「あした」について──「あしたのジョー」論その六

「あしたのジョー」論第六回です。今回は、「あした」という概念について説明します。

※「あしたのジョー」論は全十三回です。全記事一覧をご覧になりたい方は、タグ「あしたのジョー」か、記事「『あしたのジョー』論」をご覧ください。

この記事の要旨

  • 「あした」という言葉は、「あしたのジョー」では「輝かしい素晴らしい未来」という意味で丹下段平が使い始めた。「泪橋を逆に渡る」も同様の意味である。
  • 段平にとっての「あした」とはジョーをプロボクサーとして成功させることであったが、ジョーにとってはそうではなかった。
  • ジョーにとっては「あした」などは存在しないが、「自分が普通の人並に幸せになれること」を夢見て「涙橋を逆に渡」ろうとしていた時期があった。

目次

「あした」という言葉について

「あしたのジョー」では、「あした」という言葉は以下の三つの用途で使われます。

  1. 一般名詞としての「あした」
  2. 特別な用語としての「あした」
  3. 「あしたのために」の「あした」

1番の一般名詞としての「あした」とは、「一日後」「翌日」という一般的な意味での「あした」です。

今頃もまじめ顔で
あしたのエキジビジョンに備えて
必死に練習していることだろうぜ

帰るよ……
あまり遅くなると
あしたのトレーニングに
響くからな

上の台詞はどちらもジョーが発した台詞です。一つ目はカーロスとのエキジビジョンマッチ四回戦前日、二つ目はカーロス戦後の祝賀パーティーを抜け出して葉子とデートしていたときの台詞です。この二つの「あした」は、特別な意味では使われていません。

2番の特別な用語としての「あした」は、1番の一般名詞とは異なります。作品名「あしたのジョー」にも使われる特別な用語で、作中では丹下段平が使い始めた言葉です。

この「あした」という言葉の定義は定かではありませんが、次の段平の少年院での台詞が分かりやすいでしょう。

少年院で矢吹丈にクロスカウンターを教え、ダウンさせた後の丹下段平

少年院で矢吹丈にクロスカウンターを教え、ダウンさせた後の丹下段平

ただ たんに次の日曜日の試合のため……
なんてケチなもんじゃねえ
あ……あしたのために……

段平がこの台詞をいったのは「次の日曜日」の一週間前ですから、「次の日曜日」は一週間後です。ここの「あした」を1番の意味で捉えると、一週間後「なんてケチなもん」ではなく「あした」(翌日)のために、というよく分からない意味になります。

2番の意味での「あした」とは翌日や一日後といった意味ではなく、「遠い未来」「将来」といった意味がこめられています。さらにいえば、「不幸な招来」「不安な未来」といったネガティブな意味ではなく、「輝かしい素晴らしい未来」といった意味です。

3番の「あしたのために」は、段平がジョーのために作ったボクシング教育プログラムの名前です。「あした」を掴むためのボクシング練習という意味ですから、この「あした」とは2番の「あした」と同じ意味です。

なお、作中のキャラクターの台詞ではありませんが、アニメ・劇場版のオープニングテーマ(以下「OP」)・エンディングテーマ(以下「ED」)にも「あした」という言葉が登場します(以下、歌詞の出典はあしたのジョーソングを歌おう!)。

アニメ「あしたのジョー」には一つのOPと二つのEDがありますが、そのすべてで「あした」という単語が登場します。劇場版「あしたのジョー」のOP・EDには登場しません。

OP「あしたのジョー」
「あしたはきっと なにかある」「あしたは どっちだ」
前期ED「ジョーの子守唄」
「あしたをめざして 立ちあがる」「あしたの誇りを とりもどす」
後期ED「力石徹のテーマ」
「泣け 明日は 今日は狼」

歌詞に加え、アニメ「あしたのジョー」は毎回の次回予告が「さあ、○○なジョーのあしたはどっちだ!」という段平の声で締め括られていたので、アニメを見た人は「あした」という言葉が強く印象に残っているでしょう(余談ですが、次回予告が「あしたはどっちだ!」で終わらないのは、全79話の中で第50話「闘いの終り」だけです)。

アニメ「あしたのジョー2」では、ED「果てしなき闇の彼方に」の後期版(おぼたけし版でなく荒木一郎版)に「明日は明日の陽が昇るだろう」という歌詞があります。劇場版「あしたのジョー2」は、OP「明日への叫び」で「この悲しみ賭けた明日を 俺は信じて」「明日に向かって立ち上がるだけ」で「あした」が出てきます。

「あしたのジョー」の歌には寺山修司が作詞した歌詞が多いのですが、寺山にも「あした」という言葉を使った詩があります。『ぼくは話しかける』より引用します。

「明日になれば、思いがけないことが起こるかも知れない」 だから「明日何が起こるかわかってしまったら、明日まで生きる愉しみがなくなってしまう」のである。

「泪橋を逆に渡る」

ジョーが少年院を退院した後になると、「あした」以外に「泪橋を逆に渡る」という言葉が出てきます。これも段平が使い始めました。

矢吹丈の少年院退院後、泪橋について説明する丹下段平

矢吹丈の少年院退院後、泪橋について説明する丹下段平

今度は
わしとおまえとで
この泪橋を逆に渡り
あしたの栄光を目指して
第一歩を踏み出したいと思う

「あした」との違いは不明ですが、意味はほぼ同じだと思われます。ただ、「あした」という一般的な名詞から「泪橋」という(ジョーや段平らドヤ街住人にとって)身近なものに変えていることから、自分たちのいるこのドヤ街から「あした」に向かって旅立つのだという意識が読み取れます。

丹下段平にとっての「あした」

「あした」「泪橋を逆に渡る」という言葉は、どちらも段平が使い始めた言葉です。

原作で「あした」という言葉が初めて登場するのは、鑑別所にいるジョーに段平が「あしたのために」という葉書を出したときです(アニメ「あしたのジョー」だと、第1話「あれが野獣の眼だ!」で段平が「あしたを見つめる野獣の目」「あしたのジョーだ」というのが最初)。

後にジョーが少年院行きの護送車に入れられるとき、段平が以下の台詞をいいます。

たとえきょうの日はどんなにみじめでも
拳闘を忘れねえかぎり
あしたって日が開けるんだ
いいな ジョー
あ……あしたのために……

その後、ジョーに会いに少年院に行った段平は、たびたび「あした」という言葉を使います。

ただ たんに次の日曜日の試合のため……
なんてケチなもんじゃねえ
あ……あしたのために……
(中略)
こ…このぶんだと……
このぶんだと
あ…あしたは……
そう遠く……
な…なさそうだぜ……

血へどを吐いて
動けなくなるまで戦うんだっ……
おめえの
あしたへの運命の別れ道になる
この初試合を──

前述の通り、少年院を出た後からは「泪橋を逆に渡る」という言葉も登場します。

きびしい精進の果てに流す
汗と涙で
橋を逆に渡るという
誓いをもう忘れちまったのかい
きさまってやつは……
まだ楽をして生きようという
腐った根性が
直り切っておらんらしいな……!

この後、段平が日本ボクシングコミッショナーで乱闘騒ぎを起こしたり、ジョーが丹下拳闘クラブをコミッショナーに認めさせたりしますが、その後で段平が以下の台詞をいいます。この台詞のあと、暫くは「あした」も「泪橋を逆に渡る」も全く登場しません。

あしたへの橋が架かったって訳かーっ

上の台詞の後、段平が「あした」という台詞をいうのは、力石の死後にジョーが戻ってきたときだけです。

世間じゃクズといわれた人間が二人……
ひたすら拳闘だけにしがみついて
あしたを目指して泥沼から這い上がろうと努力してきたのに……
あ……あしたって日は もうねえのか……
きのうに逆戻りするしか道はねえのか……

こうした台詞から、段平にとっての「あした」とは何かを考えてみましょう。

元々段平がジョーをボクシングに誘ったのは、ジョーをプロボクサーに育て上げ、自分はボクシングジムの会長として成功しようという意図でした。段平がどこまでの目標を立てていたのかは分かりませんが、とにかくプロボクサーを育てて活躍させることが目標でした(アニメ「あしたのジョー2」の第3話「地獄からの使者…矢吹丈」では、段平の目標が「泪橋からチャンピオンを出」すことになっていました)。

上で述べたように、力石の死後は「あした」「泪橋を逆に渡る」という言葉をほとんどいわなくなりますが、その理由は二つあると思われます。

第一に、それをいうタイミングがなかったこと。力石の死後はジョーはテンプルを打てずに絶不調の時期でしたから、「あした」とかポジティブな言葉をいう雰囲気ではありませんでした。それどころか、丹下拳闘クラブを辞めることまで考えていたほどです。

カーロス戦後はジョーがスランプを脱却しますが、今度は連戦連勝に祝賀パーティーとジョーが大活躍しますから、「あした」という言葉を使う意味がなくなってきます。段平にとっては十分「あした」を掴んでいるのですから、わざわざ「あしたのために」と自分を鼓舞しなくても構わない。

第二に、段平が「親心」を持ち始めたこと。カーロスとのスパーリングあたりから、段平はジョーを活躍させるよりも、ジョーの身の安全を気にするようになってきます。それが露わになってくるのが金竜飛戦の前後で、減量ではジョーの命のために体重計に細工したり、途中でタオルを投げようとします。ホセ戦では何度も試合を止めるようにジョーに勧めてています。

段平の「あした」が実現したといえるのは、ジョーの健康状態が良好で連勝していたカーロス戦後、金竜飛戦前の時期でしょう。既に「あした」を実現した段平は、その「あした」を逃すまいとジョーのむちゃな減量や試合を止めさせたがるのですが、残念ながらそれは叶いませんでした。最終的にジョーはパンチドランカーになり右目の視力も失い、ボクサー生命をほぼ絶たれてしまいますから、段平の「あした」は短い期間で終わったといえるでしょう。

白木葉子にとっての「あした」

一度だけですが、葉子も「あした」という言葉を使ったことがあります。少年院での場面です。

少年院で矢吹丈にクロスカウンターを教えた丹下段平がダウンした後の白木葉子

少年院で矢吹丈にクロスカウンターを教えた丹下段平がダウンした後の白木葉子

「あした」……といっているわね しきりに……
「すばらしいあした」は
きょうという日を
きれいごとだけ……お体裁だけととのえて過ごしていては
永久に やってこないわ
血にまみれ汗や泥にまみれ
キズだらけになって……
しかも他人には気ちがい扱いをされる
きょうという日があってこそ……
あしたは……
ほ…ほんとうのあしたは……!

福本伸行『賭博破戒録カイジ』の大槻班長も、「今日をがんばり始めた者にのみ…明日が来るんだよ…!」といっていました。それと同じ台詞ですね。

葉子の「あした」はこれ以外では出てこないので、葉子の「あした」とは何なのかはよく分かりません。アニメ「あしたのジョー」の第15話「白いマットの子守唄」では、慰問劇で少年院収容生たちに喜びを与えることだという説明がありました。恐らくこれが正解でしょう。

「あしたのジョー」を知っている方は、ジョーや力石たち「野獣」の試合を見ることが葉子の「あした」ではないかと思われるかもしれませんが、この台詞は恐らくそういう意味ではないと思います。葉子と力石に家族ぐるみのつきあいがあるという設定は、かなり後になって出てくるだからです。

「あした」の意味は分かったとして、一つ疑問が浮かびます。なぜ葉子がこんなことをいうのでしょうか?

この葉子の台詞は段平の「あした」を受けてのものですが、段平は別に葉子を非難していたわけではない。段平は「きれいごとだけ」いっていたわけでもない。なぜこのタイミングで葉子が突拍子もなくいうのかがよく分からないのです。

アニメ「あしたのジョー」の第12話 「燃える太陽に叫べ!」では、「すばらしいあした」の前に「そうだわ」という台詞が挿入され、段平に同意していました。これは恐らく、他の劇団員たちが血塗れの段平を「気ちがい」扱いして恐れていたのを見て、「皆は段平を気ちがいだというが、気ちがいされる今日がなくてはあしたはやってこない」と、葉子がジョーや段平側の人間であることを強調していたのでしょう。

アニメ版の解釈も正しいと思いますが、私は、この台詞は段平への同意というよりはジョーへの反論だと思います。

少し前の話ですが、ジョーが少年院で葉子のことを「偽善者」「うわべだけの愛」と貶していました。そのとき、葉子は「自分のため」に慈善事業をやっていることをジョーに見抜かれていました。さらに、葉子がジョーと力石の試合を組んだことについて、ジョーに「どこまでも自分はいい子ちゃんだ」といわれています。

葉子が上の台詞をいったのは、このジョーの台詞に対する反論ではないでしょうか。「いい子ちゃん」というのは「きれいごとだけ」「お体裁だけ」ということです。自分は「いい子ちゃん」ではなく、「他人には気ちがい扱いをされるきょうという日」を生きているのだという意識から、上の台詞が出てきたのではないか。具体的にいえば、白木財閥令嬢という高貴な立場でありながら、少年院の慰問劇をしているということです。

ただ、第五回で説明したように、葉子は「他人には気ちがい扱いをされるきょうという日」を生きているように見えて、醜いものがあると目を背けてしまう傾向があります。ジョーとのやりとりを通じて、彼女は自分の中にある矛盾を自覚することになります。

矢吹丈にとっての「あした」

非常に難しいのが、ジョーにとっての「あした」です。「あしたのジョー」という作品名でありながら、ジョーにとっての「あした」とは何なのかがよく分からないのです。

作中でジョーが(2番の意味での)「あした」という言葉をいった台詞は、以下の三つだけです。「あしたのために」という葉書を指す言葉は何度か使っていますが、「あした」は三回しかありません。

一年以上もつながれるおれに…
なにがあしただ!
なにが洗い清めるだ!

日本ボクシング・コミッショナーで乱闘を起こした丹下段平を引き取りに警察署に行った矢吹丈と西寛一

日本ボクシング・コミッショナーで乱闘を起こした丹下段平を引き取りに警察署に行った矢吹丈と西寛一

つまりおれたちにはあしたってやつが──永遠にこねえってことなんだ

日本ボクシング・コミッショナーで乱闘を起こした丹下段平を引き取りに警察署に行った矢吹丈

日本ボクシング・コミッショナーで乱闘を起こした丹下段平を引き取りに警察署に行った矢吹丈

なにも拳闘だけが
人生のすべてじゃあるまいし……
考えてみりゃ
おっちゃんとも長い付き合いだ
拳闘がダメになったからといって
はい さようならって訳にもいくまいぜ
“あした”なんてかっこいいこといわずによ……
その日 その日をのんびりと
ボーフラみてえに暮らす人生もあるじゃねえか
飲んで踊って笑って泣いて
気楽におもしろおかしくよ

「なにがあしただ」「あしたってやつが」「”あした”なんてかっこいいこといわずによ」。こうした台詞から分かるように、段平のいった「あした」に対するレスポンスで「あした」という言葉を使っています。ジョー自身が「あれがおれのあしただ」とか「あしたに向かって練習」とかいったことは一度もありません。

すると、ジョーの「あした」とは何なのかを考えるのは無意味にも思えます。ジョー自身が「あした」という言葉をほとんど使っていない以上、彼に「あした」なるものが存在したのかどうか定かでないからです。

島本和彦『あしたのジョーの方程式』では、力石やカーロスこそがジョーにとっての「あした」なのだと説明しています。しかし、私はこの説に疑問を抱きます。ジョーは力石やホセを「生き甲斐」といったことはありますが、「あした」といったことは一度もないからです。

そもそも、ジョーは「あした」とか「未来」「将来」についてほとんど考えない人です。時や場所も弁えずに殴りたくなったら殴りかかりますし、ホセと殴りあいたいから単身メキシコに行こうとしたりします。力石やホセと戦うことを「生き甲斐」といいつつ、戦った後はどうするのかは全く考えていません。常に現在どうしたいかだけで生きている人です。

ですから、基本的にジョーにとっての「あした」は存在しないと私は考えます。「基本的」といったのは、一時だけジョーにも「あした」らしきものがあったと思うからです。

ジョーが少年院を退院した後、乾物屋の林屋で働き始めます。この帰り道、ジョーが西に対してこんなことをいいます。

少年院退院後、林屋で働いた後の矢吹丈

少年院退院後、林屋で働いた後の矢吹丈

今日生まれて初めてまじめに働いて……
なんかこう よかったよ……
拳キチのいった
汗と涙で橋を逆に渡るってやつ……
なんか実感としてやっていけそうな気がしてきたよ

段平にいわれた「泪橋を逆に渡る」という言葉がここで出てきます(アニメ「あしたのジョー」の第26話「絶望のライセンス」ではこの部分だけ省略されています)。重要なのは、ボクシングの練習中ではなく、力石と戦っている最中でもなく、林屋で働いた後にこの言葉が出てくるということです。

この台詞を、以下の二つのコマとあわせて考えてみてください。

退院祝いと丹下拳闘クラブ発会式に参加する矢吹丈

退院祝いと丹下拳闘クラブ発会式に参加する矢吹丈

ジョーは生まれてこのかた
こんなに人から
したわれたことはなかった
こんなに愛されたことはなかった
こんなにまぶしいほどの喜びを感じたことは
かつて一度もなかった

プロ・テストの合格後、ドヤ街で林紀子からトランクスを貰った後の矢吹丈

プロ・テストの合格後、ドヤ街で林紀子からトランクスを貰った後の矢吹丈

いままで世の中を渡ってきて……
な なにをやっても不合格の烙印を押され続けてきた
それが……
け 拳闘だけがおれを合格させてくれたんだ
そ……そいつがうれしかったんだ

結局「あした」は何なのかというブログ記事では、こうしたドヤ街の場面を集めて、「身近な人の幸せ」がジョーの「あした」だと結論づけていますが、私の意見は少し違う。「身近な人の幸せ」というよりは、「自分が普通の人並に幸せになれること」ではないでしょうか。

ジョーは親の愛も友情も知らず、社会から爪弾きにされてきた少年です。そんな彼のこと、普通に愛されること、働くこと、社会から認められることに憧れを持っていたに違いない。ですから、林屋で生まれて初めて働いたとき、自分が人並に生きてゆけるという「あした」を抱けたのではないでしょうか。

ところが皮肉にも、この後のジョーはボクシングという「きちがい」「狂人」扱いされる世界にのめりこみ、人並とは程遠い世界を歩むことになります。もし力石や葉子に出会っていなければ、彼は林屋で働いて「あした」を実現するために生きていたかもしれません。

「あしたのジョー」とは何か

作品名にもなっている「あしたのジョー」ですが、これは結局何を意味しているのでしょうか。

私見では、これは段平から見たジョーを表した作品名です。ジョー自身の「あした」を表したものではありません。天涯孤独の少年が宿命のライバルに出会い、ボクシングを通じて友情を深め、ボクサーとして成長してゆく……というサクセスストーリーを(段平的な意味での)「あした」と呼んでいるのです。

しかし、ジョーの立場から見ると、「あしたのジョー」はサクセスストーリーではありません。「生き甲斐」とまで思えた力石を自分の手で殺してしまった後、スランプにドサ周りを経て立ち直り、友と思えたカーロスも廃人になり、最後には自身もパンチドランカーとなり、廃人寸前の身体でホセ・メンドーサと戦うのですから。

「あしたのジョー」という希望のある作品名なのに、なぜ途中からジョーの「あした」がない暗い物語になってゆくのかという意見を見たことがあります。理由は簡単で、そもそも「あしたのジョー」とはジョーの「あした」を表した題名ではないからです。

今回は「あした」について説明しました。次回は、「あしたのジョー」のラストシーンについて説明します。

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