力石徹、カーロス・リベラ、金竜飛、ホセ・メンドーサについて──「あしたのジョー」論その四

「あしたのジョー」論第四回です。今回は、矢吹丈(ジョー)が戦った力石徹、カーロス・リベラ、金竜飛、ホセ・メンドーサについて説明します。

※「あしたのジョー」論は全十三回です。全記事一覧をご覧になりたい方は、タグ「あしたのジョー」か、記事「『あしたのジョー』論」をご覧ください。

この記事の要旨

  • 力石は、自分が唯一勝てなかった「宿敵」ジョーを倒すため、ジョーとの試合にこだわっていた
  • 力石がジョーに勝利したのは、ジョーが敗北を受け入れ、戦うこと自体に「幸せ」を見出すようになる後の伏線であった
  • カーロスは、ボクシングではなく「けんか」ができる相手としてジョーにこだわっていた
  • カーロスがホセに1ラウンドでKO負けしたのは、力石の再来を意味していた
  • ジョーと金竜飛の試合は、「あしたのジョー」における人間的本能の戦いであった
  • ジョーとホセの関係は、ジョーと力石の関係と同じ構造をしている

目次

力石徹について

力石徹にとっての「矢吹丈」

第二回で説明したように、初期のジョーにとって、力石徹と戦うことが「生き甲斐」でした。

しかし、力石にとっては、ジョーと戦うことは「生き甲斐」ではありません。それは、力石の台詞を読めば一目瞭然です。

公式戦8回戦前に白木邸で葉子と話す力石徹

公式戦8回戦前に白木邸で葉子と話す力石徹

本心をいやあ
おれは一日も早くチャンピオンになって
金を稼ぎたい
(中略)
ただ……思うに
あの小粒だがものすごいやつを──
矢吹って男を
それ以前に
この腕でたおしておかんことには……
胸を張り自信を持って
ボクシング界に君臨することができないような気がするんです……

少年院の草拳闘とはいえ、自分と引き分けた男がいるということが許せない。力石にとってジョーとは、自分がボクサーとして活躍する前に倒しておかなくてはならない「通過点」なのです。

では、なぜそこまで力石はジョーとの勝敗にこだわっていたのか。それは、力石のボクシング戦績を見れば分かります。豊福きこう『矢吹 丈25戦19勝(19KO)5敗1分』のp.33の表を引用します。

豊福きこう『矢吹丈 25戦19勝(19KO)5敗1分』p.33にある力石徹の戦績

豊福きこう『矢吹丈 25戦19勝(19KO)5敗1分』p.33にある力石徹の戦績

これを見ると分かりますが、力石はプロデビュー以来、ほぼすべての試合で勝利しています。唯一の例外は、引き分けに終わった少年院でのジョーとの試合だけです。

引き分けなのだからネガティブに捉える必要はない、と考えることもできます。それがプロのボクサー相手ならそうかもしれません。しかし、ジョーはプロどころかアマチュアボクサーですらない、ジャブがプロ並なだけの素人です。そんな相手に途中まで有利な試合運びをしておきながら、クロスカウンターの一撃でダウンさせられたということは、力石にとっては「敗北」に等しい屈辱でしょう(アニメ「あしたのジョー」の第15話 「白いマットの子守唄」では、試合後に力石が「ジョー よくやったな 負けたぜ」といいます)。

ジョーにとって、力石とは初めて自分を完敗させた宿敵でした。そして、力石にとっても、ジョーとは初めて自分が勝利できなかった宿敵なのです。

なぜ力石はジョーに勝てたのか

そんなジョーと力石ですが、二人のプロリングでの再戦は力石の勝利に終わり、その直後に力石は死んでしまいます。

少年漫画の常識からすると、主人公がライバルに負けたまま終わるというのは奇異に思えます。普通、主人公はライバルに一度負けることがあっても、最終的には勝利することが多いからです。

なぜ力石がジョーに勝利したのか? 現実的に考えれば、力石が勝つのが当然でしょう。いくら減量苦があるとはいえ、ボクシングの技術でも経験でも、試合運びからいっても、力石のほうが圧倒的に上だからです。そういう意味では、ジョーは再び完敗を喫したといえるでしょう。

しかし、そういった現実的・技術的な話以外に、力石が勝利した理由があるのではないかと私は思います。ここでジョーが力石に負けるということが、物語の必然性から起きたことではないかと。

ここでジョーが力石に負けたことの意味は、ジョーが敗北を受け入れ、戦うこと自体に意味を見出すようになるということです。ここで負けを経験することが、後の「真っ白に燃え尽きる」発言に繋がるのです。

この試合の時点では、ジョーも力石も勝つことを目的に戦っています。力石はジョーに勝たないと「胸を張り自信を持ってボクシング界に君臨」できないのですから当然です。そしてジョーも、少年院での雪辱のために戦っているのですから当然です。それは、以下の試合中の台詞からも分かります。

力石徹との公式戦8回戦中の矢吹丈

力石徹との公式戦8回戦中の矢吹丈

ああこんな……
こんなイヤな気持ちでゴングを聞くのは……
生まれて初めてだ……!!

ジョーが「イヤな気持ち」になっているのは、得意の「両手ぶらり」とクロスカウンターを封じられ、接近戦も封じられ、勝ち目が残っていないからです。勝ち目がないのに戦わなくてはならないから「イヤな気持ち」なのです。

しかし、結局完敗を喫したジョーは、試合後には「幸せ」な気分になっています。あれほど「イヤな気持ち」になっていたのに、試合後には敗北をすんなり受け入れているのです。これはどういうことか?

力石徹との公式戦8回戦後に控室で丹下段平と話す矢吹丈

力石徹との公式戦8回戦後に控室で丹下段平と話す矢吹丈

繰り返しますが、試合中はジョーも勝つことを目指し、負けることを恐れていました。しかし、力石に負けたとき、「負けてしまったのに幸せな気分になっている自分」に気がつきます。ここでジョーは、少年院以来こだわっていた勝ち負けを捨て、戦うこと自体に「幸せ」を見出すのです。

この経験がなければ、ジョーがホセ戦の最後で「真っ白に燃え尽きる」ことはできなかったでしょう。あくまで勝敗にこだわっていた場合、ジョーには勝利する以外に「燃え尽きる」方法がなく、ホセ戦で敗北して「燃え尽きる」ことはありえないからです。

ジョーは力石を超えられたのか

ジョーは力石に勝てないまま終わったわけですが、ジョーは最終的には力石を超えることかできたのか? という疑問があります。

例えば漫画家の島本和彦は、「力石は乗り越えていない」といっています(島本和彦のマンガチックにいこう! 061125 第268回 あしたのジョーの12:18以降)。なぜなら、力石が勝利して死んでしまったため、力石はジョーにとって「永遠に勝てない相手」となったからだと。

私も最初は同意見でしたが、最近になって、そうではないと思うようになりました。確かに、ジョーは直接力石を乗り越えてはいませんが、最後のホセ戦にて、ジョーは力石を超えることができたのではないか。

そう思う根拠は、ジョーv.s.力石戦での二人の戦う目的と、ジョーv.s.ホセ戦でのジョーの戦う目的です。

前述のように、ジョーv.s.力石戦では、ジョーも力石も勝つことを目的に戦っていました。戦うこと自体に意味を見出さないわけではないが、やはり勝敗にこだわっていたのです。

一方、ジョーv.s.ホセ戦でのジョーは、完全に勝敗へのこだわりを捨てています。試合前、「すでに半分ポンコツで勝ち目がないとしたって」と自分の負けを半ば分かっていながら、それを恐れるでもなく、淡々と試合に臨みます。試合中も、「まともにぶつかったんじゃ…………とてもかなわねえ」といいながら、力石戦のように「イヤな気持ち」にはなりません。

ホセ・メンドーサとの試合前に控室で葉子と話す矢吹丈

ホセ・メンドーサとの試合前に控室で葉子と話す矢吹丈

力石はジョーとの試合に勝ちましたが、その直後に死んでしまったため、最後まで勝利へのこだわりを捨てられませんでした。試合後に白木幹之介がいっていたように、力石は「宿敵 矢吹くんに勝って満足しきって死んだ」からです。前に述べた力石の戦績を見ても、力石があくまで勝利にこだわっていたことは間違いない。

一方、ジョーは力石との試合に負けましたが、その敗北を受け入れ、勝敗にこだわることを捨て、最後には「真っ白に燃え尽きる」ことができました。

力石が到達できなかった「勝敗でなく戦うことにこだわる」という境地に到達したとき、ジョーは力石を超えることができたのではないでしょうか。

カーロス・リベラについて

カーロスにとっての「矢吹丈」

カーロス・リベラについては第二回で大方説明しましたが、もう一度振り返っておきます。

ジョーにとって、カーロスとは力石の「亡霊」を振り払うための新たなボクサーでした。ですから、力石の「亡霊」を倒すことのできたジョーは、エキジビジョンマッチ4回戦の途中で失格になってカーロスとの決着がつけられなくなっても、満足げな顔をしています。

一方、カーロスはそうではありません。「失格シタジョーデモカマワナイ 試合続行シマース!」というように、彼はルールなど無視して勝負を続けようとします。後の公式戦10回戦でのルール無視の「けんか」の片鱗が、この時点で見えていますね。

力石とカーロスの違いは、「精密機械」と「野獣」の違いです(第一回の図参照)。「精密機械」寄りの力石はあくまで勝敗にこだわりますが、「野獣」寄りのカーロスは勝敗やルールにこだわりがありません。ですから、スパーリングなどの非公式試合でも本気で戦おうとします。

そして、ジョーも力石の「亡霊」を倒し、ボクシングをする動機がなくなっていますから、カーロスの「けんか」を買う。この結果、公式戦10回戦が5ラウンドから「けんか」試合になったことは第二回で述べました。

カーロスにとって、ジョーとは「ボクシング」という枠組みを超えて、本気で「けんか」ができる相手でした(逆も然りです)。そういう意味では、ジョーと力石よりも、ジョーとカーロスのほうがより距離が近いといえるでしょう。

なぜカーロスはホセに負けたのか

カーロスはジョーとの試合の後、ホセとの世界タイトルマッチに臨みますが、1ラウンドでKO負けします。

この時点では、カーロスがジョーとの試合によってパンチドランカーになっていたからだという設定でしたが、ホセ戦の直前で、実はホセのコークスクリューによって壊されたのだと設定変更されました。しかし、それならなぜカーロスはホセにあっさり負けたのかという疑問が出てきます。

私の考えでは、これは後のジョーとホセの試合の伏線と、力石徹の再来という二つの意味を持っています。

「伏線」というのは、ジョーがパンチドランカーになり、ホセに世界タイトルマッチを挑むということです。カーロスと違ってジョーは試合前から重度のパンチドランカーであったという違いはありますが、カーロスの辿った運命は、後のジョーの運命と重なります。

「力石徹の再来」とは、ホセがジョーにとっての力石だということです。これはホセの項で詳述しましょう。

金竜飛について

ジョーにとっての「金竜飛」

勝敗にこだわらなくなったカーロス戦後にジョーですが、金竜飛だけは勝つべき敵として存在します。金竜飛の朝鮮戦争の体験をレストランで聞いた以来、勝ち目がないと思うのですが、「死んでもこいつには負けちゃならねえ」と思い続ける敵です。

ジョーが金竜飛を戦う仲間ではなく倒すべき敵として見ている理由は、第一には、ホセ・メンドーサが存在するからです。ジョーはすぐにでもホセと戦いたいのですが、いきなり世界チャンピオンに挑戦はできないので、まずは東洋チャンピオンにすることになりました。力石にとってジョーが「通過点」であったように、ジョーにとって金竜飛は「通過点」なのです。

第二の理由は、金竜飛戦はジョーと金竜飛の二人だけの勝負ではなく、力石徹と金竜飛という二人の勝負でもあるからです。それをこれから説明してゆきます。

金竜飛v.s.力石徹

金竜飛戦は最後にジョーが逆転勝ちするのですが、その理屈に納得できないという方も多いのではないでしょうか。

東洋タイトルマッチ12回戦の6ラウンド、力石徹を思い出して戦う矢吹丈

東洋タイトルマッチ12回戦の6ラウンド、力石徹を思い出して戦う矢吹丈

しかも金は「食えなかった」んだが
力石の場合は自分の意思で
「飲まなかった」「食わなかった」……!

金竜飛の朝鮮戦争体験も充分凄まじいものであって、それを「力石に劣る」と断言するのもおかしいように思われる。ですから、この台詞は、「客観的に見て、力石の減量が金竜飛の戦争体験よりも凄まじかった」ということではありません。

この台詞は、第一回で説明した「人間としての本能に打ち勝つ」という考え方を踏まえると理解できます。

「あしたのジョー」には、人間としての本能を克服することがボクシングだという考えがあります。減量苦などはその典型ですね。人間生きていれば飲食をしたくなるのが「本能」であり、減量で苦しむのも「本能」ですが、それを意思によって克服することがボクシングなのです。

この考えから、力石と金竜飛を見てみましょう。

いうまでもなく、力石徹は減量苦で苦しんでいました。それが人間の「本能」だからです。しかし、彼はそれを強靭な意思によって克服しました。

一方、金竜飛には減量苦自体が存在しません。彼はこういっています。

許容量が決まってしまい
なにを食ってもすぐに満腹してしまう
したがって
血となり肉となる消化量も決まり
体重増加の心配など
したくてもしようがない……

金竜飛に減量苦が存在しないのは、彼が強靭な意思を持っているからではありません。彼の体の「許容量」が極めて小さいからであり、いいかえれば、ほとんど食べなくてもよいのが金竜飛の「本能」だからです。

意思によって「本能」を否定した力石と、小食という「本能」に甘んずる金竜飛。「あしたのジョー」的価値観では、力石のほうに軍配が上がるのは当然なのです。

ここでジョーに話を戻しましょう。ジョーも力石と同様、減量苦という「本能」を意思によって克服したボクサーです。そのジョーが、「本能」を克服しない金竜飛に負けるはずがない。だからジョーは最後に逆転勝利を収めるのです。

ジョーの「力石」v.s.金竜飛の「血」

金竜飛は最後にジョーが顔面から血を流し、それに恐れをなした金竜飛がKO負けします。ご都合主義にも見える流血ですが、実はこの流血にも必然性があります。

島本和彦『あしたのジョーの方程式』では、「血」とは「きのう」(過去)の象徴だから、「きのう」を見て怯える金竜飛に「あした」を見続けるジョーは勝利するのだとありますが、これは誤りです。というのも、力石やカーロスという「きのう」(過去)に縛られている点では、ジョーも金竜飛も変わりはないからです。そこで優劣がつくわけではありません。

この「血」の意味するところは、「自分の過去をどう受け入れるか」ということです。

「血」というのは金竜飛にとっては過去の象徴なわけですが、彼はそれを見て怯えます。金竜飛は試合前、レストランで自分の過去を得意げに話していましたが、実は自分の過去に怯えているのであり、自分の過去を受け入れることができていないのです。

一方、ジョーにとっては力石が過去の象徴です。かつては力石を殺した罪悪感に悩まされ、リングを捨てることも考えましたが、やがてジョーは力石を殺したという過去を受け入れ、それをボクシングをするための糧にすることができました。カーロス戦後、紀子とのデート中に「負い目」の話が出てきますが、あれは彼が自分の過去を受け入れたことの証なわけです。

こう考えると、なぜジョーが最後に血を流したのかが分かると思います。ジョーは金竜飛に「お前は力石に劣るんだ」といい、自分の過去を提示してみせた。これに対し、金竜飛の過去がジョーの流血という形で現れます。金竜飛はそれに恐怖し、「お前は私の戦争体験に劣るんだ」ということができなかった。だから彼は敗北したのです。

ホセ・メンドーサについて

ジョーにとっての「ホセ・メンドーサ」

ジョーがホセ・メンドーサを意識するようになるのは、カーロス戦後、特に紀子とのデート直後です。彼がなぜホセにこだわるのか、原作では明確な描写がありません。

アニメ「あしたのジョー2」の第16話「遠い照準か…世界への道」では、ジョーは最初「カーロスの仇をとろうぐらいにしか思っていなかった」が、ビデオでホセの強さを見て、そんな思いが吹き飛んだといっています。第35話「チャンピオンは…ひとり」ではカロルド・ゴメスと戦うホセを応援したりと、純粋にホセと戦いたいという思いが強調されています。

ジョーがホセにこだわるのはなぜか? カーロスの敵討ちかもしれませんし、ホセが「世界一の男」だからかもしれません。金竜飛戦後に「ぬるま湯につかっているなんざガマンができねえ」といっているように、強い敵と戦いたい欲求があることは確かでしょう。

私の考えでは、ホセ・メンドーサとは、ジョーにとっての第二の力石徹です。ジョーが頑なにホセにこだわるのは、ホセが力石と重なるからです。

力石は少年院でジョー自身を完敗させました。一方、ホセは世界タイトルマッチでカーロスを完敗させました。ジョーが直接負けたわけではありませんが、かつて「野獣」となって殴りあった親友のカーロスを完敗せしめたホセは、ジョーにとってはかつての力石と同じように見えたはずです。

事実、力石戦とホセ戦には重なる部分が多々あります。

  • ジョーは「野獣」型ボクサーでありながら、二人の試合では一切反則をしていないこと
  • ジョーにとって力石とホセは「生き甲斐」だが、力石とホセにとってはそうではなかったこと
  • ジョーは途中から勝ち目がないことを分かっているのに試合を続けること
  • 最終ラウンドまで試合が続いたこと(ジョーの試合の中で、最終ラウンドまで続いたのは力石戦とホセ戦だけ)

などです。

しかし、力石戦と違う点もあります。第一に、ジョーはホセにKO負けしなかったこと。結果的には判定負けでしたが、あの完璧なボクサー・ホセを白髪になるまで追い詰め、反則までせしめたという意味で、かつての力石戦よりも善戦したといえるでしょう。

第二に、勝ち目がないからといってジョーは勝負が嫌になりはしませんでした。勝つか負けるかは問題ではなく、戦うこと自体に意味があるからです。力石戦ではそのことに気がつかず、試合後に初めて気がついたのですが、ホセ戦では最初からそれに気づいて臨みました。

ジョーにとってのホセ戦とは、力石戦のリベンジなのです。

ホセにとっての「矢吹丈」

ジョーにとってホセとは「生き甲斐」でしたが、ホセにとってはそうではなかったでしょう。あくまで、世界チャンピオンとして迎え撃つ挑戦者のうちの一人、という位置づけであったはずです。つまり、倒すべき「通過点」です。

ところがジョーとの試合を続けるうちに、ジョーがホセにとって理解できない人間となってゆきます。

世界タイトルマッチ中に矢吹丈に恐れを抱くホセ・メンドーサ

世界タイトルマッチ中に矢吹丈に恐れを抱くホセ・メンドーサ

体ヲコワシタリ……死ンダリスルコトガ
恐ロシクナイノカ……?
彼ニハ悲シム人間ガ
一人モイナイノカ……?
(中略)
ワタシハ恐ロシイ
故国ニハ愛スル家族ガ
ワタシノ帰リヲ待ッテイルノダ

確かに、ジョーには「家族」はいません。しかし、家族に等しいつきあいを持っている段平や西、ドヤ街の住人たちがいました(第三回参照)。もしジョーが死んだら、彼らも悲しむことでしょう。それはホセの家族と変わりません。

しかし、ジョーとホセには大きな違いがあります。ジョーは、「悲シム人間」がいるからといって、ボクシングをやめようとはしないのです。力石も、葉子が減量に涙したからといって、ボクシングをやめはしませんでした。

第一回の図を思い出していただきたいのですが、ジョー・力石とホセの違いは、ボクサーとしての「ハングリー」さの違いです(というか、それぐらいしか違いがありません)。互いに「ハングリー」なジョーと力石は理解しあうことができましたが、「ハングリー」でないホセは、ジョーを理解することができなかったのです。

ホセとジョーは理解しあえたのか

確かに、ホセにとってジョーが理解できない人間であったことは間違いない。しかし、人間としてはそうでも、ボクサーとしてはそうとは限らない。15ラウンドもの長丁場を通じて、ジョーとホセは「百万語の友情ごっこにまさる」「魂の語らい」をできたのではないでしょうか。

ホセと力石の共通点を探ってゆくと、ホセ戦と力石戦だけでなく、二人には多くの共通点があることが分かります。かつて力石というボクサーと「魂の語らい」をできたジョーが、ホセとそれをできないわけがありません。

  • 反則をしない「精密機械」型ボクサーであること(第一回の図参照)
  • 手首のスナップを活かしたパンチを得意とすること(ホセはコークスクリュー。少年院でのジョーv.s.力石戦の後、力石もパンチのときに手首のスナップを使っていたことが明かされる)
  • クロスカウンターを使用できること
  • 家族が存在すること(ホセは妻と子供。力石には直接の家族はいないが、白木家と家族ぐるみのつきあいをしていた)

特に重要なのはクロスカウンターです。

ジョーと力石の公式戦8回戦で、力石が「両手ぶらり戦法」を使い始めたとき、ジョーと段平は、力石がトリプルクロスを狙っているのだと予想します。

この予想は結果的に外れていましたが、重要なのは、一度もトリプルクロスなど打ったことのない力石がトリプルクロスを打ってくるはずだと、ジョーが予想していることです。力石は自分の戦法を容易に真似できるくらい自分を知り尽くしているはずだという信頼感と、自分も相手の手の内を知り尽くしているという自信が読み取れます。

次に、ジョーとホセの世界タイトルマッチに目を向けます。最終15ラウンドで、ジョーが(カーロス戦以来一度も使わなかった)クロスカウンターを打つのですが、この直後にトリプルクロスを打つのです。

ジョーがトリプルクロスを打つということは、ホセがダブルクロスを打ったということです。ホセが過去のジョーの戦績を知り尽くしておりダブルクロスも習得していたのか、一度目のクロスカウンターから即座にダブルクロスを思いついたのかは分かりませんが、ジョーが再びクロスカウンターを打ってくるはずだとホセが予想し、ジョーはホセのダブルクロスを予想していたことになります。力石戦と同様、相手への信頼感と自分への自信があるのです。

おもしろいのは、力石戦ではクロスカウンター(ダブルクロス)に失敗したジョーが、ホセ戦ではクロスカウンターを二度も(一度はトリプルクロス)成功させていること。そして、クロスカウンターを二度も食らったホセが、KO負けすることなく、立ち上がって試合を続けることです。

「あしたのジョー」の中で、クロスカウンターを二発以上食らって立ち上がったボクサーは、ジョー(ウルフ金串戦のダブルクロス四発)とホセの二人だけです(カーロスはジョーとの一回目のスパーリングでカンガルークロスを食らっていますが、16オンスのグラブなので威力は弱めです)。あの力石ですら、少年院では一発のクロスカウンターでダウンしています。ウルフ金串も、トリプルクロス一発でダウンしています。

ついでにいうと、第6ラウンドでジョーがコークスクリューパンチを真似する場面があります。ジョーはコークスクリューパンチを練習したこともないでしょうし、真似したつもりもないでしょうが(アニメ「あしたのジョー2」の第45話「ホセ対ジョー…闘いのゴングが鳴った」では無意識だといっていました)、一度対戦した相手の技をすぐに真似できるぐらい、ジョーはホセのことを理解できているのです。

ホセのコークスクリューにはジョーもコークスクリューを真似して対抗し、ジョーのクロスカウンターにはホセがダブルクロスで、そしてジョーがトリプルクロスで対抗して試合を続けた結果、互いに最後までダウンすることなく試合を終わらせる。ジョーにとってもホセにとっても、互いのことを最も理解しあえた「魂の語らい」であったと思います。

試合後にホセが白髪の満身創痍になっていたことについて、島本和彦『あしたのジョーの方程式』では、ホセの間違った「あした」をジョーが破壊した結果だといっていますが、私はそうではないと思います。むしろあの白髪は、ホセがジョーと理解しあえるまでに殴りあったことの「勲章」でしょう。ジョーとカーロスの公式戦10回戦の後、ジョーもカーロスも顔がぼろぼろになっていますが、それと同じ「勲章」です。ホセ戦ではジョーも右目の視力を失っていますし、ホセが白髪になるぐらいでおあいこです。

島本和彦『あしたのジョーの方程式』の解釈は、ジョーがホセにとって理解しがたい人間であり(ハワイでの家族団欒を見てそういっていた)、ホセにとっても理解しがたい人間である(ジョーが死を恐れないから)という前提に立っているために出てくるものです。確かに、互いに理解しがたい人間ではあったでしょうが、「あしたのジョー」的価値観でいえば、別に人間的に理解しあう必要はないのです。第一回の(言葉でなく)拳で語らうことで述べたように、殴りあいこそが「魂の語らい」であり、「言葉はいらない」のですから。

今回は力石徹、カーロス・リベラ、金竜飛、ホセ・メンドーサについて説明しました。次回は、ヒロインである林紀子と白木葉子について説明します。

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力石徹、カーロス・リベラ、金竜飛、ホセ・メンドーサについて──「あしたのジョー」論その四」への1件のフィードバック

  1. 非常に興味深く拝読させていただきました。

    見当違いかもしれませんが、私はジョーにとってホセは「自分の欲しいもの=他者とのつながりや幸せ」を自分と違うやり方で手に入れた憧れであり、ある種の理想形だったんじゃないのかなと感じました。

    そう感じた理由は終盤、ジョーがさみしそうな顔を終始しているのは、「男が人間としての本能に打ち勝つ」、「熱く生きる」と言う自分の生き方を貫く中で、「ドヤ街のジョー」から「世界の矢吹」への変化した結果、求めていた他者とのつながり(ドヤ街の住民)とのつながりも薄くなっていくことを実感していたからじゃないかなと感じたからです。
     それと当時におそらくジョーは感受性がすごく強いので、自らの手で対戦相手の人生を終わらせてきた贖罪意識もあったのではないでしょうか。

     ジョーにとってホセは、力石や自分のようなストイックな生き方をせずに、他者(家族)とのつながりもちゃんと持っていることがうらやましかったと同時に、力石などへの贖罪意識からホセを認めるわけにはいかないと背負い過ぎたんじゃないのではないか。そんな自分の生き方を辞める場所、介錯してくれる場としてホセに倒されることを自ら望んでいたんじゃないか、ホセなら力石も、自分を許してくれるとジョーは感じたんじゃないか。と私は感じました。

     ジョーが、ドラゴンボールのベジータのように家族がいたり、傷つけた相手のことまで考えなければ、最後にベジータが悟空を認めたように、ホセと言う生き方を堂々と認めることができたのかな。
     宮本武蔵が吉岡の一門と戦った後に、強さを求める先のむなしさを知り、農業をするように生き方をシフトできたら違ったのかな~と勝手に私は妄想してます。
     今日は、このブログを見つけて、この記事を読み本当に充実しました。ありがとうございます。

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