海馬瀬人について──「遊☆戯☆王」論その八

「遊☆戯☆王」論第八回です。今回は、海馬瀬人というキャラクターについて書きます。

※「遊☆戯☆王」論は全八回です。全記事一覧をご覧になりたい方は、タグ「遊☆戯☆王」か、記事「『遊☆戯☆王』論」をご覧ください。

目次

「運命」を否定する男・海馬瀬人

海馬瀬人というキャラクターは「遊☆戯☆王」において極めて重要です。

もちろん、主人公・武藤遊戯のライバルであること、その存在感、名言の多さなども重要ですが、何より重要なのは、彼が「遊☆戯☆王」世界においてほぼ唯一、「遊☆戯☆王」の「運命」観・「強さ」観を否定していることです(なぜ「ほぼ唯一」なのかは後述)。

まずは「運命」観から見てゆきましょう。第一回で述べたように、原作「遊☆戯☆王」においては「運命」とは変えられるものではなく、人間はただそれに従うしかないものです。そして、「遊☆戯☆王」における「運命」のほとんどが、三千年前の古代エジプトに由来するものです。

ところが、こうした古代エジプト由来の「運命」を、どうでもいいと切って捨てるキャラクターが唯一存在します。それが海馬瀬人です。

瀬人が現代と古代エジプトの関わりを知ったのは、遊闘147「失われしカード」にて、童実野美術館で古代エジプトの「記憶の石盤」を見たときです。このとき、イシズから古代エジプト以来の「運命」を示唆されるのですが、それに対して瀬人は猛反発します。

くだらん
くだらん!
くだらん!!
非ぃ科学的だ!
ましてM&Wのカードの原形が三千年前に存在していたなど
誰が信じるものか!

その後も、ことあるごとに瀬人はそうした「運命」を否定しています。

あの古代の壁画に記された決闘者の刻印!!
それが仮に遊戯!!
貴様の姿であったとしても……
オレにとってそんなものはただの遺物にすぎない!!
遊闘149「鬼神のごときカード」
三千年前の人間(ミイラ)などオレに何の接点もありはしない…
遊闘265「頂上決戦!!」

瀬人は「千年アイテム」を「悪趣味」「オカルトグッズ」と全否定する人であり、その嫌いぶりは科学至上主義・オカルト嫌いとして認識されています。

しかし、不思議なことがあります。そんな瀬人が、武藤遊戯との「宿命」とか、神のカードが持ち主を選ぶとか、一件非科学的なことを平気で述べていることです。

神のカードは常に最も誇り高き決闘者を…持ち主に選ぶ!!
遊闘175 決闘者の可能性
数々の因縁をつみ重ね──宿命の名のもとに我々は雌雄を決する!
遊闘252「天空決闘闘戯場」

神のカードや遊戯については「運命」「宿命」を認める瀬人が、「千年アイテム」についてはヒステリックなほど「運命」を否定する。これは一体なぜでしょうか。

さらにいうと、遊戯の「千年パズル」にもう一つの人格を持っていることについて、瀬人は何の抵抗もなく受け入れています。ペンダントの中に魂が宿るなんて、(我々の目から見れば)十分「非ぃ科学的」なのにも関わらずです。

なぜ千年パズルを外した!!
奴ではこの決闘…敗北の道しかない!!
遊闘195「もう一人の決意」

「決闘者の王国編」ではペガサスの「千年眼」の力に言及していますが、その頃はそれほどヒステリックな拒絶反応は見せていません。「それが奴の不可思議な力なのかトリックなのかは謎」遊闘101「一進一退!!」)ぐらいのものです。

つまり、瀬人がヒステリックなほど拒絶反応を示すのは、単なる非科学的な現象についてではなく、「千年アイテム」や三千年前の古代エジプトの「運命」にまつわる現象だけなのです。一体、なぜそこまで「千年アイテム」や古代エジプトを嫌うのでしょうか。

海馬瀬人の「未来」観

彼の「運命」嫌いを知るためには、彼の「未来」観を知らなくてはなりません。

瀬人は「過去」を捨て、「未来」を追い求めようとします。その姿勢がはっきり打ち出されたのが、童実野美術館で「記憶の石盤」を見た後の遊闘149「鬼神のごときカード」です。

ならばオレは──
未来の栄光を掴む!!

その後も、「バトル・シティ編」で何度も「過去」否定、「未来」志向の発言を繰り返しています。

では、なぜそこまで「未来」にこだわるのか。それを考えるヒントが、瀬人v.s.イシズのデュエルの遊闘225「海馬開戦!!」の発言です。

オレは未来などに導かれはしない!
オレの踏み印したロード!
それが未来となるのだ!

要は、自分は定められた「運命」「未来」などを歩むことはしない、「未来」は自分で切り開くといっているわけです。実際に、この後瀬人は「青眼の白龍」を召喚し、イシズの「千年タウク」の未来を変えてしまいます。

これだけだと、アニメ「ドーマ編」の闇遊戯の考えと似ていますが、瀬人の考えは少し違います。以下は遊闘261「憎しみの先に!!」での発言です。

幼少の頃に親を失ったオレ達兄弟は
うす汚い大人どもによって施設暮らしを強いられ…
海馬剛三郎の養子となった
オレを待っていたのは
教育に名を借りた虐待の日々…
そこに理想とする家族像などなかった…
オレの過去には怒りと憎しみしか存在しない!!
貴様のくだらん幻想などとは違うのだ!!
オレは未来にしか興味はない
過去など踏みつけるために存在する

単純に読むと、「過去には怒りと憎しみしか存在しないので嫌い」と読んでしまいそうですが、そうではありません。

遊闘262「友として!!」「憎しみと怒りこそがオレにパワーを与えてきた」といっているように、瀬人は「憎しみ」や「怒り」といった「心の闇」を糧として「強さ」を維持している人です。「憎しみ」や「怒り」がなくなったら瀬人の「強さ」は維持できないわけで、それがあるから「過去」を嫌っているわけではありません。

瀬人の発言や、「DEATH-T編」のモクバの過去回想(遊闘40「心の1片」)からも分かるように、海馬兄弟の幼少期は、大人たちに振り回されてきたものだといえます。まだ幼い海馬兄弟に大人たちに対抗する術などないでしょうから、振り回されるのはやむをえないことでしょう。

ここで、先ほどの「未来」発言を思い出してください。「未来」とは用意されるものではなく、自分で切り開くものだと。

ここまでくれば、瀬人が「過去」を異常なほど嫌う理由がお分かりいただけるでしょう。そして、彼が「千年アイテム」や古代エジプトを毛嫌いする理由もわかるはずです。

彼が過去を嫌うのは、自分の「過去」が大人たちに振り回されてきたものであり、すなわち「用意された未来」だからです。自分で「未来」(現時点の瀬人から見れば「過去」)を切り開いてきたとは到底いえず、大人たちが敷いたレールの上を走らされてきたのであり、いわば「運命の奴隷」として生きてきたからです。

そして、彼が「千年アイテム」にまつわる「運命」を嫌うのは、それが「用意された未来」であり、自分の「過去」と同じだからです。

瀬人は、「青眼の白龍」や神のカード、海馬コーポレーションを手に入れたのは、すべて自分の実力であり、自分が「未来」を切り開いてきたからだと考えています。また、遊戯との「宿命」の闘いも、自分で選び取ったものだと考えている。

ところが、「瀬人が『青眼』や神のカードを手に入れたことも、遊戯との宿命も、すべては古代エジプトからの運命である」ということになると、自分が「未来」を切り開いたことにならない。ただ古代エジプトからの「運命」のレールの上を走っているだけです。これは、大人たちの「運命」のレールを走っていた幼少期と何も変わりません。

瀬人が「千年アイテム」や古代エジプトを嫌うのは、単なる科学主義やオカルト嫌いではありません。それは、「運命の奴隷」として生きてきた自分の「過去」に対する自己批判であり、そんな惨めな「過去」を脱却し、「未来」を切り開いてきた自己啓発のメソッドでもあるのです。

「絆」「結束」を否定する男・海馬瀬人

次に「強さ」観です。これも第一回で見ましたが、「遊☆戯☆王」では「仲間」「絆」「結束」「友」がなければ、真の「強さ」は得られないことになっています。そして、これを瀬人は全面否定しています。

友の力だとぉ…
くだらん
オレにとってそんなもので得た勝利など価値はない!
オレにとって友など永遠に必要のないものだ!
遊闘263「勝敗を分かつ魔物」

この後の遊戯v.s.マリクのデュエルにて、「友の力」など存在しないことの証として、瀬人は遊戯に「デビルズ・サンクチュアリ」のカードを渡すことになります。結果的に遊戯が勝利し、「友の力」の存在が証明されてしまったわけですが、瀬人が「友の力」の存在を認めたのかどうかは定かではありません。

瀬人が頑なに「絆」を否定する理由は、遊闘106「もう一人の勇気」での瀬人の発言や、『真理の福音』での高橋和希氏のインタビューにて分かります。かつて父・剛三郎をゲームにて死に追いやり、自身も遊戯との「闇のゲーム」によって廃人に追いこまれた経験から、ゲームとは「相手を叩き潰し、死に追いやるもの」という固定観念を持つに至ったのです。「遊☆戯☆王」の世界では、ゲームは友と交流し成長するためのものですから、瀬人の考えはその対極に位置します。

このように見ると、瀬人というキャラクターは、「遊☆戯☆王」という世界のいわばアンチテーゼとして存在しているといえます。「遊☆戯☆王」世界に存在する「運命」観・「強さ」観をことごとく否定し、しかも最後まで考えを変えないのですから。海馬瀬人というキャラクターの強烈な存在感は、そのエキセントリックな言動もありますが、一人で孤独に「遊戯王」の世界観に反抗する強烈なキャラクター性にあるといえるでしょう。

補足1: 「憎しみと怒り」と兄弟愛、「乃亜編」の位置づけ

自分の「過去」には「憎しみと怒り」しか存在しないと断言する海馬瀬人ですが、実はその姿勢にはある矛盾が存在します。それは、弟・海馬モクバとの関係です。

前述のように、瀬人の「強さ」とは「過去」の「憎しみと怒り」に由来するものであり、それを糧に「パワー」を増幅させ続けてきたのでした。つまり、彼にとって「憎しみと怒り」はなくてはならないものです。

ところが、すべてのものを「憎しみと怒り」によって潰すという発想は、「じゃまになれば、弟モクバであろうと潰す」という発想に至ります。瀬人には「絆」や「友」や「結束」は存在しないのですから、モクバだけを「憎しみと怒り」から度外視することができないからです。

「DEATH-T編」の瀬人は、敗者に対しては、弟であろうと「罰ゲーム」を下す非情な人間でした(遊闘36「無情のラストバトル」)。これは「じゃまになれば、弟モクバであろうと潰す」という姿勢であり、「友」や「絆」を全否定する人間としては首尾一貫した態度です。

ところが、モクバへの兄弟愛を取り戻した「決闘者の王国編」以降は、瀬人は「強さ」(すなわち「憎しみと怒り」)へのこだわりとモクバへの兄弟愛をあわせ持つようになりました。こうなると、「すべてのものを『憎しみと怒り』によって潰そうとするのに、なぜモクバだけは守ろうとするのか?」という問題が発生するのです。

この問題は、モクバの懸念としてときどき現れます。

あの日…イカサマゲームなんかやらなければ…
兄サマは昔の兄サマのままでオレのそばにいてくれたかも知れないのに…
遊闘40「心の1片」
昔見せてくれた本当の笑顔さえも…
遊闘261「憎しみの先へ!!」

すべてを「憎しみと怒り」に変えるということは、昔の海馬兄弟の「絆」さえも否定するということです。瀬人は自分の姿勢が抱えるその矛盾に無自覚なのですが、遊闘264「たくされる一枚」でのモクバの言葉にて、それを自覚することになるのです。

この問題は原作では放置されていましたが、それを本格的に扱ったのが、アニメオリジナルエピソード「乃亜編」です。ここでは瀬人がモクバとの「絆」を強調し、原作での「絆」全否定の姿勢を捨てています。「憎しみと怒り」を糧とする姿勢は変わりませんが、モクバとの間にだけは「絆」を認める。瀬人なりに、この問題に取り組んだ結果です。

ところが、「ドーマ編」と同じく、アニメオリジナルエピソードは原作との食い違いを生みます。「乃亜編」でモクバとの「絆」を自覚したのに、第134話「憎しみを撃て! ブラックパラディン」では再び「絆」全否定をしています。明らかに整合性のとれない言動なのですが、アニメオリジナルエピソードをやった後に原作をそのまま放送すると矛盾が生じるのは、アニメ版「遊☆戯☆王」の常です。

ちなみに、海馬兄弟のこの「問題」は、一体何が原因なのか。恐らくは、幼少期の人生観の違いです。

遊闘40「心の1片」遊闘261「憎しみの先へ!!」を読むと、瀬人は「施設暮らし」を嫌悪しており、モクバのためにもっと「いい暮らし」をさせてやりたいと思っていたことが分かります。そうした兄弟愛が、勝利へのこだわりに繋がっています。

一方、「それでも施設の生活はけっこー気に入ってた!」というように、モクバは「いい暮らし」にそこまでこだわりがあったわけではない。モクバは瀬人と一緒にいることができればそれで十分であったと考えられます。

「現在の生活を嫌悪し、怒りと憎しみを頼りに未来を切り開く兄」と「現在の生活で構わないから、兄と一緒にいたい弟」。この時点で結構なずれがあることが分かります。瀬人がモクバの気持ちを斟酌し、海馬コーポレーションを乗っ取らなくてもよい、モクバと一緒にいればそれでいいことに気がつければ、海馬兄弟は幸せな生活を送れていたのかもしれません。

補足2: 「ドーマ編」と兄弟愛

「乃亜編」に続いて海馬兄弟の兄弟愛が取り上げられたのが、アニメオリジナルエピソードの「ドーマ編」です。アメルダという敵が登場するのですが、彼は過去に戦争で弟を亡くしており、その戦いに武器を提供していた海馬コーポレーションを憎んでいます(第150話「目覚めよ! クリティウス!」)。彼と瀬人のデュエルは第167話「天空の要塞ジグラート」で決着がつきました。

が、そもそも「ドーマ編」において兄弟愛はテーマになっていたのでしょうか。実は、本来そうではないのです。そうではないのに、途中から兄弟愛にテーマがすり替わってしまったのです。

まず、第150話でのアメルダの台詞を引用します。

償いだと? 笑わせるな
それでボクの弟は 両親は帰ってくるのか?
海馬コーポレーションは
平和を破壊して肥え太ってきたんだ
お前の作ったデュエルディスク
それらを開発するための莫大な資金。
いや お前が生きるために食べる食事 お前が今着ている服
全て海馬コーポレーションの金で買ったものだ。
人の命を奪って得た金で!
今償ってもらうよ・・・お前の魂でね

これに対する瀬人の台詞が以下です。

復讐か……
確かにオレは 海馬コーポレーションと共に剛三郎の業をも引き継いだ
それを否定するつもりも無い
だがな……
デュエルでオレに挑んだからには
貴様の真実は貴様のデュエルで語れ!
オレの進むべきロード
それが正しいか否かはデュエルの勝敗のみが決める!

「ドーマ編」では、実は兄弟愛はテーマではないのです。海馬コーポレーションを引き継いだ海馬瀬人が、剛三郎の遺した罪をどうするのかという贖罪がテーマなのです。

モクバは「兄サマは剛三郎のすべてを否定したんだ」と反論しますが、これが反論にならないことはアメルダのいう通りです。剛三郎時代の軍需産業を捨ててゲーム産業に転向したとはいえ、瀬人は剛三郎時代の社員や海馬コーポレーションの資産をすべて流用してしまっているからです。第167話でアメルダが指摘していましたが、剛三郎時代の軍用機を未だに使っているのがその例です。

そもそも、瀬人が剛三郎に養子縁組の申し入れをしたのは、海馬コーポレーションの力を見越してのことです。その力があればこそ、瀬人はソリッドビジョン・システムやデュエルディスクを開発できました。剛三郎時代の力を利用しておきながら、その力が遺した負の遺産を無視するというのはダブルスタンダードです。

「海馬コーポレーションと共に剛三郎の業をも引き継いだ」「それを否定するつもりも無い」というように、瀬人はその事実は認めています。が、その事実に対してどう向きあうのかが描かれていないのです。それとも、「海馬ランド」を創ることがその償いの一環なのでしょうか。

このように、「ドーマ編」で瀬人に提示されたテーマとは、海馬コーポレーションの贖罪でした。ところが、第167話になると、瀬人は「分からんのか 弟を救えなかった その一点で貴様は負けているんだ 」と、兄弟愛の強さにテーマがすり替わっているのです。なぜこんなことが起きたのか?

このすり替えの原因は、アメルダの弟が殺されたという設定です。

先ほど述べたように、重要なのは、剛三郎時代の海馬コーポレーションが多くの人々を傷つけ殺してしまっており、その事実に瀬人はどう向きあうかということです。ですから、アメルダの弟でなくても、妹や家族や恋人が殺されたという設定でも構いません。アメルダの弟というのは、いってみればマクガフィンです。

ただ、アメルダの妹や恋人が殺されたという設定だと、瀬人の受けるダメージが小さい。瀬人は弟関連の話には弱いですが、それ以外ではほとんどダメージを受けないので、「妹はお前に お前の会社に殺されたんだ」といわれてもインパクトがない。そこで、弟の死を絡めることで瀬人へのインパクトを強めたのです。

ところが、弟の死を絡めたことによって、海馬コーポレーションの贖罪から、瀬人とアメルダ個人の兄弟愛の強さにテーマが変わってしまった。「乃亜編」で描かれたようなテーマがもう一度描かれたわけですが、元々モクバの兄であった乃亜に比べると瀬人とアメルダの関係が薄いので、「ドーマ編」の兄弟愛は説得力を持たないものになってしまったのです。

第180話「オレイカルコスの三重結界」では、魂を奪われた瀬人にモクバが涙する場面があるのですが、これがあまり感動を呼ばないのは、「ドーマ編」は途中でテーマが兄弟愛にすり替わったという唐突さがあるためです。「乃亜編」の二番煎じというのもありますが(第116話「モクバを救え! 運命の第七ターン」)。

この場面について、遊戯王の中庭では次のように述べています。

今回は驚いたことに、 瀬人はやられそうになった時も、実際にやられたときも…そして魂を封印される瞬間も、モクバのことを 思い浮かべてはいなかったんですよね…これは本当に意外という以外にありません。
今回の瀬人のデュエルは…瀬人とモクバ、二人の心の繋がりや闘いの意味が、余りにも希薄に描かれていたことがかなり残念でなりません。

これはその通りなのですが、そもそも「ドーマ編」のテーマが兄弟愛でなかった以上、瀬人とモクバの兄弟愛を描くのが難しいのです。

もちろん、贖罪に兄弟愛を絡めるのは不可能ではありません。自分一人で海馬コーポレーションの罪を背負おうとする瀬人が、共に背負おうとするモクバの存在に気がつき、「結束の力」「絆」に目覚めるとかいう展開でしたら、「遊☆戯☆王」的価値観にも合致しますし、「乃亜編」とは一線を画した兄弟愛の描き方が可能でした。残念でなりません。

補足3: マリクと「運命」

「遊☆戯☆王」の「運命」観・「強さ」観を否定しているのは、ほぼ唯一海馬瀬人だけだと述べました。

なぜ「ほぼ唯一」かというと、かつては他にも存在しましたが、現在では考えを改め、存在しなくなったからです。それは、マリク・イシュタールです。

マリクが闇遊戯の命を狙う理由は、遊闘165「石版の記憶」にて明かされます。

三枚の神のカードを手に入れ──
遊戯!
貴様を亡きものにすれば
ボクは運命の呪縛から解き放たれすべてを手に入れることができる!!

「遊☆戯☆王」のキャラクター、特に「墓守の一族」は「運命」に従順な人間が多いのですが、マリクだけは例外です。彼は自らの「呪われた運命」を否定し、名も無き王の抹殺によって、「自由」を手にしようとしているのです。

ただ、こうしたマリクの姿勢は、闇マリクの登場によってうやむやになりました。マリクは、今まで闇遊戯に向けていた怒りを闇人格に向け、闇人格を抹殺した後、「千年ロッド」と神のカードを闇遊戯に渡して、「墓守の一族」の「運命」を果たしたからです。結局、彼も「運命」に従う人間の一員になったわけです。

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