私が「批判派」も「批判批判派」も好きになれない理由

目次

「批判」と「批判批判」について

TwitterやTogetterでは日々議論が展開されていますが、「批判批判」という言葉を見かけることがあります。例えば、以下のような言葉。

  • 無断転載批判批判(Togetter
  • ふしキリ批判批判(Togetter
  • ニセ科学批判批判(Togetter
  • 江戸しぐさ批判批判(Togetter

数は多くありませんが、「政権批判批判」「正字正かな批判批判」「ヘイトスピーチ批判批判」「艦これ批判批判」「オタサーの姫批判批判」なども見つけることができます。この「批判批判」とは一体どういう意味なのか?

「無断転載」を例に説明しましょう。無断転載とは、著作者の許可をとることなく、作品を無断で(引用)でなく転載する行為を指します。無断転載は著作者の著作権を侵害する犯罪行為であり、当然様々な批判が寄せられます。

批判だけならよくある話ですが、無断転載の場合、Twitterで無断転載している人に注意を呼びかけたり、無断転載を肯定する人々との会話をTogetterにまとめたりと、広範な批判活動を展開しています。彼らを「無断転載批判派」とか「無断転載批判クラスタ」と呼びます。

同じことが「ニセ科学」や「江戸しぐさ」「ふしキリ」でも起こっており(「無断転載」と違って犯罪行為ではありませんが)、「ニセ科学批判派」「江戸しぐさ批判」「ふしキリ批判」が存在しています。

ところが、こうした批判活動について、「批判派はやりすぎ」とか「いじめ」「過剰反応」「誹謗中傷」「晒し」といった反応があります。批判自体は正しいものの、一般人のツイートを皆で公式リツイートして空中リプライで攻撃するのは異常だとか、批判自体がおかしいとか、多種多様です。こうした反応を、「批判派」を批判するという意味で「批判批判」「批判批判派」と呼びます。

この傾向が特に強いのが「ふしキリ」です。「ふしキリ」とは『ふしぎなキリスト教』という本の略称で、橋爪大三郎・大澤真幸という二人の社会科学がキリスト教について語った本です。この本の内容に対してクリスチャンの方々が批判をし、atwiki批判本まで作られています。

批判本や批判wikiが作られるのはともかく、「ふしキリ」批判では、

と、100個以上のまとめが作成されています。「批判派」の活動は数あれど、これほど大量のまとめが作成されているのは「ふしキリ」批判ぐらいでしょう。こうした大規模な活動に反感を感じる「ふしキリ批判批判派」もいるわけですが、それに対して「批判派」が再反論する、といった動きがあります。

なぜ「批判派」も「批判批判派」も快く思えないのか

私の立場はというと、基本的に「批判派」に肯定的です。

無断転載は法的に問題のある行為ですし、「江戸しぐさ」のような史実捏造や「ニセ科学」の蔓延には危機感を覚えますし、(クリスチャンではありませんが)誤りのある本を批判する「ふしキリ」批判は正しいことだと思います(「ヘイトスピーチ」とか「艦これ」については関心がないので分かりません)。

「批判批判派」は「晒し」「いじめ」と主張しますが、Twitterは「便所の落書き」ではなく全世界に情報発信するWebサービスですし、ツイートは常に批判されることを想定してすべきなのですから、この主張は誤りです。以前「人の気持ち」「マナー」「迷惑」は現代の「錦の御旗」であるという記事を書いたときに同じ批判を受けましたが、私はその主張をおかしいと考え反論しました。ですから、私は「批判派」の行為を否定するつもりはない。

しかし、「批判派」が正しいことを分かっていても、何となく快いものを感じない。この不快感は、歌い手の「ぱにょ=星見蒼人」氏への批判に対して抱いたものと似ています(詳しくはぱにょ=星見蒼人氏の謝罪にあたって考えたこと参照)。犯罪者である彼が批判されるのは当然であり、批判は正しいことなのだが、なぜか不快感を禁じえない。

「正義」を声高に唱え、批判をすることに対する嫌悪感でしょうか。それもあるかもしれません。しかし、それをいうなら、私だってブログ上で色々と批判をしているわけであって、人のことをいえたものではありません。あるいは、自分が批判をしているがための自己嫌悪なのか。

最近になって、不快感を覚える理由が分かってきました。以下の二つの理由です。

  1. 「私の意見が正しい」という前提で批判をするところ
  2. 個人でなく集団で批判を行うところ

1. 「私の意見が正しい」という前提で批判をするところ

まず1番から。

こんなことを書くと、「正しいと思わずに、自分の意見を述べることなどできないだろう」といわれるかもしれません。それはその通りで、私は「私の正義とあなたの正義は別の正義なのだ」という相対主義を唱えているわけではない。これは誤解されやすいので、詳しく説明する必要があるでしょう。

例えば、私は「語り部のほとりで」というブログで記事を書いています。その記事は、(書いている時点では)私が正しいと思う内容を書いています。

しかし、ブログへの反応や批判を読むと、私の記事は本当に正しいのかと考えます。「私はこれが正しいと思う」と書いたとき、「いや、そうではない」という批判が寄せられると、「本当にこうなのだろうか」と自問自答せざるをえない。その結果、「いや、やはりこうだと思う」と反論することもありえますし、逆に「はい、あなたのいう通り、こうではなかった」と訂正することもありうる。

いわば、ブログの記事や他人との議論を通じて、私の意見正誤を確認しているのです。「正しい意見などない」という相対主義に逃げるでもなく、「自分が絶対に正しい」という絶対主義に閉じ籠るでもなく、自分が正しいのかどうかを議論を通じて考えるわけです。以前「嫌なら見るな」という人には「嫌なら公開するな」というべきという記事を書きましたが、それには人の批判に耳を貸さず、自分が正しいと信じて疑わない態度への反感があったのです。

ところが、「私の正しさを世界に伝えたい」となると、「私は正しい」という前提が自明のものになり、それを疑うことはなくなる。あとはただ、私の意見をどれだけ伝えるかという「作業」になってきます。私はそういう絶対主義的なことはやりたくないのです。

ここで、「批判派」の話に戻りましょう。

私は、「無断転載批判」や「ふしキリ批判」や「ニセ科学批判」は基本的には正しいと考えています。そして、それが本当に正しいかどうか、本やブログやTogetterを通じて確認し続けています。

ところが、「リプライをして無断転載を防止しよう」とか「Togetterにまとめを作成してふしキリの誤りを広めよう」とか「Twitter上でニセ科学に騙される人を減らそう」となると、意見の正誤確認ではなく、正しさの普及になってくる。そこでは、「無断転載」や「ふしキリ」や「ニセ科学」が誤っていることは自明になってしまい、それを確認することはなくなる。私はそれが好きでないのです。

ただ、こういう考え方が支持を得ないであろうことも承知しています。どんな社会運動や批判活動にしても、「これは正しい」「あれは誤っている」という前提を持った上で行われますから、(私のように)前提を逐一疑い、前提を持った上で行動することを否定すると、あらゆる社会運動や批判活動は否定されることになるからです。

「批判派」の方の中には、(私と違って)強い使命感や責任感を持って活動されている方もいらっしゃるのでしょう。実際に「無断転載」をされて不利益を被った人、クリスチャンとして「ふしキリ」を許せない人、歴史学者や科学者として「江戸しぐさ」や「水からの伝言」や「マイナスイオン」を弾劾しているひともいるに違いない。

彼らの活動を否定するつもりはありませんし、今後も活動を続けていただければ結構なのですが、私は(批判内容に共感はできても)その活動自体に共感することはできない。正しさの普及というものに生理的に嫌悪感を覚えてしまうからです。

2. 個人でなく集団で批判を行うところ

次に2番。これは、1番と分かちがたく結びついています。

いくら自分の意見の正しさを広めたいとしても、自分一人でやるのは効率的ではありません。そこで、同じ考えを持つ仲間や同志を募ることになります。それによって、一人から数人、数十人と増えてゆき、やがては「批判派」を形成することになります。

当然の話ですが、「批判派」においては、自分たちの主張は正しいことが前提となっている(「無断転載批判派」は「無断転載」の誤りを普及させるために活動するのですから)。しかし、すると活動は正誤確認ではなく、自分たちの正しさの普及になってしまう。前述の理由から、私にはそれはできないのです。

集団批判が好きでない理由として、私が集団活動を毛嫌いしているから、というのもあります。

どの「批判派」にも見られる傾向ですが、「批判批判」と思しきツイートを見かけると、「批判派」の何人かでそれを公式リツイートし、空中リプライを飛ばします。

公開ツイートをリツイートしているだけなのですから「晒し」ではないのですが、どうもいい気分のしない行動です。空中リプライの後、「批判派」同士で「批判批判の人は……」と批判を共有していたり、Togetterにまとめて、互いにコメント欄で「いいね!」をクリックしていたりすると、おぞましく思える。

一つの派閥やセクトの中で意見を共有し、反対派に対して批判や文句を垂れ流し、共感しあうのが私は大嫌いなのです。なぜ大嫌いなのか? 説明しづらいのですが、自分たちの意見の正しさを(意見の内容ではなく)人数によって補強しようとしているところでしょうか。

例えば、「世間では無断転載を許容している人が多い」といえば、「無断転載批判派」の人は「人数が多いことは正しいことの理由にならない」と反論するでしょう。他の「批判派」の人たちも同じように反論するに違いない。

その反論は全く正しいのですが、「それなら、なぜあなたたちは集団で批判活動をするのか?」と私は思ってしまう。一人で反論すればよいのに、なぜ派閥を組んで、皆で公式リツイートして、皆で意見を共有するような真似をするのか? なぜ一人で批判しないのか? という疑問が拭えないのです。

いや、一人では影響力がないから集団を形成していることは分かっています。分かっているのですが、何らかの正しさを普及するときに、集団や徒党を組んだ時点で、(意見の内容ではなく)人数によって影響を与えようという意図が拭えない。それは私の一番嫌いなやり方です。

「批判派」には「一人」で活動してほしい

ここまで「批判派」の人たちの共感できないところを述べてきました。

「批判批判派」については全く述べていないといわれるかもしれませんが、当然です。私は「批判批判派」の意見が誤りだと思っており、そもそも彼らには共感できないのですから、ここで論じるまでもない。今回の記事でいいたかったのは、どれだけ「批判派」の意見に共感できても、活動自体には共感できないということです。

私の意見を「批判派」の方々に押しつけるつもりはありませんので、「批判派」自体を否定するつもりはありません。ただ、いくつか老婆心ながらの私見を述べておきます。

「批判派」の方々は、社会運動や批判活動を行う際、(集団という性質上)数の圧力に頼ることに陥りがちであることを自覚すべきだと思います。その上で、皆で一斉に公式リツイートするとか、大量のTogetterまとめを作るとかいったことを戒めるべきです。それができないなら、集団を作ることをせず、一人で活動をすべきではないか。

私は冗談でいっているわけではありません。(私の敬愛する)中島義道という哲学者は、「戦う哲学者」として騒音問題や景観問題に取りくんでいましたが、彼は集団で批判をすることがなかった。「罵倒されたり、胸ぐらをつかまれたり」もしたそうですが(『たまたま地上にぼくは生まれた』「7 自分の言葉で語る勇気」)、10年以上、自分一人で孤軍奮闘していた。

彼が立派なのは、集団でなく個人で活動していたことと、「自分が正しい」という前提を持っていなかったこと。「7 自分の言葉で語る勇気」の文章がそれをいい表しています。

私のあくまでも個人的な感受性にもとづいた理論を提案してみて、どこまで通じるかという実験をしているんですよ。私がまず正しいということを決めてかかると、布教になるわけですね。私は、それは嫌いなんです。場合によっては、あと何年かしたら、私の感受性や信念が変わって、私自身別の主張をするかもしれないのであって、それはそれでいいわけです。

「自分が正しい」という前提を持たないことと、個人であること。この二つの条件を満たす活動であれば私は支持しますが、ほとんど見たことがありません。皆無に近いのでしょうね。

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私が「批判派」も「批判批判派」も好きになれない理由」への2件のフィードバック

  1. ふしキリ批判で徒党を組んだ一員です。
    おっしゃることはよくわかります。ただ、集団となったのは、もう、たまたまそうなったとしか言いようがない。みな分かってることですが、ふしキリ批判という一点以外は、考え方も立場もばらばらで、それ以外ではおそらく喧嘩しあう間柄だろうと予想してましたし、実際、今そうなってます。
    そういう「時」だったのだろうと、無責任かも知れませんが思ってます。
    僕はなんの因果か、キリスト教徒でもカトリック教徒でもないのに、「カトリックの擁護」を立ち上げて、カトリック内の問題を主に扱ったことがあります。その時はほとんど味方がなく、「たった一人」の戦いでした。
    そこからすると、ふしキリ批判で、いろいろな方々と「連帯」できたのは、貴重な体験でした。
    繰り返しますが、おっしゃることはよく理解できます。僕も基本的には、戦いひいつも孤独なものだと思ってます。「向かう所味方なし」。そう覚悟してます。それでも、世の機縁で、「連帯」することもあるのだろうな、と思ってます。
    矛盾していることを言っているようでごめんなさい。ただ、なにも反応しないのも卑怯かと思いまして。

    • > 金田一輝(17歳マジカルJK) (@kanedaitsuki)様
      コメントありがとうございます。

      > 集団となったのは、もう、たまたまそうなったとしか言いようがない
      「ふしキリ批判」については最初から集団化を企図したわけではなく、おっしゃる通りなのだろうと思います。
      ただ、「ふしキリ批判」に限らず「無断転載批判」とか「エセ科学批判」とか「現代仮名遣い批判」とか何でもそうですが、「批判批判」を集団でリツイートしたりTogetterを作ったりするのは、もちろん違法行為ではないので問題はないのですが、やはり何となく心地よくないなあと感じてしまいます。
      どんな目的で結成されたにせよ、集団は目的のために過激化する面があるので、自制しながら行う必要があるのでしょうね。

      > 世の機縁で、「連帯」することもあるのだろうな、と思ってます
      おっしゃる通り、一人で戦うのは心理的にも効率的にも分が悪いので、徒党を組んで批判をするのは戦略的には有効だと思っています。
      私が好きでないのは私個人の問題で、私自身が徒党を組んで批判をしたことがない(恐らく今後もすることがない)のと、私自身が集団とか組織が好きでないことに由来しています。

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