「リア充」という概念のおかしさ

今日、私は以下のツイートをしました。「リア充」という概念に対する批判的なツイートです。


「リア充」という概念には元々気に食わないものを感じていましたが、それがなぜなのか、自分の考えがまとまっていませんでした。今日、「リア充」の何がおかしいのか理解できたので、これを機に私の考えを書いておきましょう。

この記事の要旨

  • 「リア充」とは、一般常識や社会通念に適合するレベルでの「楽しさ」や「幸福」を満たす人を指している。たとえ「楽しさ」や「幸福」を覚えている人であっても、それが反社会的な「楽しさ」や「幸福」である場合、「リア充」からは除外される。
  • 「リア充」とは、「リアルの生活が充実していると自分で思っている人」ではなく、「リアルの生活が充実していると多くの人から思われる人」である。

反社会的な人は「リア充」ではない

まず、「リア充」の定義を確認しましょう。その上で、「リア充」という概念に潜むおかしさを指摘してゆきます。

「リア充」は、「リアル充実」とか「リアルの生活が充実している人」の略称です。インターネットではない「リアル」(オフライン)で充実した生活を送っている人、ぐらいの意味です。これは広義の「リア充」です。

ところが、一般に普及している「リア充」という言葉は、これよりも狭い意味で使われています。「恋人がいる人」「友人がいる人」「飲み会に参加して楽しんでいる人」といった意味です。

試しに、Googleで「リア充」で画像検索してみましょう。すると、集団で遊んでいる男女の集団・中高生と思しき男女・自転車に乗る男女・飲み会に参加する男女……の画像が大量に出てきます。「リア充」という言葉はほとんどの場合、「男女」で「恋人」とか「友人」関係を築いていることを指しているわけです。

もちろん、こういう考え方に反発を覚える方もいらっしゃいます。インターネット上にはこんな文章があります。

恋人がいる人がリア充なんじゃない。友達と遊びに行ったり、没頭する趣味があったり、一人で旅行したりショッピングしたりっていうのがリア充だと思う。恋人しか寄りどころのない人はリア充じゃなくて依存だと思う。

この文章の出典はよく分かりませんが、「リア充」を「恋人がいること」に限定することへの反発が根底にあることが分かります。

しかし、「友達」や「趣味」や「旅行」や「ショッピング」が「リア充」だとどうしていえるのか、と疑問に思わないでしょうか。「友達と遊び」になど行きたくない人間、「趣味」などなく仕事に命をかける人間、「旅行」も「ショッピング」も嫌いな人間がいるはずですが、そうした人たちは「リア充」ではないのでしょうか。

「友達」とか「趣味」とか「旅行」は一般的な楽しさですが、もっと別のことに充実感を感じている人もいるかもしれない。例えば、AV女優をやっていて自分の仕事を誇りを思う人、暗殺稼業を誇りにしている人、変態的な犯罪行為にプライドをかけている人は、「リア充」なのでしょうか。多くの人は、彼ら(彼女ら)を「リア充」と呼ぶことに抵抗を覚えないでしょうか。

つまり、「リア充」という概念は、一般常識や社会通念に適合するレベルでの「楽しさ」や「幸福」を満たしている人を指して使われる言葉なのです。「リアルの生活が充実している人」という定義からすれば、誇りを持って犯罪行為に勤しむ人間は「リア充」とみなされるはずですが、そうではない。犯罪行為は反社会的な行為だからです。AV女優や風俗嬢は犯罪行為ではありませんが、一般常識や社会通念に適合するとはいいがたいので、「リア充」から外されてしまいます。

逆に、「友達」や「趣味」や「旅行」といったものについては、本人がどう思っていようと、「リア充」だとみなされる。「友達」がたくさんいて、飲み会にも参加しているが、実は嫌々「友達」とつきあっている人もいておかしくないのですが、彼らは「リア充」扱いになる。それは、「友達」とか「飲み会」は反社会的でないからです。

「リア充」とは「リアルの生活が充実していると自分で思っている人」ではない

「リア充」という概念には、さらなる条件がある。一般常識に適っているだけではだめで、それが多くの人にとって「楽しい」「羨ましい」ものである必要があります。

例えば、こういう例を考えてみるとよい。ある二人の男女が仲良くしているとき、人々は「リア充爆発しろ」というでしょう。

しかし、ある二人の男同士(あるいは女同士)が恋人のように仲良くしているとき、人々は彼らに「リア充爆発しろ」というでしょうか? そういわないのは、世の中の多くの人が異性愛者だからであり、同性愛を別に「楽しい」「羨ましい」と思わないからです。

こう考えてゆくと、「リア充」という概念の指す対象が、かなり恣意的に決められていることが分かります。「リアルの生活が充実している人」というのは、「リアルの生活が充実していると自分で思っている人」ではなく、「リアルの生活が充実していると多くの人から思われる人」なのです。「リアルの生活」が充実しているかどうかは当人の意識の問題であるのに、「リア充」かどうかは、当人でなく他人によって決められてしまうのです。

「リア充」から話が逸れますが、「自分の好きなことがかならず何かあるはずだ!」という言葉の欺瞞について、中島義道は次のように語っています(『私の嫌いな10の言葉』)。「好きなこと」や「好き」を、「リア充」に置き換えて読んでみてください。

その好きなこととは万引きや売春であってはいけないのですから、社会的に評価される、できれば職業と結びつくことでなければならないのですから、じつはきわめて制限されている。こう語る先生が、ナンバーワンのソープ嬢になるように、優れた麻薬運び人になるように薦めているとはどうしても思えない。

当人がほんとうに好きかどうかはこちらが決めてやる、という狡い態度がそこにある。

「好きなこと」も「リア充」も当人の嗜好や意識の問題ですが、それが社会通念や、多くの人の感じる「楽しさ」「羨ましさ」によって判定され、勝手に「好きなこと」「リア充」、あるいは「好きなことではない」「リア充ではない」と分類されてしまう。これは実におかしなことですが、そのおかしさが意識されることもなく、世間では「リア充」という概念が蔓延している。そろそろこうした概念と決別したほうがよろしいかと思うのですが……。

広告

「リア充」という概念のおかしさ」への2件のフィードバック

  1. 初めまして。
    「リア充」の使われ方に関して、仰る通りのことをよく考えます。
    ただ、この言葉の成り立ち(と言っても聞いた話なのでもしかして違うかもしれないです)からして、ネット掲示板上で現実(ネットも現実の一部だと思いますが)で人間関係での充実感を得られていない人が、得られているだろう人に茶化し気味に使う言葉だったらしいので、今の意味で使われるのは仕方ない事かもしれないと感じています。また、「恋人・友人がいる→充実している」という図式を当たり前のように考えている人は、単に人を祝福する意味で軽く使っていて悪意を持っていないようなので、そういう人に幸福は個人によって違って〜などの話をするのも野暮かなあとも感じます。
    しかし「リア充なのに不幸ぶるとかウザい」「独りなのにリア充なワケない」等、自分の幸福観で人にモノを言う人もいるようで、個人によって幸福は違うという意見をもっと広めた方が良いのだろうかとも感じています。
    前述の通り、使われ方が祝福の言葉だったり中傷の言葉だったりと様々な扱い方があるので定義や使い方に物申す際には慎重にならなければいけない言葉だと思います。

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Google+ フォト

Google+ アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

%s と連携中