「あしたのジョー」の現代的意味──「あしたのジョー」論その十三

「あしたのジョー」論第十二回です。今回は、現代において「あしたのジョー」を読む(あるいは見る)意味について説明します。

なお、今回の記事は「あしたのジョー」を知らない人、あるいは知っているが今までの記事を読んでいない人でも分かるように説明するつもりです。これを読んで、多くの方に「あしたのジョー」を知っていただければ幸いです。

※「あしたのジョー」論は全十三回です。全記事一覧をご覧になりたい方は、タグ「あしたのジョー」か、記事「『あしたのジョー』論」をご覧ください。

目次

「あしたのジョー」は現代でも読む(見る)に堪えるか

以前にも説明した通り、「あしたのジョー」は1968~1973年に「週刊少年マガジン」に連載されていた漫画です。アニメ「あしたのジョー」は1970~1971年放送ですし、アニメ第二作「あしたのジョー2」は1981年放送です。つまり、原作が連載終了してから既に40年以上、アニメ第二作から数えても30年以上経過しているわけです。

この30・40年で漫画の技術や画風は大きく変化しました。物語も、梶原一騎的な「劇画」作品は鳴りを潜め、それとは対極に位置する「萌え」漫画や「日常系」「ゆる系」アニメが流行しています(さいとう・たかを『ゴルゴ13』は、「劇画」作品としては未だに連載が続いていますが)。

物語の内容に限らず、ボクシング漫画としても「あしたのジョー」は時代遅れといえます。「あしたのジョー」的な絶食による過酷な減量、肉を切らせて骨を断つ野性的ボクシングは非科学的・前時代的なものと退けられ、医学や栄養学に則る効率的な減量、防御や回避を駆使したテクニカルなボクシングが流行しています。

そんな2014年現在において、「あしたのジョー」という古い作品を読む意味は果たしてあるのでしょうか? もはや全共闘の時代でもなし、「あしたのジョー」は歴史的作品として役目を終えたともいえるのではないでしょうか?

こんな疑問は、「あしたのジョー」を読む私に常につきまとっていました。現代にもなって、自分が生まれる遥か前に描かれた古い作品になぜ惹かれるのだろうか? ただの懐古趣味ではないだろうか? 「あしたのジョー」は、現代でも読む価値があるのだろうか? と。

結論からいえば、確かにボクシング漫画としては「あしたのジョー」は時代遅れです。が、その物語については、「あしたのジョー」は現代においても価値を失っていないと考えます。それは、私が「あしたのジョー」に強い影響を受けたからだけではありません。この漫画・アニメが、他の作品では描きえない重要なテーマをいくつも含んでおり、それを見事に描くことができているからです。

読者層の幅広さ

「あしたのジョー」の現代的意味を語る上で、まず読者層が極めて幅広いことを指摘しておきます。

前述の通り「あしたのジョー」の連載時期は1968~1973年でしたが、愛読している著名人の生年を見ると、幅広い世代の人が存在することが分かります。

例えば、第十二回紹介した夏目房之介・高取英・島本和彦・豊福きこうの三人です。この三人はリアルタイムで「あしたのジョー」を読んでいた世代ですが、夏目は1950年生まれ、高取は1951年生まれ、島本は1961年生まれ、豊福は1963年生まれです。島本と豊福は当時小学生、夏目と高取は既に大学生と、世代に幅があるのです(考察本は書いていませんが、小説家の夢枕獏も1951年生まれで、「あしたのジョー」を読んでいた人です)。

もう少し遡ると、「あしたのジョー」の楽曲に歌詞を提供している寺山修司は1935年生まれ、文学者の三島由紀夫は1925年です。三島は「あしたのジョー」を愛読しており、「週刊少年マガジン」編集部まで最新号を取りに来たというエピソードも残っています。彼は1970年に、「あしたのジョー」の完結を見ることなく自決しましたが……。

愛読していたかどうかは不明ですが、かつてよど号ハイジャック事件で「我々は明日のジョーである」と宣言した田宮高麿は1943年生まれでした。

「あしたのジョー」連載終了後に愛読していた人もいます。お笑いコンビ「ガンリキ」の佐橋大輔は丹下段平の物真似で知られますが、1971年生まれなのでリアルタイム世代ではありません。

ちなみに、私は1991年生まれなので、原作どころかアニメ「あしたのジョー2」すらリアルタイムで見ていません。中学生の頃(2006年頃)に「あしたのジョー」原作を読み始めた人間です。

このように、「あしたのジョー」を愛読していたのは同時代の子供だけではありませんでした。いや、むしろ大人のほうが愛読していたのです(夏目は、小中学生は「巨人の星」愛読者が多く、大学生や社会人は「あしたのジョー」愛読者が多かったと指摘しています)。連載が終わってからも人気は下火にならず、今でも愛読している人たちがいます。

実写版「あしたのジョー」が2011年に公開したのは記憶に新しいことですが、40年以上前の作品が未だに実写化されることは、この作品の人気が同時代的なものだけではなく、何らかの普遍的な価値を持っているからだと思われます。

「あしたのジョー」の現代的意味

自分の美学に忠実に生きること

では、「あしたのジョー」の普遍的な価値とは何なのか? 私は第一に、周囲の反対を受けても、自分の美学に忠実に生きることの尊さを描いていることにあると思っています。

矢吹丈とヒロインの林紀子とのデート中、紀子はジョーにボクシングをやめてはどうかと聞きます。ジョーがボクシングに「青春」を捧げる姿が紀子には「悲惨」「暗すぎる」と思えたのですが、ジョーはそうではなく、ボクシングこそが自分の「青春」だと答えました。そして、あの「まっ白な灰だけが残る」という台詞が出てきます。

このデートの結果、紀子はジョーから身を退いてしまいます。今まで仲の良かったドヤ街の子供たちも、ボクシングにのめりこむジョーから距離を置くようになってしまいます。それでもジョーはボクシングに邁進し、最後には「まっ白な灰」となりました。

重要なのは、周りの反対を押し切ってでもジョーが自分の信じる美学を貫いたことです。

自分の美学を貫くことの大切さだけなら、わざわざ「あしたのジョー」に教えてもらうまでもない当たり前のことです。しかし、その美学が周りの人に受け入れられず、そのせいで人々が離れていった場合、我々はあくまで美学を貫くことができるでしょうか?

卑近な例を考えてみると分かりやすい。例えば、バンド活動をやっていて将来はアーティストになりたいのだが、両親は安定したサラリーマンになってほしいと望んでいる。こんなとき、皆様は両親なんか気にせずにアーティストを目指せ、アーティストになって失敗して死んでも本望だと心からいえるでしょうか?

ジョーは周りの人が反対しても気にしませんでした。紀子や子供たち、最後にはジムの丹下段平、ヒロインの白木葉子までもが反対していたのに、自分の決意を信じてボクシングに邁進しました。ジョーと試合をした力石徹も、周りの反対を押し切って非人道的な減量に臨み、そして死んだのでした。

私の知る限り、周りの反対を押し切ってでも自分の美学を貫くことを描いた作品は極めて少ない。代表的なものは、三浦建太郎『ベルセルク』の「黄金時代篇」でしょうか。ガッツはグリフィスと対等になるために反対を退けて「鷹の団」を抜け、グリフィスは「城」を目指すためにガッツや「鷹の団」を「蝕」の生け贄に捧げました。ただ、『ベルセルク』は完結する気配が全くありませんが……。

あと、第十一回で紹介した赤木しげるの登場する『天』の「通夜編」も、自分の美学を貫いて自殺する赤木の姿を見事に描いていました。

自分の美学に殉じ「まっ白に燃えつきる」ことの尊さを描いた作品として、「あしたのジョー」は末永く語り継がれることと思います。

自己本位的に生きること

「絆」とか「友情」とか「仲間」といったテーマを扱った作品は、今も昔も大量に存在します。それが悪いわけではありませんが、そんな作品にばかり親しんで育つと、前述の「自分の美学に忠実に生きること」を実現することが極めて難しくなる。自分の美学を貫くということは、自分に反対してくれる人たちに対する一種の裏切りですから、ある程度自己本位的に生きていなくては不可能だからです。

誤解なきよう補足しますが、私は別に自己本位的に生きることだけが素晴らしいといいたいわけではない。「あしたのジョー」には「絆」や「友情」が皆無だといいたいわけでもない。ただ、矢吹丈の自己本位的な生き方を見習って、「絆」とか「友情」とか「仲間」ばかりを重視する生き方を多少中和してはどうかと提案しているのです。

第十回第十一回で説明してきたことですが、ジョーの生き方はかなり自己本位的です。ドヤ街住人やジムの丹下段平・西の思いを裏切って勝手にドサ周りに出たりしますし、廃人となるのを覚悟で世界タイトルマッチに臨んだりする。試合中もセコンドの意見をほとんど聞かない。拳で殴りあった力石やカーロスとの友情は存在しますが、それ以外の面では大変に自己中心的な生き方をした主人公です。梶原一騎「タイガーマスク」の伊達直人とは境遇は似ていますが、生き方はまるで逆といえましょう。

こういった生き方の主人公を探すことは現代では難しい。世の中の大抵の作品は「絆」とか「友情」をテーマにしているので、自己本位的生き方に逆らってしまうからです。強いていえば、福本伸行『アカギ』『天』に登場する赤木しげるぐらいでしょう。

ジョーも赤木も、自己本位的に生きたあまり、世間的にはあまり褒められた生き方をしていない人間です。「三流は金を残す、二流は事業を残す、一流は人を残す」なんて言葉がありますが、二人はいずれも残していません。遺産を残したわけでもなく、素晴らしい仕事や作品を残してもおらず(いくつかのボクシング試合や麻雀勝負の記録は残しましたが)、人を育て上げたわけでもありません。

しかし、それでいいのです。「残す」というのは残された人間たちから見たときの言葉であって、先に死ぬ当人(つまりジョーと赤木)には一切関係ありません。「後に残された人たちのために何かを残さなくては」などという雑念が入らないほど自己本位的に生き、「まっ白に燃えつきる」生き方をしたのが、ジョーであり赤木であったといえましょう。

「生きがい」を見つけること

「あしたのジョー」の現代的意味の最後に、ジョーが十五歳のときにボクシングに出会い、そして力石徹という「生きがい」に出会ったことを挙げておきます。

私が重要だと考えるのは、ジョーがボクシングに出会ったのが子供の頃ではなく思春期であることです。

第十回で説明したように、梶原一騎漫画の主人公は、幼時に何らかの経験をして、それが生き甲斐になっているキャラクターが大変に多い。父・星一徹の野球教育を受けて「巨人の星」になることが生き甲斐の星飛雄馬などはその典型です。そして、こういう要素があると、読者はどうしても感情移入しにくくなってしまいます。

例えば先に挙げた「巨人の星」。確かに名作ですが、これを読んで「よし、俺も一徹のような父親の下に生まれて、巨人の星となるような野球選手を目指そう」と思う読者は少ないでしょう。そう思っても父親を選び直すことはできないし、幼時から野球をしていなかったらもう間にあわないからです。(生まれた環境などの)自分でコントロールできないものによって「生きがい」を与えられている場合、同じ環境にある読者にとっては感情移入しやすいが、そうでない読者にとっては他人ごとになってしまうのです。

しかし、ジョーはそうではありません。ジョーは子供の頃からボクシングをやっていたわけではなく、むしろ十五歳までは「充実感」もなく適当に生きていた。そこへボクシングと出会い、力石徹というライバルを得ることができた。これは、多くの読者(特に小中学生)にとってはとても感情移入しやすい設定です。

大学生や社会人もそうかもしれませんが、多くの子供たちは生きがいややりがいなんて持たず、何となく生きているものです。かつてのジョーもそうでした。しかし、彼はひょんなことからボクシングに出会い、それが生きがいとなった。最後には、周りの反対を退けてまでのめりこむものになった。これは、「自分も生きがいと呼べるものに出会えるかもしれない」という希望を読者に与えてくれるからです。

こうした希望を与えてくれる漫画も現代では少ないように思います。数少ない例外は井上雄彦『スラムダンク』などですが、桜木花道の場合は身体的条件に恵まれた部分も大きいですし、練習期間の短さが非現実的すぎるので、「結局才能ではないか」と思ってしまう。ジョーも才能に恵まれたところはありますが、彼は身体的条件は普通ですし、血の滲むような練習を何年も続けていますから、そこまで非現実的な印象は受けません

「あしたのジョー」論まとめ

以上、「あしたのジョー」の三つの現代的意味を説明してきました。

「あしたのジョー」というと、よど号ハイジャック犯に利用されたとか、梶原一騎とちばてつやの個性の融合だとか、そういった歴史的な文脈で語られることの多い漫画です。また、出崎統監督の「出崎演出」が冴え渡るアニメとして語られることが多い。

それは決して誤りではないのですが、歴史的なことに重きを置いてばかりいると、「あしたのジョー」自体が歴史的な作品になってしまい、「名前と結末だけは知っているが誰も読まない作品」になりかねません。事実、そうなった古典的な漫画作品はたくさんあると思います。

私が「あしたのジョー」の現代的意味を考えるに至ったのは、第一に、「あしたのジョー」と同じ時代を共有していない自分がなぜ「あしたのジョー」に惹かれるのかを考えるためでした。第二に、「あしたのジョー」が(1960・1970年代限定でなく)現代にも通用する名作であるならば、それは一体何に由来するのかを考えるためです。その末に、私は上記の三つの意味があるからだと考えました。

最後に、今後も「あしたのジョー」が長く愛されることを祈って筆を措くことにします。

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「あしたのジョー」の現代的意味──「あしたのジョー」論その十三」への1件のフィードバック

  1. 「あしたのジョー論」お疲れ様でした。
    とても読みごたえがあり、徹夜してしまいました。
    評論にありがちな、用語をこねくり回すところがなく実に読みやすかったです。

    私は古い漫画が割合好きで、ちばてつやも好きだったのですが、
    あしたのジョーの場合は強いストイシズムの面を(テレビなどで断片的に知っていただけですが)気にしすぎていたせいか、手にとるまで時間がかかりました。

    私には突飛過ぎるように思えたジョーの行動もこちらの考察を読んで納得できるところが多かったです。
    とにかくキャラクターの行動原理がしっかりした作品なんですね。

    夏目房之助さんの本も読みましたが、作画でも多くの工夫があったことに感心しました。
    力石戦後の控え室の息の詰まるような表現などに名人芸を感じました。

    あまり考えなくてもどんどん読ませる力のある作品でしたが、今度読み返すのがとても楽しみになりました。

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