的に働きかけている
  • 池田大作は悟りを開いた仏でありながら、すべての衆生を救済するために現世に生きる「菩薩」である

こうして見ると、佐藤が創価学会や池田大作を評価しているのは、「宗教でありながら現代社会と関わっている」という理由が大きいのが分かります。では、なぜ佐藤は、社会に関わろうとすることをそんなに高く評価するのでしょうか。

佐藤優ファンの方はご存じでしょうが、彼はフロマートカとカール・バルトという二人の神学者を大変に尊敬しています。佐藤によると、この二人には、キリスト教神学者でありながら宗教に閉じ籠ることなく、政治や社会に対して積極的に関与したという共通点があるらしい。私はフロマートカとバルトの著書を読んでいないので、佐藤のこの理解が正しいのかは分かりません。ただ、少なくとも佐藤は二人をそう理解しているということが重要です。

ここで、佐藤のアナロジーの手法を思い出してください。宗教者でありながら社会に積極的に関与しているという点で、池田はフロマートカやバルトと同一である……とまでは佐藤は書いていませんが、恐らく彼はそう考えていると思われます。

もっといえば、佐藤はフロマートカやバルトどころではなく、池田がキリスト教的生き方を体現していると思っているのではないか、と私は推測しています。次の動画は、前にも引用した「危機神学入門」です。

53:07以降で、佐藤はこんなことをいっています。

  • 人間の一人一人は弱いが、「他者のために生きる」という素晴らしい生き方を見ることによって、その生き方を見習うことができる
  • イエスの生き方を見た人間たちには、イエスの生き方が「伝染」した
  • 信仰とは、他者のために生きることを「伝染」させることである

このキリスト教・イエス理解が正しいか否かは、今は論じません。それよりも、「他者のために生きる」ことを「伝染」させるのが信仰だといっていることに注目してください。

前に述べた通り、佐藤は池田のことを、宗教者でありながら衆生を救う(他者のために生きる)存在だと尊敬しているわけです。佐藤の「信仰伝染説」と照らしあわせて考えると、佐藤にとって、池田大作こそがキリスト教的な「他者のために生きる」生き方の体現者ということになります。

最初これは私の邪推ではないかと思っていましたが、そうでもないようです。『聖書を読む』という本がありますが、そこで佐藤は、「パウロは池田大作みたいな人」だといっています(「池田大作はパウロみたいな人」ではなく、その逆なのが凄いですね)。創価学会を率いて社会に関わる池田と、キリスト教の基礎を築いてキリスト教を世に広めたパウロは、同じだというわけです。

「池田大作はイエスみたいな人」といわないのは、さすがの佐藤も、神であり人であるイエスと池田を同一視するのはプロテスタントとしてまずいと思ったからでしょう。しかし、2011年の「潮」という雑誌に掲載した記事で、イエスと池田を並列して語るという恐ろしいことを既にやっています。

キリスト教徒にとってイエス・キリストという名は極めて重要である。それと同じように創価学会員にとって池田大作氏の名が決定的に重要なのである。(中略)

濱野智史の本ではありませんが、そのうち佐藤が『池田大作はキリストを超えた』という本を書くのではないかと私は期待(?)しています。

広告

佐藤優を斬る──なぜ佐藤優はデタラメな議論をしているのに評価が高いのか」への97件のフィードバック

  1. 立花氏と佐藤氏をなんでこの人が非難しているかと言うと嫉妬です。

    • 僕の意見は1ページを参照してください。付け足しで、流星群は創価学会を非難しています。ひどすぎます

  2. あと、yasさんの言う通り、なんで自分の過ちを認めないの!君は人の過ちを自分では指摘できたと思っているでしょ!全く正鵠を射ていない非難だよね!

  3. あと、なぜ、あなたは創価学会を否定するのですか!創価学会が悪いと言いたいのですか?

  4. ではあなたは三位一体をどう説明するんですか?あなた人の意見に異議を申し立てをしといて、わからないとかいわないでしょうね?

  5. 三人のローマ教皇は、キリスト教徒のヤン・フスに身の安全の約束をしたが、実際にはフスは安全ではなかった
    なぜなら、三人のローマ教皇は約束をしたが、「約束を守る」という約束はしていないからである
    日本民主党は約束をしたが、「約束を守る」という約束はしていない
    よって、三人のローマ教皇と日本民主党の政治家は同じである。あなたは何を否定したいのですか?これは佐藤さんがいいたかったのはね、ローマ教皇と民主党がどちらも約束を守らなかった、つまり、指導者が約束を守らなかったということをいいたのですよ!そこのどこがわからないのですか?約束の言葉の意味わかってますか?

  6. あなたは普段、例えたりしないのですか?類似性という言葉わかりますか?

  7. 「同一律・矛盾律・排中律」とか「新自由主義」とか、本に書いてもいないことをあげつらってベタ褒めしています。さすがにおかしいと感じる読者もいるようで、「とてつもない買いかぶり、作者自身が考えたことすらなさそうな意図(笑)まで無理やり読み取ってしまうやり方は、いかがなものか」と書かれている方もいらっしゃいます(前原政之氏の「mm(ミリメートル)」というブログの佐藤優『功利主義者の読書術』)。つまりこれは本に書いてあることしかあなたたちは読み取れないということですか?優れた本はいろいろな解釈ができるものですが!町田健の言語の有限性と無限性から考察できますが

  8. 「同一律・矛盾律・排中律」とか「新自由主義」とか、本に書いてもいないことをあげつらってベタ褒めしています。さすがにおかしいと感じる読者もいるようで、「とてつもない買いかぶり、作者自身が考えたことすらなさそうな意図(笑)まで無理やり読み取ってしまうやり方は、いかがなものか」と書かれている方もいらっしゃいます(前原政之氏の「mm(ミリメートル)」というブログの佐藤優『功利主義者の読書術』)。つまりこれはあなたたちバカな人だから仕方ないけどね、本に書いてあること以外は読み取れないのかな!優れた本はさまざまな解釈ができますからね!町田健の言語の有限性と無限性から考察できますけど!

  9. あなたね、読者馬鹿とか言ってるけどね、佐藤氏の本を読んでいる読者の方がたくさん頭がいい人がいるよ!あとあなた、佐藤さんの本は何を読んだの?

  10. ピンバック: 佐藤優を斬る──なぜ佐藤優はデタラメな議論をしているのに評価が高いのか | Kitasaitama_sghinnbunn's Blog·

  11. 古い記事にコメントして恐縮ですが

    『太平記』を読んでいて気付いた他の興味深い点は、日本が中華(中国)文化圏の辺境に位置しているのだということです。(中略)最近の日本のデフレ現象にしても、大きな流れとしてみるならば、日本が中華文化圏に再併合されていく過程なのかもしれません。(pp.171-172)

    これ酷いですねえ 佐藤は中国発デフレ論唱えてるんですか?
    中国発デフレ論ってトンデモ経済学ですからねえ

  12. ちょっと君の記事を見て改めて佐藤さんの例えとか説明を聞いてみたけど、私は佐藤さんの方が分かりやすかったよ。難しい話を難しいままにしないで自分なりに噛み砕いて結論は言っていたし、君は分かりずらい状態のまま人に説明する癖があるのかも、そして自分で気付いていない。あまり彼の事を言える立場じゃないと私は思うよ。頑張って!

    • まさにその通りですよ!わかりやすく言えるということは、それだけ、佐藤優さん、が内容を理解しているということの証明ですね!池上彰さんもそうです

  13. まあ、議論によっては無理筋のことが散見されることは確かです。でも神様じゃないんだから。かなりの量の知識と教養をもって、それを土台にしてさまざまな議論を展開させている。しかもわかりやすく。だから評価されるわけで、それで十分じゃないかと思いますが。読者は全部鵜呑みにせずに一々批判して読む必要はありますが。

    あと精霊のくだりはただの誤植だと思います。些末なことだけ取り上げて「ほら見ろ彼は全部間違っている!」と論じるのはどうかと思いますよ。実際にあなたも冒頭で
    「彼は入学後にプロテスタントの洗礼を受けたらしいので、正真正銘のクリスチャンです。」
    の述べていますが、認識間違っています。クリスチャンとプロテスタントは全然異なりますよ。

  14. といいつつ、私が間違っていました・・
    クリスチャンをカトリックと誤読していました。
    訂正してお詫びします。

  15. ピンバック: なぜ佐藤優氏の解説を聞いているうちに「疑心と不安」を抱くの? | まなベルサイト:Megabe-0·

  16. 南条宗勝さんへ 一歩譲って、中国発ではないとしましょう!しかし、世界経済をマクロ的な視点で見ると、中国経済が低迷すると、世界経済に影響は出ないというのは違うと思う!

  17. パウロは池田大作みたいな人という点は奇妙でもなんでもないと思いますよー現在生きていらっしゃるひとに喩えることは、古人の偉大な言動を表す上でとても、有効だと思います!

  18. 記事身につまされました。(私は小市民で公人ではないです。もちろん。) わたしは、むしろ、佐藤さんに期待しているように感じましたが、どうですか。ちなみに、わたしも藤原正彦さんには懐疑的です。

  19. 佐藤優バカじゃん
    ウクライナ危機でかなりお世話になったけどこいつには失望した。
    本買おうと思ったけど買わなくてよかった

  20. ゲーデルの「不完全性定理」は数学の欠陥ではなくパリティ対称性の破れの裏付けである。

  21. 私の教養主義とスノビズムを程よく満たしてくれるのかと期待して読んでみた。

    結果は、貴方の教養主義とスノビズムを程よく満たしてくれる佐藤優へのラブコールを読まされて、心に慚愧の念が「精霊」のように立ち現れた。

    さり気なく衆生を見下しても、貴方も衆生なのだから響かない。

    期待させるのだけは「得意」みたいだね。

  22. 面白い文章を無料で読ませて貰って本当に楽しかった。やっぱ面白い人は社会のどこかに固まってるんやなぁ
    ただ、最後の一節は非常に不愉快だった。あなたが信仰を持ってないことが良く分かる。「お伊勢さんは池田大作みたいだね、と書いています。その内、池田大作はお伊勢さんを超えた、と書くかもしれません(笑)」とか書かれたら、殴りたくなるから。

    一つ目に、佐藤のそのアナロジーの手法は、こいつの言う「同志社で受けた神学的思考訓練」の中身そのものなのでは?という疑い。この思考回路が佐藤一人の独り善がりなのか、それとも本当に(少なくとも同志社の)神学教育を受けた人間はこの思考回路を叩き込まれるのか、自分で同志社大学神学部に入って卒業してみないと、分からない。同志社の教育メニューの問題点から佐藤だけ切り離して佐藤だけ批判する所まで辿り着けないお

    もう一つは、あなたの文章読んでて、佐藤優という人間はどこまでも「学生」でしかないんやなぁ、と実感した。「教授」ではないんだな、と。専門領域を持った、ね。三位一体論の部分の話で実感した。

    面白かったです。ありがとうございますた。

  23. 貴方が仰る通り《佐藤優》氏はいいかげんな論調と歴史観だと私も思います。
    彼が喋っている事は「今迄信じられてきた歴史」から都合の良い事だけを引用して共感を呼び込み易く組み立て説得するように聴かせるのです。
    まぁ、詐欺師に近い才覚を持っている人物だと思えます。
    正直、《佐藤優》氏の論弁にイラッとする気持ちは充分に理解出来ますが彼には彼の論弁で洗脳されたシンパが大勢存在します(笑)
    貴方が幾ら批判した処で恐らく無駄となります。

    私の近辺にも狂信に近いシンパがおります。
    《佐藤優》氏の本や講演に高い金を払っております。
    色々と説得しましたが《佐藤優》氏を盲目的に心酔していますので全て無駄でした。

    相手をしていると疲れるだけです。
    貴方は貴方が進むべき道に戻るべきです。
    《佐藤優》氏は「戯言ばかり言っている○○○○」と思い直して無視して良いです。

    《佐藤優》氏シンパは自分達の意見が否定されると怒涛の如く攻撃してきます。
    私も疲れて二度と相手をしていません。

  24. あれだけ毎月本出してれば、いろんな間違い・勘違い・曲解・牽強付会などなどあると思いますよ。

    そして読書っていうのは基本的に誤読の積み重ねです。佐藤さんはそれこそものすごい速さで斜め読みを続けていると思います。

    また人間の主張はほとんどが論理性のないアナロジーでしょう。
    あまり目くじら立てなくても思います。佐藤さんに批判が少ないのはやはり「知の巨人」というレッテルにみんな怖がってるんだと思います。

    自分もかなり佐藤さんの本読みましたが、面白く読めたものもそうでないものもあります。ちょっとついていけないと思うところは、腐りかけた左翼的志向がかなり見え隠れするところですかね。

    国家の罠・自壊する帝国はたしかに面白かったです。

    外務省ハレンチ物語も面白かったですねww

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Google+ フォト

Google+ アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

%s と連携中