「遊☆戯☆王」の設定と世界観──「遊☆戯☆王」論その一

「遊☆戯☆王」論第一回です。今回はまず、「遊☆戯☆王」に通底する設定や世界観について検討します。

※「遊☆戯☆王」論は全八回です。全記事一覧をご覧になりたい方は、タグ「遊☆戯☆王」か、記事「『遊☆戯☆王』論」をご覧ください。

目次

原作『遊☆戯☆王』の設定・世界観

まずは原作『遊☆戯☆王』の設定・世界観を見ることにします。原作には、

  1. 「運命」
  2. 「強さ」
  3. 「心」

という大きな三つの設定が存在します。

1. 「運命」

「運命」という言葉は、「宿命」「使命」「さだめ」「役目」といい換えてもよいでしょう。万物がそうあるように定められた法則のようなものです。「運命」というものが本当に実在するのかは不明ですが、『遊☆戯☆王』では存在することになっています。

『遊☆戯☆王』の世界では、「運命」というものが極めて重要な位置を占めています。『遊戯王』の展開は、この概念でほとんど説明できるといってよいほどです。

「運命」には、以下の四つの性質が存在します。

  1. 万物には「運命」が存在し、万物は「運命」に支配される。
  2. 「運命」とは、「神」や「大いなる意志」によって決定されるものであり、人間が決めたり変えられるものではない。
  3. 「運命」を全うした者や、「運命」「掟」に背く者は、破滅へと至る。
  4. 「運命」「宿命」は空間・時間を超えて存在し続け、繰り返される。

こう書いても分かりにくいので、原作の展開をいくつか例に挙げて、具体的に説明しましょう。

1番
武藤遊戯は千年パズルを組み立て、王の器となる「運命」を背負った。
死者の魂は現世に留まってはならず、冥界に還る「運命」を持つ。
墓守の一族は、王に記憶を献上する「使命」を背負っている。
「千年アイテム」や「神のカード」は、それを持つにふさわしい「運命」の者に与えられる。
2番
武藤遊戯が千年パズルを組み立てたのは、千年パズルが彼を選んだから。
ペガサスは千年眼に選ばれ、M&Wを作らされた。
海馬瀬人が「神(オベリスクの巨神兵)」を選んだのではなく、「神」が海馬を選んだ。
3番
「千年アイテム」を鋳造した古代エジプトの王宮は、闇の力の封印を解いてはならないという「掟」を破ったため破滅した。
イシズ・マリク姉弟が、外の世界に出てはならないという墓守の一族の「掟」を破ったため、墓守の一族は破滅の道を歩み始めた。
王国編後、「役目」を終えたペガサスは役目を終え、バクラに千年眼を渡して死んだ。
「闘いの儀」を終えた後、「役目」を終えた「王の記憶の石版」と「千年アイテム」は地中に沈んで行った。
4番
武藤遊戯と海馬瀬人の「宿命」の闘いは、三千年前のアテムとセトの「宿命」の闘いの続きである。
武藤遊戯と獏良了の闘いは、三千年前のアテムと盗賊王バクラ・大邪神ゾークの闘いの続きである。

このように、『遊☆戯☆王』では「運命」が強い影響を及ぼしています。「運命」への理解なくして、『遊☆戯☆王』を理解することはできません。

ちなみに、なぜここまで「運命」に拘るかというと、高橋和希が『ジョジョの奇妙な冒険』の影響を受けているからでしょう。

『ジョジョの奇妙な冒険』では、人間とは「運命の奴隷」「眠れる奴隷」だとされており、人間は「運命」の上で生き続けるしかありません。すべては「運命」に支配されますし、「運命」は変えられませんし、「運命」は時を超えて受け継がれる。『遊☆戯☆王』が、いかに『ジョジョ』の世界観と酷似しているか分かるでしょう。

他にも、「スタンド使いは引かれ合う」や「魂は受け継がれる」といった『ジョジョ』の設定も、「千年アイテムは互いに引き合う」(シャーディー)や「人間の魂と意志は永遠のものなのです」(イシズ)という台詞で『遊戯王』に登場します。高橋氏は、『ジョジョ』作者の荒木飛呂彦のアシスタントをされていたことがありますし、ご自身でも『ジョジョ』に強い影響を受けたことを明言されていますので、その影響が『遊☆戯☆王』に強く現れているのはおかしなことではありません。

2. 「強さ」

ここまでは「運命」の話でした。次に、「強さ」の話です。

  1. 「強さ」とは、「力」と「優しさ」からなる。
  2. 「力」は、使い手によっては善にも悪にもなりうる(正しい「心」の持ち主が「力」を行使したとき、「善」「正義」となる)。
  3. 自分だけではなく、「仲間」「友」「絆」を信じることが真の「強さ」である。

「運命」に比べると、非常に分かりやすい考え方ですが、一応説明しましょう。

まず1番。「力」「優しさ」とは何か、原作では定義されていませんが、簡単にいえば、「力」とは「相手を倒す術」、「優しさ」とは「相手を思いやる気持ち」という感じでしょう。原作では、闇遊戯(アテム)が「力」の象徴、武藤遊戯が「優しさ」の象徴です。

次に2番。使い手によって善にも悪にもなるというのは、「バトル・シティ編」の「神のカード」についてもいわれていましたが、「王の記憶編」ではこれがテーマとなります。千年アイテムの「力」を得るために蛮行を行った王宮は果たして「正義」なのか、盗賊王バクラと王宮の「正義」は何が違うのか、という問いです。

なお、原作では明記されていませんが、「優しさ」と「正しさ」は、かなり近い概念だと思われます。武藤遊戯の「優しさ」とアテムの「力」があわさって完全であったように、千年アイテムの「力」と、それを使う者の「正しさ」があわさって、初めて完全になるのです。

3番については、特に説明は必要ないでしょう。『遊☆戯☆王』では、「仲間」や「結束」の重要性が繰り返し説かれています。

原作では「力」だけの勝利が批判され、「優しさ」や「正しさ」が強調されていましたが、「優しさ」「正しさ」だけでよいわけではありません。「力」と「優しさ(正しさ)」の両方が揃って完全なのであって、どちらが欠けてもいけないのです。

「力」だけを追い求めると、海馬瀬人や盗賊王バクラのように、「正しさ」「優しさ」を見失うことになります。一方、「優しさ」だけで「力」がないと、かつての(千年パズル完成前の)武藤遊戯のように、何も守れません。

3. 「心」

最後に、「心」の話です。

正しい「心」の持ち主でなければ、真の「強さ」は得られないのでした。では、「心」とは何なのでしょうか?

  1. 人間の「心」は、部屋や魔物やモンスターなどの形として具現化される。
  2. 人間の「心」には、「光」と「闇」とが存在する(「光」は「優しさ」「正しさ」、「闇」は「力」となる)。

1番は分かりやすいでしょう。「カー(魔物)」や「モンスター」は人間の「心」から生まれたものですし、シャーディーの千年錠を使うと、部屋という形で具現化された「心」を見ることができます。

2番は、「ドーマ編」や「王の記憶編」、「GX」三期でテーマとなった「心の光と闇」です。

原作では明記されていませんが、この「光」と「闇」が、「優しさ」と「力」に対応していると考えられます。ここは重要なので、少し詳しく説明しましょう。

まず「光」と「闇」の定義ですが、「光」とは喜びや楽しみといったポジティブ・プラスの感情、「闇」は怒りや憎しみといったネガティブ・マイナスの感情という意味で捉えてよいでしょう。

人間はポジティブに生きてばかりはいられませんから、生きる過程で、怒りや憎しみを覚えることがあります。すると、「心」に闇が蓄積されます。

多少「闇」が増えたぐらいでは「心」のバランスは崩れませんが、あまりに「闇」が増えすぎると、「心」が「闇」に呑まれてしまいます。

「闇」に支配された「心」とは、「怒り」や「憎しみ」から抜け出すことのできない状態ではありますが、同時に、絶大な「力」をもたらす状態でもあります。

今…オレの闘争本能を揺り動かすものは………マリクへの憎しみだけだ………

(遊闘250「未来への光!!」)

憎しみと怒りこそがオレにパワーを与えてきた! すべてを支配する力をな!

(遊闘262「友として!!」)

オレ様の憎しみが増す度に──ディアバウンドも進化するぜ!!

(遊闘292「魔術師の闘い!!」)

「闇」は「力」になる。海馬瀬人や盗賊王バクラがその典型ですし、アニメ「ドーマ編」の闇遊戯(アテム)、「GX」の覇王十代、「5D’s」の(ダークシグナー時代の)鬼柳京介がそうでした。

しかし、「闇」が増幅し、「力」だけを追い求めるようになると、「正しさ」や「優しさ」を失ってしまう。すると、仲間を信じることができず、真の「強さ」は得られませんし、「正義」も実現できなくなってしまいます。

ただ、前述のように、「優しさ」や「正しさ」だけでは勝てないのも事実です。「力」、つまり「闇」を心に持ちながらも、「優しさ」や「正しさ」、つまり「光」を失わないというバランス感覚が必要なのですが、これはとても難しいことです。

願い…信念…それだけでは国は守れぬ…力が必要なのだ! セトよ…

(遊闘309「闇の波紋」)

アニメ「遊☆戯☆王」の設定・世界観

「運命」

ここまで原作の設定・世界観を見てきました。次に、アニメの設定・世界観に移りましょう。

「強さ」と「心」については、アニメの設定は原作にほぼ準拠しています。ただし、「運命」についてはむしろ真逆です。

正確にいえば、アニメの「ドーマ編」と、「GX」「5D’s」全編では、「運命は変えることができる」という立場をとっています。「ZEXAL」はよく知りませんが、恐らく同じ立場ではないでしょうか。

  • 「遊戯王デュエルモンスターズ」「ドーマ編」のアメルダ・ラフェール・ダーツ
  • 「GX」の斎王琢磨・ダークネス
  • 「5D’s」のゴドウィン・アポリア・Z-ONE(ゾーン)

アニメに登場する敵キャラクターですが、いずれも「運命に従って生きる敵」です。細かい違いはありますが、「人類は滅びる運命」とか何とかいって、人類に干渉しようとするのが共通点です。

一方、主人公は「運命を自ら切り開く人物」であり、「運命」に従って生きることに抵抗し、何とか「運命」を変えようとします。そして、彼らは「絆」や「結束の力」をもって、見事に「運命」を変えてみせる。

つまり、アニメでは原作と違って、「運命」は変えることができるという設定になっているのです。「運命」は変えられないことが前提になっている原作と比べて、これは大きな違いです。

人間が「運命」を変えられることの分かりやすい例が、アニメの第223話の「強き心 優しき心」です。アテムが、自分のイメージしたカードをドローするという神業を披露したことについて、イシズがこういいます。

いいえ、私も、ドローとは運命に導かれ決定するものだと思っていました。しかし、今のファラオは運命さえ、自らの信念と意志で導いている。

神ならぬ人間であるアテムに、「運命」を導くことができるのだそうです。そんなことがいつからできるようになったのか、そんなことができるなら、バクラとの「闇のRPG」でなぜ苦戦していたのか、色々と謎を呼びます。

このように、アニメでは「運命」を変えることが可能であり、主人公たちは定められた「運命」に抗うという構図になっています。そのため、原作に忠実な箇所とアニメオリジナル箇所で齟齬が生じるようになっています。例えば、アニメの第174話「運命の決闘! 遊戯 vs ラフェール」の遊戯(アテム)の台詞です。

どうしてそこまで運命に縛られなきゃならない?

ダーツのいう「運命」への抵抗心からこういっているのですが、よく考えると、海馬瀬人との「宿命」に拘ったり、王としての「使命」に拘ったりと、アテムは非常に「運命に縛られ」ている人です。その彼が、「運命」を否定しているというのは不可解な話です。

これにとどまらず、「ドーマ編」は色々と問題点があるのですが、それは別の機会に書きましょう。

アニメで追加された設定

アニメでは、原作にない設定が色々と追加されています。

些細な違いからいうと、原作ではカードの名前が「マジック・アンド・ウィザーズ(M&W)」であったのに、アニメでは「デュエルモンスターズ」になっています。ただ、これは名前が違うだけで、それほど重要ではありません。

アニメではさらに、「デュエルモンスターズ」の精霊たちが存在するという設定があります。これは「GX」以降のアニメでも受け継がれている設定ですが、原作の設定を壊しかねないような設定です。

原作でも「カー(魔物)」や「モンスター」が存在するのだから、「精霊」がいても大して変わらないではないか、と思われるかもしれません。しかし、実は大きな違いがあるのです。

原作では、「カー(魔物)」とは人間の「心」が生み出した魔物であり、それは「千年アイテム」によって姿を見たり、「ウェジュ(石版)」に封印したり、召喚したりできるものです。M&Wはそれを再現したもので、「モンスター」が「カード」に封印され、「カード」を使って召喚できるのです。

つまり、「カー(魔物)」とは千年アイテムによって具現化できる存在です。そして、「モンスター」は「カー(魔物)」の再現ですから、M&Wが「千年アイテム」と関わりがあるのは当然です。

ところが、アニメの設定では、「カー(魔物)」や「モンスター」は、人間とは別の世界に存在する生き物だということになっています。以下は、アニメの第147話「名もなき竜 ティマイオス」でのホプキンス教授とブラックマジシャン・ガールの台詞です。

モンスターは実在する。多くの古代遺跡や壁画に見られる異形の神々・昇霊術・魔術・呪術、それらは人間が別の世界からモンスターたちの力を呼び、その力を利用しようとしてきたことの証明だと、私は考えている。

私たちの世界は、マスターたちの世界に生きる人々の思念によって生み出された世界。いわば思念エネルギーの世界です。

だけど、マスターたちの世界も、私たちの世界によって支えられている。二つの世界は表裏一体の関係なのです。

この設定と、先ほどの原作の設定を比較してみましょう。

「デュエルモンスターズ」の世界は「生きる人々の思念によって生み出された世界」らしいので、「モンスター」が人間の「心」から生まれたという設定と大体同じです。

ところが、アニメでは、「千年アイテム」によって精霊が具現化されるという設定が完全に消えています。その証拠に、「ドーマ編」で、ダーツが生きていた一万年前のアトランティスにて、精霊が姿を現しているからです(当然、一万年前に「千年アイテム」はまだ作られていません)。

「千年アイテム」がなくても精霊が具現化できるというなら、「千年アイテム」の存在理由とは何なのでしょうか? 「千年アイテム」を作らなくても精霊を召喚できるなら、古代エジプトの王宮はなぜ千年アイテムを作ったのでしょうか?

「遊☆戯☆王」という作品は、「千年アイテム」がこの世に作られ、「闇の力」が現世にもたらされたことからすべてが始まっています。ところが、その始まりを否定してしまっているわけです。事実、アニメでは古代エジプトよりも前から「心の闇」が人類を蝕んでいたことになっています。

後にもっと詳しく書きますが、この設定は「千年アイテム」の存在理由だけでなく、アテムが「この星の心の闇」を受け入れるという「ドーマ編」最後の展開の必然性にも影響を及ぼしてしまいます。「精霊」が別世界に存在するという設定は、実はかなりの設定崩壊をもたらしているわけです。

なお、後の「GX」では設定が拡張され、世界とは「一枚のカード」から作られたのだという設定が追加されました。この設定は「ZEXAL」にも受け継がれていますが、これはさらに原作を無視した設定です。

繰り返しますが、「モンスター」とは「カー(魔物)」の生き写しであり、「カー(魔物)」とは人間の「心」から生まれたものですから、「モンスター」も同様です。そして、「カード」とは「モンスター」を封印したものですから、「心」と「モンスター」が先にあって、「カード」は後から成立したものです。

ところが、世界が「一枚のカード」から作られたのなら、人間の「心」から「カー(魔物)」や「モンスター」が生まれる前に、「カード」が存在したことになります。もちろん、その可能性はありますが、その「カード」には「カー(魔物)」や「モンスター」が宿っていないのですから、何の力も持ちません。そんな「カード」が世界を創造するなど、ありえないことです。

もちろん、これをアニメオリジナル設定と割り切ってもよいのですが、「GX」は、「初代遊☆戯☆王」と繋がりがあることがはっきりと描かれています。作中で武藤遊戯やペガサスが登場するのがその証拠です。私は「GX」という作品が好きですが、「初代遊☆戯☆王」と繋がりがあることを明示しているのに、「初代遊☆戯☆王」の設定を破壊するようなオリジナル設定を追加したことは非常にまずかったと考えています。

今回は「遊☆戯☆王」の設定と世界観について説明しました。次回は、「千年アイテム」「冥界の石盤」「冥界の扉」について説明します。

補足: 「遊☆戯☆王」における「光」と「闇」

「遊☆戯☆王」における「光」と「闇」の扱いについて、不思議に思われたことはないでしょうか?

元々『遊☆戯☆王』という漫画は、武藤遊戯に現れた「もう一人の遊戯」が「闇の番人」となり、「闇のゲーム」によって悪を裁く漫画でした。つまり、主人公が「闇」を司るのです。

ところが、「王の記憶」編になると、「王」=「光」、「大邪神ゾーク・ネクロファデス」=「闇」とされ、むしろ主人公が「光」を司る存在となりました。アニメオリジナルの「ドーマ編」でも同様です。

同じような現象が「GX」にも起きました。宇宙とは「命を育む優しい闇の世界」であり、遊城十代とは「正しい闇の力」を持つヒーローでした。ところが、第三・四期になると、「心の闇」や「ダークネス」は「悪」ということになり、それに立ち向かう主人公たちが「光」「善」ということになりました。

一体、「遊☆戯☆王」においては、「光」と「闇」はどのように位置づけられているのでしょうか?

まず、「GX」で登場した「正しい闇」と「破滅の光」は、「心の光」「心の闇」とは意味が違います。宇宙とは「命を育む優しい闇の世界」とあるように、ここでいう「闇」は、物理的な暗闇、つまり宇宙のことです。「破滅の光」も同様で、宇宙を蝕む物理的な光のことで、「心の光」とは無関係です。ですから、「正しい闇」「破滅の光」と「心の光」「心の闇」とは切り離して考えるべきです。

ただし、「闇の番人」「闇のゲーム」や「ダークネス」については、「心の光」「心の闇」と大きく関わりがあります。

「ダークネス」は、宇宙が「一枚のカード」から作られたときに、裏側の闇から生まれた存在だそうです。「大邪神ゾーク・ネクロファデス」や「オレイカルコスの神」と同じく、「心の闇」から生まれた存在だといってよいでしょう。もっとも、宇宙創成時に人類なんかいませんから、どこから「心の闇」が生まれたのか謎ですが……。

次に「闇の番人」「闇のゲーム」。これが「心の闇」とどう関係するのか、作中では明確な描写がありません。ですので、私見を述べるにとどめておきましょう。

前述のように、「光」は「優しさ」「正しさ」、「闇」は「力」に対応します。「闇の番人」とは、「千年アイテム」の「闇の力」を使って「闇のゲーム」を行う人ですから、「闇の番人」とは強大な「力」の持ち主であり、「闇のゲーム」とは強大な「力」の象徴だといえるでしょう。

しかし、強大な「力」を持つということは、強大な「闇」を心に持つということです。強大な「闇」を持つと、それだけ「優しさ」や「正しさ」、つまり「光」を失いがちになります。

ここで、原作初期の話に戻ります。なぜ、「もう一人の遊戯」(アテム)は「光の番人」ではなく「闇の番人」なのか? なぜ彼は「闇」を司っていたのに、「ドーマ編」や「王の記憶編」では「心の光」を支持するようになったのか?

それは、彼が千年パズルを使って「闇のゲーム」を実行できるだけの「心の闇」を持った人間、つまり強大な「力」を持った人間だからです。そして、原作初期は「力」を行使して悪人を裁いていたのが、武藤遊戯との交流を通じて、「力」ではない「強さ」、「優しさ」を知ったからです。

もう少し具体的に述べましょう。

原作を読まれた方はお分かりでしょうが、原作初期のアテムの行動は結構ひどいものです。いくら悪人に罰ゲームを与えるとはいえ、視力を奪ったり、犯罪者を炎で燃やしたり、「炎の迷路」を作ったりと、ほとんど犯罪行為です。作者の高橋氏も気になっていたのか、文庫版で、三千年の中で、ゾークの邪念と融合しかかっていたのだと説明されていました。

しかし、ゾークの邪念とは関係なく、この姿こそが、三千年前のアテムの姿であったのではないかと私は思っています。

三千年前に王であった彼は、権力の絶頂にあり、千年錐まで所有していたことから、絶大な「力」を持っていたはずです。しかし、強すぎる「力」を持つこと、王という地位にあるために「友」がいないことから、「優しさ」や「正しさ」を忘れていた、あるいはそもそも知らなかったのではないでしょうか。「優しさ」を「相棒」から教わったとアテムはいっていましたが、いいかえると、生前は「優しさ」を誰からも教わらなかったということです。

原作初期の残酷なアテムは、「優しさ」も「正しさ」も知らず、ただ「力」で悪人を裁いています。だから彼は「闇の番人」であり、「闇」を司る王なのです。

そんな彼が「心の闇」を批判し、「心の光」を支持するようになったのは、「相棒」である武藤遊戯や仲間たちとの交流を通じて、「優しさ」という強さを知ったからでしょう。また、海馬瀬人などの姿を見て、「力」を振り回すかつての自分を客観的に見つめ、「闇の番人」であった自分を反省するところも多かったのではないでしょうか。

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「遊☆戯☆王」の設定と世界観──「遊☆戯☆王」論その一」への1件のフィードバック

  1. ZEXALの場合はナッシュの行動原理やヌメロン・コードの存在から見てもラスボスのドン・サウザンド含め基本的には運命に縛られた存在なんでしょうね。
    ただ一人の例外がアストラルの片割れでありながら人間世界で生き、全く別の存在となった遊馬。例えば彼はナッシュとの最終決戦では戦わない(正確には答えが出るまで戦い続けるですが)選択をした結果ナッシュに勝ってしまいました。逆に遊馬だけが運命に縛られた存在って見ることもできますけど、遊馬しか選べない選択肢を選んだ結果勝利してしまった展開で遊馬が運命に支配されている存在ととるのはなんか個人的に違う気がしますし。未来皇ホープの存在もありますからね。
    そして最終的に遊馬の影響を受けて運命を変えようという方向になったのがアストラル。(まぁ、遊馬がアストラル世界自体を変えたのである意味必然ですが)
    こちらはホープドラグーンの口上や最後の罠カード「運命の扉」にも表れてると思っています。

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