梶原一騎漫画における「あしたのジョー」──「あしたのジョー」論その十

「あしたのジョー」論第十回です。今回は梶原一騎漫画における「あしたのジョー」について説明します。

なお、「あしたのジョー」の原作者名義は「高森朝雄」となっていますが、この記事では「梶原一騎」と表記します。

※「あしたのジョー」論は全十三回です。全記事一覧をご覧になりたい方は、タグ「あしたのジョー」か、記事「『あしたのジョー』論」をご覧ください。

目次

私と梶原一騎漫画

初めに断っておくと、私は梶原一騎作品を全部読んだわけではありません。漫画・アニメ・劇場版・考察本まできちんと見たのは「あしたのジョー」のみで、原作・アニメともに見たのは「巨人の星」と「タイガーマスク」、後は「愛と誠」「空手バカ一代」などの有名作の原作を読んだだけです。ですので、「あしたのジョー」以外の作品について私が論じるとき、ファンの方から見れば「そうではない」「表面的な理解にすぎない」と思われる部分もあろうかと思います。皆様からのご意見・ご批判を頂ければ幸いです。

なお、梶原一騎作品について網羅的に掲載しているサイトがありますので(梶原一騎原作漫画網頁『一騎に読め!』)、ご興味のある方はそちらもご覧ください。

梶原一騎漫画の主人公

幼時体験と精神的外傷

まず、梶原一騎漫画における主人公について説明してゆきます。その後で、梶原一騎漫画における矢吹丈の位置づけについて説明しましょう。

以下の表は、「巨人の星」「タイガーマスク」「愛と誠」などの有名な梶原一騎漫画の主人公の境遇を記したものです。

星飛雄馬(「巨人の星」)
幼時から父・星一徹に「野球人形」として育てられ、「巨人の星」になる夢と父への愛憎に生きる。
伊達直人(「タイガーマスク」)
幼時から「虎の穴」にプロレスラーとして育てられ、正義感と「ちびっこハウス」への思いやりに生きる。
太賀誠(「愛と誠」)
幼時に早乙女愛の命を救って顔に傷を負い、復讐に生きる。
大山倍達(「空手バカ一代」)
朝鮮人として生まれた後に日本人に帰化し、元朝鮮人と帰化日本人としての孤独に生きる。
一条直也(「柔道一直線」)
東京オリンピック(1964年)での日本の敗北に屈辱を感じ、日本柔道を再興するために車周作に師事して柔道を学んだ。
番場蛮(「侍ジャイアンツ」)
幼時に父を鯨に殺され、「球界の鯨」である巨人軍を憎むようになる。

梶原一騎漫画の主人公には共通点があります。幼児期に何らかの経験をしており、それが人生の方向性を決定しているのです。野球人形・プロレスラー・朝鮮人(帰化日本人)としての運命を課せられたり、幼児期の顔の傷や日本柔道の敗北や父の死によって人生の目標を決定しています。

ここでいう「経験」とはハッピーな「経験」ではなく、むしろトラウマとなるような「経験」です。父や「虎の穴」による地獄の猛練習、幼時の傷や父の死や日本柔道の敗北、元朝鮮人と帰化日本人としての孤独など、こうした精神的外傷が主人公たちの人生を強く支配しています。

ここで、「あしたのジョー」の主人公・矢吹丈に目を向けます。彼は十五歳のときに段平と出会ってボクシングを学び、少年院で力石に負けてボクシングをするようになりました。また、ライバルである力石徹の死やカーロス・リベラの廃人化が精神的外傷となり、彼の人生を大きく変えることになりました。

これだけ見るとジョーも他の主人公と似たように思えますが、実は異なる点がいくつかあります。

第一に、ジョーのボクシングは幼時体験に基づくものではないということです。もちろん、ジョーも「天涯孤独」とか「孤児」といった生い立ちを持っているのですが、それがボクシングに打ちこんだ理由ではありません。ジョーがボクシングを選んだのは、最初は金儲けのため、次は暇潰し、そして力石徹に負けたからです。

些細な違いだと思われるかもしれませんが、これは極めて重要な違いです。というのも、他の主人公たちは幼時に避けられぬ運命を課せられたのに対し、ジョーは十五歳以降の思春期に、自らボクシングという運命を選び取ったからです。こうした違いは、「野球人形」としての自分に苦悩した飛雄馬との違いを生みます(詳しくは後述)。

さらに重要な違いがあります。他の梶原一騎漫画の主人公同様、ジョーも大切なものを失くしているのですが、ジョーは力石を「失くした」だけでなく「殺した」ということです。

「巨人の星」では飛雄馬の恋人・美奈が病死してしまうのですが、彼女は飛雄馬に殺されたわけではありません。飛雄馬は後に父・一徹と球場の「親子けんか」を展開しますが、一徹を殺しはしませんでした(父を超えるという意味での精神的な「殺し」はしたかもしれませんが)。

「タイガーマスク」の大門大吾(ミスター不動)は伊達直人をかばって死にますが、彼は直人に殺されていません。

一条直也は後に師匠の車周作と離反しますが、周作を殺しはしていません。

2013年9月23日の赤木しげると他者という記事でも説明しましたが、自分の存在が他者の犠牲によって成り立っているという罪悪感は人間を大きく変えてしまいます。ましてジョーのように、自分にとって最初の「親友」であった力石を殺したとなれば、その罪悪感・絶望感は尋常でないものになるでしょう。

夏目房之介は『マンガの深読み、大人読み』で、「あしたのジョー」という作品は少年の青年化の過程を描いたものだといっていますが、その「青年化の過程」が「親友を自分で殺した」という絶望的な体験によって起こっているからこそ、「あしたのジョー」という作品は恐るべきリアリティを持ちえたのだと思います(以前紹介した『あしたのジョー』と生き残りの罪障感―梶原一騎論のためのノオト(4)という記事は、夏目漱石『こころ』の「先生」「K」と絡めて論じています)。

戦う目的

梶原一騎漫画における「あしたのジョー」を語る上で、もう一つ重要な点があります。主人公の戦う目的です。

梶原一騎漫画の主人公には、戦う目的があります。星飛雄馬は「巨人の星」になるため(途中から父を倒すため)、伊達直人は「ちびっこハウス」の子供たちを救うため、太賀誠は早乙女愛に復讐するため、大山倍達は日本や日本人の誇りを守るため、一条直也は日本柔道を再興するため、番場蛮は巨人軍を倒すためです。

最初はジョーにも戦う目的がありました。自分を完敗せしめた力石徹という男に復讐するという目的です。

しかし、力石戦での敗北での幸福感、カーロス戦での充実感を経て、段々と戦う目的が変わってきます。何らかの目的実現のためでなく、ただ戦いたいから戦うようになります(第四回参照)。

何かの目的実現や自己実現欲求でもない、勝つと気持ちいいからでもない。ただ戦いたいから戦う、目的や勝敗などは関係ないという究極の境地に達したのが矢吹丈であり、「戦いたい主人公が周りの反対にも屈することなく、ただ自分の信念を貫いて戦い、最後にはまっ白に燃えつきる」という物語を描ききったのが「あしたのジョー」というわけです。梶原一騎漫画には名作が数多くありますが、「あしたのジョー」が抜きん出て優れているのは、こうした稀有な物語を見事に描けたからだと思います。

ちなみに、駄文DEPOT27というサイトで梶原一騎作品に通底する構造が説明されています。表と文章を引用させていただきます。

A: 孤高の強者たる男
B: Aを愛する高貴不屈の女
C: Aを憎み憧れ挑み続ける男
A B C
『斬殺者』 宮本武蔵 ロザリアお吟 無門鬼千代
『柔道讃歌』 利鎌竜平 巴輝子 巴突進太
『愛と誠』 太賀誠 早乙女愛 岩清水弘
『恋人岬』 秋月照之 一城火沙子 泉明日彦
『タイガー・マスク』 タイガー・マスク 若月ルリ子 伊達直人

これは大変おもしろい分析ですが、さらにおもしろいのは、「あしたのジョー」にはこの図式が当てはまらないことです。再び引用します。

『あしたのジョー』をこの「梶原一騎の定理」に当てはめた場合、
A:力石徹、B:白木葉子、C:矢吹丈 
かとも思ったのですが、実は
A:空白(もしくは、「神」)、B:白木葉子、C:矢吹丈&力石徹&カーロス・リベラ
かなと。  

不在のA(父/神/師/社会)との決着をつけるために、世界チャンピオン・ホセにA(=倒すべき「父」)を「受肉」させたのが、最終シリーズの構成なんじゃないかと。だからそれまでの展開からすると、ちょっと唐突な感じを受けるんじゃないだろうか。

私の考えでは、力石戦までは「A:力石徹、B:白木葉子、C:矢吹丈」で正解ですが、力石戦後は「A:矢吹丈(ボクサー)、B:白木葉子、C:矢吹丈(人間)」ではないでしょうか。AとCに該当する人物が同一である点で、「タイガーマスク」と同じ構造をとっているのです。

「タイガーマスク」と異なるのは、「あしたのジョー」においては、AとCの対立がほとんど見られないこと。

健太少年の憧れのヒーローである、「強く正しい不屈の男・タイガーマスク」と、「死にたくない、いっそ逃げ出したい」と思いつつも、子供たちが見ている手前雄雄しく戦わざるをえない、「中の人・伊達直人」のせめぎ合いのドラマですね。

「あしたのジョー」には、こうした「せめぎ合いのドラマ」はほとんど見られません。「矢吹丈(人間)」は「矢吹丈(ボクサー)」を憎んでいるわけではなく、むしろ積極的に感情移入してゆくのです。

もっといえば、「あしたのジョー」の後半は「A:矢吹丈(ボクサー)、B:白木葉子、C:空白」なのだと思います。「矢吹丈(人間)」は消滅し、「矢吹丈(ボクサー)」が、目的もなく(だからCではなくAなのです)戦うために戦う。その結果、「矢吹丈(人間)」として接していた紀子やドヤ街住人とは疎遠になり、世界タイトルマッチでは丹下段平・白木葉子・ウルフ金串・少年院収容生・ゴロマキ権藤などの「矢吹丈(ボクサー)」として接していた人物しか来なくなります。

必殺技

梶原一騎漫画といえば、必殺技は欠かせません。「巨人の星」の大リーグボール、「タイガーマスク」のタイガー・スープレックス、「空手バカ一代」の三角飛び、「柔道一直線」の地獄車などなど、枚挙に暇がありません。

「あしたのジョー」にももちろん必殺技が登場します。ジョーのクロスカウンターや「両手ぶらり戦法」、青山の「コンニャク戦法」、カーロスのエルボー(肘打ち)、ハリマオの「飛翔戦法」や「後方ひねり回転ダブルアッパー」、ホセのコークスクリューなどです。クロスカウンターで4倍、ダブルで8倍、トリプルクロスでは12倍の威力があるというデタラメで大味な解説も梶原漫画ならではです。

力石との試合までは、「両手ぶらり戦法」からのクロスカウンター一辺倒でした。基礎的な技術が欠けているジョーには、それしか戦術がないからです。ところが、ジョーは力石の死後になるとほとんど必殺技を使わなくなります。力石の死後は「両手ぶらり戦法」を封印しますし、クロスカウンターはカーロスとのスパーリング(一回目)と最後のホセ戦だけです(プロ復帰後はボディブローばかり使っていましたが、あれは必殺技ではなくテンプルを打てなかっただけです)。

ここで、なぜ梶原一騎漫画に必殺技が登場するのかを考えてみましょう。星飛雄馬の「大リーグボール」は身体的に欠点を抱えた自分の投球を大リーグでも活かすため、大山倍達の必殺技は元朝鮮人や日本人として差別や苦難と戦うため、一条直也は「力の柔道」を倒して「技の柔道」を再興するためなどです。

「日本野球v.s.大リーグ」「日本v.s.朝鮮」「日本柔道v.s.海外柔道」など、いずれも日本と海外(特に欧米)の対立を軸として登場していることが分かります。「タイガーマスク」や「侍ジャイアンツ」には直接出てきませんが、「虎の穴」の巨大なプロレスラーや「球界の鯨」である巨人軍などは、巨大な敵としての欧米の象徴ともいわれます。

「あしたのジョー」に話を戻すと、日本と海外の対立軸はほとんど登場しません。いや、ないわけではないのですが(ハワイ編では若干日本人と白人の差別問題が出てきます)、それは主要なテーマではありません。ジョーはさほど小さい身体ではありませんし敵も大柄ではないので、「タイガーマスク」や「侍ジャイアンツ」に出てきた巨大な敵も登場しません。

こうした日本と欧米の対立軸は梶原一騎作品の特徴であり、梶原を取り巻く時代の反映ともいえるものですが、「あしたのジョー」ではそれが稀薄なわけです(もちろん、当時と現在のボクシングルールの違いなどはありますが)。(私も含め)現代の若い人たちに愛読される梶原作品といえば「あしたのジョー」が多いのではないかと思いますが、それは時代的・歴史的な対立軸が薄いために、現代の人が読んでも隔世の感が少なく、時代を超えた普遍的な価値を持っているからだと思います。

矢吹丈と星飛雄馬

同時期に連載していた大ヒット作品であるため、「あしたのジョー」(1968~1973年)と「巨人の星」(1966~1971年連載)はよく比較されます。夏目房之介『マンガの深読み、大人読み』でも比較して論じられていました。

しかし、そうした時代背景を抜きにして比べると、「あしたのジョー」と「巨人の星」にはそれほど共通点がありません。矢吹丈と星飛雄馬は性格がまるで違います。丹下段平と星一徹も、力石徹と花形満も全然違いますし、むしろ共通点のほうが少ないようにも思われます。

ジョーと飛雄馬の性格の違いを物語るものは色々ありますが、最大の違いは「ボクシング(野球)に対する姿勢」だと思います。

アニメ「巨人の星」で、飛雄馬がクリスマスパーティーを企画したところ誰も集まらなかったという話があります(第92話「折り合わぬ契約」)。飛雄馬らしからぬ行動ですが、なぜ彼がこんなことを思いついたかというと、野球選手のアームストロング・オズマに「野球ロボット」だといわれたことが原因です。このエピソードは原作にはありませんが、原作でもオズマと同じ「野球ロボット」(あるいは「野球人形」)であることに苦悩し、そこから脱却しようとしていました。

アニメ「巨人の星」の第88回「ロボット対人形」では、飛雄馬のオズマのこんなやりとりがありました。巨人の星(再放送)[第87~88回]|不吉の背番号13&ロボット対人形より引用します。

──俺には青春がない。明けても暮れても野球だ。お前にはあるかな、その若さにふさわしい青春が?

──俺には恋人がいない。お前にはいるか?

──俺は野球の理論書以外に本というものを読んだことがない。お前は本は読むか?

──俺には野球に関係のない友人は一人もおらん。お前はいるか?

──俺は野球以外の夢をもつことはない。お前は?

「いいか、今並べたものが全部揃ってこそ、本当の青春といえるんだ
 それがなくてただ野球だけなら、
 攻・守・走の3つの性能を目標に製作されたロボットでたくさんだ。だから我々は…」

こうした問答から飛雄馬は「野球人形」としての自分に迷いを抱き、「もっと人間らしい青春を送りたい」とクリスマスパーティーを企画したわけです。

このオズマの台詞ですが、「野球」を「ボクシング」に置き換えると、ジョーにも当てはまることがお分かりでしょう。ジョーは「明けても暮れてもボクシング」ですし、「恋人」はいませんし、「本」は読みませんし、「ボクシング以外の夢」などありません。「ボクシングに関係のない友人」はドヤ街の住人や紀子がそうかもしれませんが、ジョーにとっての親友は力石やカーロスなどのボクサーだけです。飛雄馬が「野球人形」なら、ジョーはさしずめ「ボクシング人形」です。

しかし、飛雄馬と違ってジョーは「ボクシング人形」であることに迷いを抱きませんでした。紀子に「青春」について聞かれたとき、ボクシングこそが自分の「青春」だとはっきり答えたのです。この違いはなぜ起きるのか?

それは、ジョーと飛雄馬では違いがあるからです。「ジョーはボクシング以外の人生を送ったことがあるが、飛雄馬は野球以外の人生を送ったことがない」という違いです。前述の通り、ジョーがボクシングを始めたのは十五歳ですから、十五歳以前はボクシング以外の人生を送っていたはずです。一方、飛雄馬は生まれたときから一徹に野球教育を受けており、野球以外の人生を送ったことがありません。

ジョーはボクシング以外のものを知っているからこそ、紀子とのデート中に「拳闘をやる前はそんな充実感はなかったよ」ということができます。彼にとってボクシングとは人生というだけでなく、「ボクシングに出会う前の充実感のなかった自分を救ってくれた存在」でもあるのです。一方、飛雄馬は「野球をやる前はそんな充実感はなかったよ」とは絶対にいうことができません。彼には「野球に出会う前の自分」が存在しないからです。

『マンガの深読み、大人読み』によると、「あしたのジョー」を愛読していたのは大学生以上の世代で、少年層は「巨人の星」派が多かったそうです。漫画の内容の違いもあるのかもしれませんが、最大の理由は、「自分の青春が世間の青春とずれていても、それが自分にとって誇らしいものならば迷うことはない」という「あしたのジョー」のテーマが、当時の大学生にとって一種の「救い」となったからではないでしょうか。作者のちばてつや自身も、漫画ばかり描いていて世間でいう「青春」を謳歌していない自分を、ジョーを描くことによって納得させたと述べていました(『ちばてつやとジョーの 闘いと青春の』)。

「我々は明日のジョー」であるとハイジャック犯に名前を利用され悪名も呼んだ「あしたのジョー」ではありますが、自分の「青春」を貫くことの尊さを描いたという意味では、誰にとっても(それこそハイジャック犯にとっても)掛け値なしも名作だと思います。

矢吹丈と伊達直人

ジョーと近い梶原一騎作品の人物といえば、飛雄馬よりも「タイガーマスク」の伊達直人ではないでしょうか。孤児であること、格闘技(ボクシングとプロレス)をすることなど、色々共通点があります。豊福きこう『矢吹丈 25戦19勝(19KO)5敗1分』は、「あしたのジョー」考察本では唯一ジョーと伊達直人を比較して論じていますが、慧眼だと思います。

生まれた境遇は同じでも性格はだいぶ違うジョーと伊達直人ですが、最大の違いは、ボクシング(プロレス)をする目的です。

伊達直人は、一貫して「ちびっこハウス」の子供たちのために戦っています。「ちびっこハウス」を救うために「虎の穴」へ上納する資金を使って「虎の穴」に追われる身になりましたし、子供たちが悪い影響を受けないようにと、「タイガーマスク」の姿で反則技を使うのをやめました。アニメの第105話(最終話)「去りゆく虎」では最後まで子供たちのことを思って「ちびっこハウス」を去り、原作では子供を救うために交通事故で死んでしまいました。

一方、ジョーはドヤ街のチビ連のために戦ってはいません。ドヤ街住人やチビ連に励まされることは多いのですが(第三回参照)、それはあくまできっかけの一つです。「ドヤ街のチャンピオン」と囃し立てるのは周りの都合であって、ジョー自身は「ドヤ街の星」になるために戦ったことなどありません。リング上では(カーロス戦以前は)平気で反則技を使いますし、「けんか」もします。カーロス戦後は紀子やチビ連が離れていっても、ボクシングをやめる様子はありませんでした。

伊達直人が常に「正義感」や「思いやり」のために戦ったというならば、ジョーは常に「自分」や「ライバル」のために戦ったといえるでしょう。そういう意味では、ジョーは極めて自己本位な人間です。

余談ですが、2010年末に「タイガーマスク運動」というのがありました。「伊達直人」を名乗る匿名の人物が子供たちに寄付活動を行っていたのです。この活動のなかで、「矢吹丈」を名乗って寄付を行う人が2011年始に現れました。

「伊達直人」を名乗って寄付活動をするのはともかく、「矢吹丈」を名乗って寄付をするのはジョーの性格を誤解していますね。「夢の大計画書」を作っていた最初期のジョーならともかく、ボクシングに出会った後のジョーが寄付活動なんかするはずがないからです。

矢吹丈と大山倍達

「空手バカ一代」の大山倍達は矢吹丈とは性格がかなり異なりますが、比較されることは少ないでしょうが、生き方は重なる部分が多いと考えています。ただ、大山倍達は実在の人物であり、「空手バカ一代」における大山は梶原の創作がかなり含まれているので、以下で述べるのはあくまでも「空手バカ一代」の大山です。

大山倍達は名前の通り日本人ですが、本名は「崔永宜」、元々は朝鮮半島で朝鮮人の両親に生まれたれっきとした朝鮮人であったようです(これは実話)。彼は後に日本人に帰化して日本人として生きることを目指し、極真空手による最強を目指します。

「空手バカ一代」では、元朝鮮人として、帰化日本人としての大山の苦しみが描かれています。

大山は元朝鮮人であるため、どれだけ偉業を果たしても日本の空手界に受け入れてもらえません。かといって、アメリカに遠征すると、今度は日本人ということでアメリカ人から差別を受けます。大山がアメリカで活躍すると、渡米した日本・日系人からは、白人社会で上手くやっている日本人ということで非難されます。

作中でははっきり描かれていませんが、恐らく大山は、朝鮮人からも非難を受けていたのではないか。「朝鮮人」としての『空手バカ一代』崔永宜はなぜ、大山倍達と名乗ったか?という記事の執筆者は、「なぜ、彼は、一言、自分が在日だと名乗ってくれないんだろう。なぜ、俺の本名はチェ・ヨンイだと言って、ぼくたちに希望を与えてくれないんだろう」と思っていたと述べています。つまり、大山は朝鮮人からも、日本人からも、アメリカ人からも非難される孤独な存在であったわけです。

そんな大山が拠りどころにしていたものは、「空手バカ一代」では日本人としての誇りということになっています。元々日本人でないからこそ、大山は日本人であることにこだわり、空手という日本の武道で世界一を目指すことにこだわっていたように思える。ある意味で日本人よりも日本人らしい存在として、大山は人気を集めるようになりました。

ここで矢吹丈に話を戻します。「あしたのジョー」では、彼が日本人であることはほとんど強調されません。これは前述の通り、「あしたのジョー」では日本と海外の対立という梶原一騎的要素が稀薄だからです。その点では、日本人として戦った大山とはまるで異なります。

しかし、孤独ではジョーと大山は共通するように思います。ジョーもまた、丹下ジムからもドヤ街からも日本ボクシング界からも孤立したボクサーとなってゆくからです。

力石の死後ジョーがボクシングに熱中するようになると、紀子やドヤ街住人は彼から離れてゆきます。丹下ジムの段平や西も、ジョーを気遣ってボクシングを辞めさせようとします。ジョーは孤独になってゆくのです。

ジョーはボクシングでも孤独になってゆきます。なぜなら、ウルフ金串・力石・カーロスと、彼と拳を交えたボクサーは皆死ぬかボクサーをやめてしまうからです(アニメ「あしたのジョー2」では金竜飛やレオン・スマイリーも引退しました)。ボクシングとは殴りあうものですから、拳を交えて「魂の語らい」をした友を自分の手で壊すという皮肉な結果を生んでしまう。

大山は日本人として、ジョーはボクサーとして孤独の中で戦い抜きました。その姿が当時の日本人に勇気を与えたのは想像に難くありません。

今回は梶原一騎漫画における「あしたのジョー」について説明しました。次回は、福本伸行の漫画『天』『アカギ』と絡めて「あしたのジョー」を論じてみたいと思います。

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