「あしたのジョー」の最後について──「あしたのジョー」論その七

「あしたのジョー」論第七回です。今回は作品のラストシーンについて説明します。

※「あしたのジョー」論は全十三回です。全記事一覧をご覧になりたい方は、タグ「あしたのジョー」か、記事「『あしたのジョー』論」をご覧ください。

この記事の要旨

  • 「あしたのジョー」の最後は、ジョーの人間としての死を意味するものではないが、ジョーのボクサーとしての死を意味している
  • ジョーがホセに判定負けしたのは、「ハングリーボクサーの精神」への殉死と「ハングリーボクサーの時代の終焉」を意味している。

目次

「あしたのジョー」の最後

主人公・矢吹丈は世界チャンピオンのホセ・メンドーサと世界タイトルマッチ15回戦を戦い抜き、リングサイドにいた白木葉子に身につけていたグローブを渡す。試合は判定負けではあったが、ジョーは「まっ白な灰」となって四角いリングの中で微笑んでいた……。

作品を読んだことのない方でもご存じでしょう。それほど有名な結末です。

ホセ戦後、「まっ白な灰」となった矢吹丈(原作)

ホセ戦後、「まっ白な灰」となった矢吹丈(原作)

上のコマが原作の最後です。判定負けの後、セコンドの丹下段平がジョーを労うのですが、段平が何かに気づいた様子で「ジョー……」と呟くまでが前のページ(左ページ)です。ページをめくると、「まっ白」に燃え尽きたジョーの姿が右ページにある……という終わり方です。

アニメ「あしたのジョー」はカーロス戦までで終わったのでこのシーンはありませんが、アニメ・劇場版「あしたのジョー2」ではこのシーンも再現されました。出崎統監督お得意のハーモニー(止め絵)で再現されましたが、真っ暗な背景にスポットライトがジョーに当たるような絵になっているので、原作に比べると「まっ白」というより「灰色」という印象を受けます。

ホセ戦後、「まっ白な灰」となった矢吹丈(アニメ版)

ホセ戦後、「まっ白な灰」となった矢吹丈(アニメ版)

「あしたのジョー」という作品はこれで締め括りなわけですが、最後付近で色々と疑問が出てきます。

  1. ジョーは生きているのか? 死んだのか?
  2. ジョーはなぜ判定負けしたのか?

疑問について説明した後で私の回答を述べましょう。

1. ジョーは生きているのか? 死んだのか?

「あしたのジョー」に関する最大の疑問が「まっ白に燃え尽きた」ジョーの生死です。

原作にせよアニメにせよ、ジョーがパンチドランカーになったり廃人寸前になっているという描写はありましたが、死ぬかもしれないという描写はありませんでした。まして、あのラストシーンには「ジョーは死んだ」とは一言も書かれていません。それなのに、なぜジョーは死んだといわれるのでしょうか。

ジョーが死ぬかもしれないという予想は、最終回掲載前から読者の中に存在していたようです。以下の記事はちばてつや・豊福きこう『ちばてつやとジョーの闘いと青春の1954日』に掲載されていたものですが、「ジョーを殺すな!」という読者からの手紙に応答して「週刊少年マガジン」が掲載した記事です。原作「あしたのジョー」の最終回は1973年4月20日掲載なので、2ヶ月以上前からジョーの死は噂されていたわけです。

1973年2月23日発売の「週刊少年マガジン」3月18日号(第13号)に掲載された記事

1973年2月23日発売の「週刊少年マガジン」3月18日号(第13号)に掲載された記事

4月20日に掲載された最終回には、判定負けしたジョーを労っているときに何かに気がつく段平が描かれています。それが以下のコマです。

判定負けの後、ジョーを労っていて何かに気がつくジョー

判定負けの後、ジョーを労っていて何かに気がつくジョー

この後は段平が「ジョー……」と呟いた後に例のラストシーンなので、段平が何に気がついたのかは描かれていません。しかし、ジョーが試合に疲れて休んでいるだけなら異変に気づいたような素振りをするはずがないので、「段平がジョーの死に気づいたのではないか」といわれ、それがジョーの死だといわれているわけです。

ちなみにアニメ・劇場版「あしたのジョー2」では、段平が驚いて後ろずさりをする上に、観客が総立ちになり、葉子は呆然としてグローブを落とすという演出になっていますが、これではジョーが死んだことが丸分かりです。出崎監督はジョーを生きているものとして描いているらしいのですが、このシーンを見てジョーが生きていると思う人は誰もいないでしょう。私は「あしたのジョー2」は大変優れたアニメだと思いますが、このラストシーンだけは致命的な演出ミスだと思います。

2. ジョーはなぜ判定負けしたのか?

ジョーはホセ戦で判定負けを喫しました。これについて疑問が二つあります。

まず、なぜ判定による決着なのかということ。アニメのカーロス・リベラ戦(第12話「吹雪の夜…その果てしなき戦い」)、アニメオリジナルのレオン・スマイリー戦(第33話「アメリカから来た…13人目のキング」)を例外として、ホセ戦はジョーの中で唯一判定で決着がついた試合です。ハリマオ戦の直前に「ホセとおれの試合が判定でシロクロがつくと思ってんのかい」といっていたように、ジョーはKO勝ちやKO負けで決まると思っていました。にも拘らず判定による決着となった。これは一体どういうことでしょうか。

次に、なぜジョーは負けたのか、なぜジョーの負けを描く必要があったのかということ。

第四回で述べたように、ホセ戦でのジョーはほとんど勝敗にはこだわっていません。それなら負けても構わないではないかといわれそうですが、私のいいたいことは少し違います。

ジョーにとって勝敗がどうでもよいなら、わざわざ判定負けを描かずに、試合が終わった後に葉子にグローブを渡し、すぐに「まっ白に燃え尽きた」ジョーを描いてもよかったのではないでしょうか。つまり、勝敗をうやむやにして描かないというやり方です。別の作品ですが、「巨人の星」の原作ではそれをやっていました(詳しくは巨人の星の最終回参照)。ところが、「あしたのジョー」でははっきりと勝敗が描かれています。なぜか?

さらに、ジョーが負けたということが重要です。原作でもアニメでも、ホセ戦の最終ラウンドはジョーがクロスカウンターにトリプルクロスを出し、ホセを二度もダウンさせています。第四回でも説明しましたが、ジョーのクロスカウンターを試合で食らって立ち上がったボクサーはかつていませんでした。「あしたのジョー」の今までの常識からいっても、普通の少年漫画の常識でも、この勢いでジョーがKO勝ちしてもよさそうなものですが、ホセは立ち上がり、最後まで戦い続けたのです。その結果がジョーの判定負けですが、なぜジョーを負けさせる必要があったのでしょうか?

ジョーの生死について

答えの出しやすいこの疑問から答えることにしましょう。というのは、作者のちばてつや自身が答えを書いているからです。ちばてつや・豊福きこう『ちばてつやとジョーの闘いと青春の1954日』から引用します。

少し下を向いて満足そうに微笑んでいるジョーを見て、大人はジョーが燃え尽きて死んでしまったんだと理解し、子供たちは、ジョーはただ目をつむって休んでいるだけで、明日はまたサンドバッグを叩いて世界タイトルを目指すんだろうな、と考えられるように描いたんです。
(中略)
僕自身は、このラストシーンが気に入っていますが、実は、自分もぐったりと疲れ果てて、もしかしたらジョーは燃え尽きて死んだのかなと思いながら描いていました。だけど、それはあくまでも僕の解釈ですから決して言いません。読者がそれぞれ感じてくれればいいと思っています。

あのラストシーンは、子供と大人では見え方が違うように描かれていたわけです。漫画評論家の夏目房之介は、生きているようにも死んでいるようにもとれるのが素晴らしいのだといっていましたが(『マンガの深読み、大人読み』)、作者自身がそういう意図で描いていたのです。

この作戦は功を奏したようで、当時子供として「あしたのジョー」を読んでいた人の中には、ジョーは死んでいないと思っていた人が多いようです。「あしたのジョー論」には「子供のときの感性では、ただジョーが休んでいるとしか見えませんでした」とありますし、豊福きこうは、子供のときは生きていると思って読んでいたが、大人になってから死んでいるのだと分かったと書いています『矢吹丈 25戦19勝(19KO)5敗1分』)。

ちばは「もしかしたらジョーは燃え尽きて死んだのかなと思いながら描いていました」といっていますが、こう発言するちば自身は「子供」でなく「大人」でした。最近では「ジョーは死んでいない」と発言している彼ですが、当時はジョーが死んだと思いながら描いていたのでしょう。

私見を述べれば、あのラストシーンのジョーは生物学的には死んでいないと思います。疲れて休んでいるのかどうかは分かりませんが、ジョーは生きています。

しかし、ボクサーとしてのジョーはホセ戦で死んだといえるでしょう。ジョーはホセ戦の前から重度のパンチドランカー症候群を患っており、服のボタンの開け閉めにも不自由するほどです。しかもホセ戦では右目の視力まで失っていますから、今後ボクサーとして試合をすることはできません。それは、かつて丹下段平が左目の視力を失って引退したことと同じです。

そして、ボクサーとしてのジョーが死んだということは、ジョーという人間も死んだに等しいことです。力石が死んだ後からボクシングのためだけに生き続けてきたジョーがボクシングをできなくなれば、ジョーにとって生きている意味がないからです。

ジョーが生きていてなおボクシングに携わるとすれば、段平のようにボクシングジムの会長になるぐらいでしょうか。しかし、誰のためでもなく自分のためだけに戦ってきたジョーが、今更他人を育てるためにジム会長になりはしないと思います。第一、ボクシングに未練があった段平と違い、ジョーはホセ戦で「まっ白な灰」になってしまったのですから、これ以上ボクシングにしがみつく理由がないのです。

ジョーにとってボクシング以外の生き方はないのですが、ホセ戦で燃え尽きた以上はボクシングにこだわる理由もない。そんなわけで、「あしたのジョー」のラストシーンは、この後一体どうなるのか全く想像できないシーンとなっています。第六回で説明しましたが、「あした」のためになど生きなかったジョーの人生の結末がこれです。

有名な話ですが、「あしたのジョー」には廃止された別のラストシーン案がありました。原作者の高森朝雄の案です。ちばてつやの公式サイトに掲載されているので、引用しましょう。

激しく熾烈な攻防の末、僅差でホセに敗れたジョー。力尽きてリングサイドに座るジョーをなぐさめる段平。「おまえは試合には負けたが、ケンカには勝ったんだ」…と。
その後、白木邸のテラスで、ぼんやりとひざを抱えるジョーを優しい眼差しで見つめる葉子…。

ちばのサイトには、「ぼんやりとひざを抱えるジョーを優しい眼差しで見つめる葉子」の絵があります。「あしたのジョー」の続きがあるとすれば、こういうシーンでしょうね。果たしてジョーにとって幸せなのかは分かりませんが……。

ジョーの判定負けについて

ホセ戦の勝敗が判定でついた理由

次に、ホセ戦の勝敗が判定でついた理由を考えましょう。

一言でいえば、「永遠に続けても構わない戦い」の結果、判定による決着になったのだと私は考えています。どういうことか、詳しく説明しましょう。

原作「あしたのジョー」の中で、唯一勝敗がはっきりしなかった試合があります。ジョーとカーロス・リベラの公式戦10回戦です。この試合は5ラウンドからルール無視の「けんか」になり、レフェリーやゴングによる中断も無視して、二人が倒れるまで勝負が続きました。アニメ「あしたのジョー」の第79話「燃えろ 遠く輝ける明日よ!!」でも、「おれたちの闘いにゴングなんか要らないはずだぜ」とゴングを無視して二人で勝負を続けていました。

ボクシングというのは一試合あたりのラウンド、ラウンドあたりの時間が決まっていますから、当然試合には時間制限があります。しかし、(第一回第二回で説明したように)ジョーもカーロスも「野獣」気質が強いボクサーですから、時間制限なんか無視して戦いたがる。すると、二人の体力が限界に来るまで戦い続けることになる。つまり、二人には体力の限界以外に「けんか」を止める理由がないわけで、二人は永遠に戦い続けても構わないと思っているのです。

ホセ戦の最終ラウンドの終盤もこれと同じ構造をしています。トリプルクロスを食らった後もホセは立ち上がりますが、この後ジョーとホセは延々と殴りあいを続け、結局どちらも倒れなかった。カーロス戦と違って「けんか」ではありませんが、ジョーは「生き甲斐」とも感じたホセとの試合の最終ラウンドを、永遠に戦い続けたいと思っていたことでしょう。

しかしカーロス戦と違って、ホセ戦は「けんか」ではありません。ゴングもあればルールもあります。ジョーとしてはもっと戦い続けたかったでしょうが、最終ラウンド終了のゴングには従わざるをえず、勝敗は判定にもつれこんだのです(カーロス戦のジョーならゴングを無視して殴り続けたかもしれませんが、ホセ戦のジョーはそうではありません。彼はルールを無視する「けんか屋」ではなく、ルールを遵守する「ボクサー」になっていたのです)。

カーロス戦の後、白木邸にファイトマネーを取りに行ったジョーはこんなことをいっています。ホセと戦った後のジョーもこれに近い心情であったと思われます。

正直いって
カーロスみたいな大物と
堪能するまでやり合ったおかげで
未だに気抜けした状態だよ
セミの抜け殻みたいにカラッポ

ホセ戦とカーロス戦の違いは、カーロス戦の直後にカーロスがジョーによって壊されていたことが判明するのに対し、ホセ戦では特に何も判明しないこと。カーロス戦後はこの事実がジョーの新たな「神聖な負債」となるのですが(詳しくは第二回参照)、ホセ戦では「神聖な負債」が存在しない。だから彼は「まっ白に燃え尽きる」ことができたのです。

ジョーが負けた理由

次に、ジョーが負けた理由を考えます。

豊福きこう『矢吹丈 25戦19勝(19KO)5敗1分』では、ホセ戦を分析した結果、ホセ戦でジョーが採点で勝っていると思われるのは5・6ラウンド(右目の視力の関係でジョーがホセを圧倒していた)・13ラウンド(ホセが反則をした)・15ラウンド(ジョーがクロスカウンターとトリプルクロスでホセを二回ダウンさせた)だけで、後のラウンドはすべてホセ有利だろうと述べています。確かにその通りで、試合の流れだけを見ると、ジョーが判定負けするのは必然なのです。

ウルフ金串戦も金竜飛戦もそうですが、ジョーは試合途中までは一方的に負けているが、最後には相手をKOして勝つタイプのボクサーです(唯一のKO負けは力石戦)。最終的に相手をダウンすればそれでよいというスタイルなので、採点重視の判定だと基本的に勝利が難しいのです。

あと、ジョーが勝敗に拘らず戦っていたことを強調するために、あえて負けさせたというのもあるでしょう。「ジョーが勝ってまっ白に燃え尽きた」となると、「ジョーは勝つことができたからよかったが、もし負けていたら燃え尽きることができなかったのではないか?」という疑問を呼んでしまうからです。

「ジョーは負けたがまっ白に燃え尽きた」となれば、「ジョーは勝ち負けに関係なく、まっ白に燃え尽きることができたのだ」ということが分かります。自分が負けて喜ぶ人はあまりいないでしょうから、「負けたが満足している」ということは「勝っても満足するはず」、だから「勝敗に関係なく満足している」ということになるからです。

これはこれで納得のできる解釈ですが、やはり釈然としない。もっとはっきりとした「ジョーが負けなくてはならなかった必然性」があるのではないかと私は考えました。

その結果、ジョーの負けは「ハングリーボクサーの精神」への殉死であり、「ハングリーボクサーの時代の終焉」を意味しているのではないかと私は考えました。以下、夏目漱石『こころ』を参考にしながら、それを説明します。

夏目漱石『こころ』の粗筋

初めに断っておくと、「あしたのジョー」と『こころ』を結びつけるというアイデアは、『あしたのジョー』と生き残りの罪障感―梶原一騎論のためのノオト(4)というブログ記事から頂いたものです。この記事も大変におもしろいのですが、私は少し違った結びつけ方で論じてみたい。

まず夏目漱石『こころ』について簡単に説明します。

『こころ』は上・中・下の三部に分かれていますが、よく議論されるのは「下 先生と遺書」です。この記事でもこれを取り上げます。

『こころ』では「先生」という人物が登場します。彼には「静」という妻がいるのですが、なぜかその妻を残して自殺してしまう。「下 先生と遺書」は、「先生」と仲の良かった「私」に向けて書かれた「先生」の「遺書」となっています。

「遺書」の内容も簡単に要約すると、若かりし「先生」の友人に「K」という男が、「先生」の知人に「御嬢さん」という女性(後の「先生」の妻となる「静」)がいました。『こころ』を読んだことのない「あしたのジョー」読者は、「先生」が矢吹丈、Kが力石徹、「御嬢さん」が白木葉子のような感じだと思ってください(細かいところはかなり違いますが)。

色々な経緯があって「K」は「御嬢さん」に恋をするのですが、彼は自分の生き方には恋など要らぬという姿勢を貫いてきた人なので、軽々に恋に踏み切ることができない。恋に踏み切ってしまうと、今までの自分の生き方を否定することになるからです(『こころ』の「四十三」参照)。

彼には投げ出す事の出来ない程尊とい過去があったからです。彼はそのために今日まで生きて来たと云っても可い位なのです。

ピンと来ない「あしたのジョー」読者は、ジョーがボクシングをやめてしまったら、今まで自分と戦ってきた力石やカーロスを否定することになるのでやめることはできないことと似たような話だと思ってください。

結局「先生」は隙をついて「御嬢さん」との婚約をとりつけ、「K」を出し抜いてしまいます。「K」は一時は「先生」と「御嬢さん」を祝福するのですが、彼は何と自殺してしまいます(なぜ「K」が自殺したのかについては今でも議論が分かれます)。

この後、「先生」は「K」を殺したという罪悪感を持って生きるようになります。ある日明治天皇の崩御を聞いた「先生」は、こんなことを思います。

最も強く明治の影響を受けた私どもが、その後に生き残っているのは畢竟時勢遅れだという感じが激しく私の胸を打ちました。

その頃「先生」は「御嬢さん」と結婚していたのですが、妻となった「御嬢さん」は先生の言葉を聞いて、では殉死でもしたらどうかといいます。これを聞いた「先生」は、「もし自分が殉死するならば、明治の精神に殉死する積りだ」と答えます。

明治天皇の崩御に伴って乃木稀典の殉死が起こるのですが、彼は自分を乃木になぞらえ、乃木のように自殺してしまいます。

「先生」の「明治の精神」とジョーの「ハングリーボクサーの精神」

長々と『こころ』の粗筋を説明してきましたが、このへんで「あしたのジョー」と関連づけた話にしましょう。

まず、以下の表をご覧ください。

人物/生き方 今までの生き方 新しい生き方
K 自分の理想通りに生きること 理想を捨てて恋に生きること
先生 「明治の精神」に従って生きること 「明治の精神」を捨てて生きること
乃木稀典 明治天皇への忠誠心を保って生きること 明治天皇への忠誠心を捨てて生きること
矢吹丈 「ハングリーボクサーの精神」を持つこと 「ハングリーボクサーの精神」を捨てること

『こころ』のポイントは、「明治の精神」とは、「最も強く明治の影響を受けた私どもが、その後に生き残っているのは畢竟時勢遅れ」とはどういう意味かを解釈することです。「明治の時代が終わった以上、明治という時代に殉死する」と解釈できますが、なぜ「殉死」する必要があるのかが分からない。

なぜ「殉死」する必要があるのか? それは「K」をヒントにすれば分かります。「K」は恋した後も、自分の今までの生き方を捨てることができず、「恋」二踏み出すことができなかったことを思い出してください。

「先生」が「明治の精神」に「殉死」する必要があるのは、「明治」という時代が終わり、「明治」的な生き方が「時勢遅れ」になったにも関わらずそれを捨てることができないからです。「先生」は「最も強く明治の影響を受けた」人ですから、「明治の精神」を捨てて「大正の精神」に生きるとなると、今までの自分の人生を全否定することになってしまうからです。

ここで、ようやく「あしたのジョー」の話に戻ります。

「先生」が「明治の精神」を持っていたのに対し、ジョーはいわば「ハングリーボクサーの精神」を持っています(第一回の図参照)。彼はずっと「ハングリーボクサー」として生きてきましたから、そのスタイルを捨てることは、ボクシングを捨てることに等しい。しかし、ボクシングだけに生きて来た彼がそれを捨ててしまったら、自分の生き方を否定することになってしまう。だから、ジョーは「ハングリーボクサーの精神」を捨てることができないのです。

付け加えておく必要がありますが、「あしたのジョー」の世界でさえ「ハングリーボクサー」は絶滅寸前にあります(だからこそジョーや力石徹は人気があったのです)。ジョーたちの生きた時代はボクシングは近代化が進み、「ボクシング」は「魂の語らい」ではなく「スポーツ」という扱いになり(「あしたのジョー」では元々ボクシングはスポーツではないことは第一回で述べました)、「サラリーマンボクサー」が台頭してきた時代だからです。「先生」と同様、ジョーもまた「時勢遅れ」なのです。

一方、ホセ・メンドーサは「ハングリー」の度合いが低く(第一回の図参照)、ジョーたち「ハングリーボクサー」とは違います。もちろん完全な「サラリーマンボクサー」でもありませんが、「ハングリー」さはほぼ皆無です。そんな彼がジョーと試合をし、判定勝ちをしたとはどういうことなのか。

ここで、ホセ戦でジョーがなぜ負けたのかという疑問に戻りましょう。ジョーが負けなくてはならなかったのは、ジョーの「ハングリーボクサー」的生き方が既に「時勢遅れ」だからであり、それを捨てることのできないジョーは、ホセ戦で「ハングリーボクサーの精神」に「殉死」するほかなかったからです。そして、ジョーが負けてホセが勝ったということは、「ハングリーボクサーの精神」の絶滅、新たな「サラリーマンボクサーの精神」の幕開けを意味していたのではないでしょうか。

高森朝雄の当初の原作案では、段平が「ジョーは試合に負けたがけんかに勝ったのだ」という予定であったそうです。確かにそうかもしれませんが、それ自体が非スポーツ的な考え方です。スポーツとは「けんか」とか「内容では勝っていた」とかいうものではなく、「最後に勝つか負けるか」というものだからです。スポーツとしてのボクシングにおいては判定勝ちしたホセこそが勝者であり、「けんかではジョーが勝者だ」などという理屈は通りません。

第一、以前のジョーは「試合に勝ってけんかにも勝った」のです。そのジョーが「試合に負けた」というのは、もはや「ハングリーボクサー」が衰退期にあったこと、「ハングリー」的ボクシングが「時勢遅れ」になったことの現れではないでしょうか。

今回は「あしたのジョー」の最後について説明しました。次回は、アニメ・劇場版「あしたのジョー」「あしたのジョー2」について説明します。

補足: 高森朝雄原案について

前に説明したように、原作者・高森朝雄が考案した「あしたのジョー」の最後は、段平が判定負けしたジョーに「お前は試合に負けたがけんかに勝ったんだ」というというものでした。作画担当のちばてつやがこれに反対し、「まっ白に燃え尽きる」という最後を考案しました。とても有名なエピソードです。

おもしろいのは、実は7ラウンド終了の時点で、「まっ白に燃え尽きる」という発言が出た紀子とのデート場面の回想が出てくるのです。ここでジョーが段平に「まっ白になるまでやらせてくれ」というのですが、ちばはこの場面を描いたことを忘れていたそうです。ちばてつや・豊福きこう『ちばてつやとジョーの闘いと青春の1954日』より、豊福きこうとちばてつやの対談の一部を引用します。

──その次の249回で、ジョーと紀子のデートの回想シーンを描かれています。最終回のあのラストシーンのアイデアがもう既にあって、それから逆算して、ここに伏線として入れたんだな、と思ったんですが。
ちば●そうじゃない。だけど本当に最終回に、何でここまで描いているのにあの場面が浮かばなかったのか、ちょっと私も……。

裏話はともかく、ちばがなぜ高森朝雄原案に反対したのか。『ちばてつやとジョーの闘いと青春の1954日』によれば、こういう理由です。

5年半も描き続けて、いろいろなライバルと熾烈な戦いを繰り返し、最後に完璧な王者と死闘を繰り広げた末に、試合には負けたがケンカには勝った、という一言では、どうにも僕は腑に落ちなかったんです。

ここまできて、それはないと。ケンカで片付けてほしくなかった。

私がここで論じたいのは、

  • 高森朝雄原案は正しかったのか
  • なぜちばてつやは高森朝雄原案に反対したのか

の二点です。

まず高森朝雄原案の是非ですが、この原案には問題があります。段平が「試合に負けたがけんかに勝った」というのは不自然だからです。

第一に、段平はジョーと違って「けんか」には一貫して反対していた人間です。少年院でジョーが松木に反則技を使ったとき、力石との野外試合でグローブの中に石を入れたとき、カーロスとの公式戦10回戦で「けんか」になったとき、ゴロマキ権藤との「けんか」スパーリングのとき、段平は常にそれに反対しています。段平は、「ボクシング」は「けんか」とは違うというタイプの人間なのですから(詳しくは第一回参照)、彼が「試合に負けたがけんかに勝った」というわけがないのです。

第二に、段平がジョーの勝ち負けにこだわっているのがおかしい。ホセ戦のときにあれだけジョーの安否を心配し、勝敗に構わず棄権まで促していた段平が、試合後に「お前は勝ったんだ」と口にするはずがありません。ちばの描いた最後のように、「ようやったぜ」と労うぐらいでしょう。

もし「けんかには勝った」発言をするとすれば、「けんか」に肯定的であるジョーかカーロスしかありません。しかし、それこそありえないでしょう。廃人となって試合を見ていただけのカーロスがしゃしゃり出て「ジョー・ヤブキはけんかには勝ったんだ」というのもおかしいですし、勝敗を気にせずに戦っていたジョーが「おれはけんかには勝った」というのもおかしいからです。

このような理由から、高森朝雄原案はどう考えても誤りです。丹下段平というキャラクターの性格を完全に捉え損なっているからです。

次に、ちばてつやが高森朝雄原案に反対した理由を考えます。ちばは「ケンカで片付けてほしくなかった」といっていますが、これはどういうことなのでしょうか。

私見では、ジョーの戦いは「ケンカ」ではないのだから、「ケンカに勝った」で締め括ってはならないということです。そして、このちばの意見は部分的には正しい。というのも、カーロス戦より前のジョーはほとんど「ケンカ」ですが、カーロス戦以降は「ケンカ」ではないからです。

第二回の説明を思い出していただきたいのですが、カーロス戦以降、ジョーは一度も反則をしたことがありません。カーロス戦では完全な「けんか」をしていたのと対照的ですが、彼はなぜ「けんか」をしなくなったのか。

それは、カーロス戦後のジョーが「けんか」ではなく「ボクシング」をしていたからです。ピナン戦もハリマオ戦もホセ戦も、あのゴロマキ権藤との「けんか」スパーリングですら「ボクシング」なのです(「けんか」スパーリングでもジョーは一度も反則をしていないことは、第二回で指摘しました)。

なぜカーロス戦以降は「ボクシング」をしているのか? 第二回第四回でも書きましたが、カーロス戦後のジョーはホセ・メンドーサを「第二の力石徹」とみなし、戦う目標としているからです。「第二の力石徹」と戦う以上、それは「けんか」でなく「ボクシング」でなければならないからです。

あと、カーロス戦の後、自分が「ボクシング」を愛していることにジョーが気がついたのも大きいと思います。

ジョーがボクシングが好きだという発言は、アニメ「あしたのジョー」「あしたのジョー2」では結構多いのですが、実は原作では二回しかありません。少年院での力石の試合の後、「おれは拳闘にほれちまった」という場面と、紀子とのデートで「拳闘が好きなんだ」という場面です。

第二回で書いたように、カーロス戦後のジョーにはボクシングをする理由がありませんでした。そのとき、彼は「自分はなぜボクシングをしているのか」「自分はボクシングが好きなのか」と考えたはずです。そして、「拳闘が好きなんだ」と紀子に告げたとき、彼の戦いは「けんか」ではなく「ボクシング」に変わりました。だから、ホセ戦も「けんか」ではなく「ボクシング」なのです。

ちなみに島本和彦とササキバラ・ゴウ『あしたのジョーの方程式』で、ササキバラ・ゴウはこんなことをいっています。

そういえば、梶原一騎の当初の原作では、最後に段平が「お前は試合には負けたけれども、ケンカには勝ったんだ」と言う内容だったそうだけど、こうして見ると、それはそれで梶原一騎の意図はわかるような気がしますね。さすがにそのセリフじゃどうかと思うけれども、ボクシングよりもケンカが正しいという考え方は、この作品全体を通じて一貫してますね。

『あしたのジョーの方程式』には納得できる意見が多いのですが、これはいただけない。「ボクシングよりもケンカが正しい」という発言が成立するのはせいぜいカーロス戦までで、なぜそれ以降のジョーは一切反則をしないのかが説明できないからです。

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「あしたのジョー」の最後について──「あしたのジョー」論その七」への5件のフィードバック

  1. 明快な議論で,しかも面白いです。通勤電車の中なので,この記事しか読めませんでしたが,あとで最初からじっくり読ませてもらいます。トラックバックありがとうございました。

    • > NJさん
      コメントありがとうございます。私の記事は分量が多いのが常ですが、お読みいただけますと幸いです。
      「あしたのジョー」論はもう少し続く予定です。

  2.  私もホセ・メンドーサとの試合ではムード的に最終回が近いとわかったから「ああ、これで勝ち、世界チャンピオンになって終わりか。世界チャンプか、最後にふさわしい相手だ…」と思っていました。実際には世界王者になっても防衛戦がありますが。
     まさか判定負けするまで負けるとはおもっていなかったです。
     いったいどうして負けたのか…?
     考えた結果、世界チャンピオンなんてそうそうなれるものじゃないよ、という作者からのメッセージだったのでは?とも思いました。
     謎の敗北だけに数多の憶測が飛びました。

  3. 矢吹丈は世界戦で死んだと思う。もし生きていても悲惨な最後を迎えたでしょう。ピストン堀口のように。梶原一騎はそういう残酷なラストを描こうとしたが、ちばてつやはそうなってほしくなかった。だから丈を死なせた。

  4. 矢吹丈は、死んだのだ なぜなら、彼は 我々に 滅びの美学を 見せてくれたのだ そのために この世に生まれたのだ あのまま廃人のように生きたら それはもう 矢吹丈ではないのだから

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