ニーチェ『ツァラトゥストラ』「老いた女と若い女」を読解する

ニーチェ『ツァラトゥストラ』を読み始めたことを一昨日書きましたが、その中の「老いた女と若い女」という章が非常におもしろいと感じました。

『ツァラトゥストラ』の中では分かりやすい文章ですし、ニーチェの女性観も窺えるおもしろい箇所なので、今回の読解で取り上げます。

基本的には岩波文庫の氷上英廣訳を読みますが、必要に応じてドイツ語原文を参照します。ドイツ語原文は、Also sprach Zarathustraの”Von alten und jungen Weiblein”から閲覧できます。

目次

p.108 11-14行目……物語の導入部

「ツァラトゥストラよ、何だってそんなに人目を避けて、暗がりを忍んで行きなさるのか? そのマントの下に、大事そうに隠しているのは何ですか?

それはあなたに贈られた宝ででもあるのですか? それともあなたが生ませた子どもかしら。
それとも悪人の味方であるあなたが、いまはみずから盗人の道をたどるのですか?」──

いきなり台詞から始まるので困惑されるかもしれませんが、特に前章との繋がりはありません。

「かしら」という語尾から、話者が女だと思いそうですが、そうではありません注1。次の段落で「わが兄弟よ」とツァラトゥストラがいっているので、話者は彼の男弟子だと分かります。「兄弟」とは文字通りの血縁関係の「兄弟」ではなく、考えを同じくする者たち(つまり弟子)を、親愛をこめて「兄弟」と呼んでいるのです注2

本文の解釈に移りましょう。ツァラトゥストラが、「マントの下」に何かを隠して、「人目を避けて」いるようです。「暗がり」という単語ですが、原語(ドイツ語)ではDämmerungで、夕暮れ・黄昏といった意味です。ですので、ツァラトゥストラは黄昏時を孤独に過ごしているらしい。ふだんは弟子に説法しているツァラトゥストラが人を避けるというのは、珍しいことです。

「悪人」という言葉は、ツァラトゥストラが今まで批判してきた「善人」たちの対義語です。これ以前の本文を読むと分かるのですが、ツァラトゥストラは、「善人」たちが守る正義・平等・道徳といった概念をことごとく罵倒し、力強く生きる人間たち(「悪人」)を賛美しています。ですから、この「悪人」というのは、犯罪者というよりは、悪漢・ならず者といった意味ですね。

そんな「悪人」たちの「味方」をしていたツァラトゥストラですが、彼が「人目を避けて」動くのを見て、今度は彼自身が「盗人」となり、「悪人」になろうとしているのか、と弟子が問うているわけです。

p.109 1~3行目 「宝」

たしかに、とツァラトゥストラは答えた。わが兄弟よ! これは私に贈られた宝だ。わたしが抱いているのは、一つの小さな真理なのだ。

これは赤ん坊のように手におえない。その口をおさえていないと、大声でわめきだす始末だ。

マントの下に隠していたのは、ものではなく「真理」であったのです。

ちなみに、この「その口をおさえていないと、大声でわめきだす」という台詞は後の伏線になっていますので、覚えておきましょう。

p.109 4~11行目 「老婆」

実は今日、日の沈むころ、わたしはひとりで道を歩いて行った。すると一人の老婆に出会った。老婆はわたしにこう語りかけた。

「ツァラトゥストラ、あなたはわたしのような女たちにも、いろいろと話してきかせてくれた。だが、女そのものについては、まだ何ひとつ話してくれていない。」

「日の沈むころ」ですから、先の「暗がり」より前の時間帯ですね。先ほどの弟子との会話が現在であり、この「老婆」の台詞は過去の回想というわけです。

そこでわたしは答えて言った。「女については、ただ男にだけ聞かすべきだろう。」

「わたしに、女について聞かせておくれ。」と老婆は言った。「なにしろ年寄りだから、じきに忘れてしまうもの。」

ツァラトゥストラの台詞の真意は不明ですが、女に聞かせたところで何の意味もないのだから、「男にだけ聞かすべき」ということでしょう。

老婆の台詞も意味がとりにくいのですが、どうせ「じきに忘れてしまう」のだから、「女について聞かせて」くれても支障はないだろう、だから「聞かせておくれ」ということでしょうか。

そこで、わたしは老婆の請いに応じて、つぎのようなことを語ったのだ。

ここからツァラトゥストラの女性観が展開されます。いよいよ本題です。

p.109 12~15行目 「妊娠」……一見女性蔑視に見える一節

女は何もかも謎だ。だが女の一切の謎を解く答えはただ一つである。それはすなわち妊娠である。

女にとっては、男は一つの手段である。目的はつねに子供なのだ。だが、男にとっては、女は何であろうか?

いきなり凄い台詞が出てきました。「女」とは「妊娠」であり、その「目的」は「つねに子供」なのだそうです。フェミニストが聞いたら激怒しそうな台詞ですね。

ニーチェの名誉のために補足すると、彼は別に「女は子供を産む機械だ」という意見の持ち主ではありません。ただ、今日の観点からすると、かなり女性蔑視的に見えるのは確かです。

p.109 16行目とp.110 1-13行目

ニーチェの女性観については後述するとして、一旦本文に戻ります。

真の男性は二つのものを求める。危険と遊戯である。だからかれは女性を、もっとも危険な玩具として、求める。

男性は戦いのために教育されなければならない。そして女性は戦士の休養のために教育されなければならない。それ以外の一切は、愚劣である。

前の「戦争と戦土」という章で、最高の敵を持ち、最高の敵と戦うことが己を高めることになると述べられていました。ここの「戦い」という言葉は、それを踏まえたものと思われます。「真の男性」が「危険」を求めるというのが、戦いを求めることに繋がってきます。

男性にとっては「戦い」が「己を高めること」なのですが、女性にとっては「戦士の休養」こそが「己を高める」ことに該当するといっています。

なお、「遊戯」という言葉の意味は、この後で詳しく説明されます。

あまりにも甘い果実──それは戦士の口にあわない。だから戦士は女性を好むのだ。どんなに甘い女性でも、やはり苦いものだ。

「甘い」ことが「戦士の休養」になるのですが、「あまりにも甘い」ものは「口にあわない」。だから、甘さの中に「苦い」ものが混じっている女性がふさわしいというわけです。

この「苦い」という単語については、後の「子どもと結婚」という章を参考にすると分かりやすいでしょう。

いつかはあなたがたはあなたがたを超えて愛さなければならない! だから、まず愛することを学びなさい! そのためにこそ、あなたがたはあなたがたの愛の苦い杯を飲まなければならないのだ。

最上の愛の杯のなかにも、苦いものはある。だからこそ、それは超人へのあこがれを生みだすのだ。だからこそそれは、創造者であるあなたに渇きを与えるのだ。

「苦」みがあるからこそ「渇き」が生まれ、「超人へのあこがれを生みだす」といっています。だからこそ、「女性」でなくてはならないのだと。

この箇所は、ニーチェ自身の性的嗜好と関わりがあるのではないかと私は思っており、非常に重要な箇所です(詳しくは後述)。

女性は男性よりも、子供たちをより良く理解する。ところが、男性は女性よりも、子供に近くできている。

この「子供」とは、「三段の変化」という章で登場した「幼な子」を指すと思われます。日本語訳では訳し分けられていますが、ドイツ語ではどちらも「Kind」です。

「三段の変化」について大まかに要約しておきます。ツァラトゥストラは、人間には「駱駝の精神」「獅子の精神」「幼な子の精神」の三つの「精神」があり、「駱駝」→「獅子」→「幼な子」の段階で発展すると述べます。

駱駝
既存の価値を背負う者
獅子
既存の価値を破壊し、新たな価値の創造の自由を獲得する者
幼な子
新たな価値を創造する者

「駱駝」は、既存の価値を背負うだけであり、ほとんどの人間がこれです。

しかし、「駱駝」の中から、既存の価値に異を唱え、それを破壊する「獅子」が現れます。「獅子」は、既存の価値に縛られず、新たな価値を創造する「自由」を手に入れます。

しかし、「獅子」の段階では、まだ新たな価値を創造することができません。あくまで、自由を獲得しただけです。そこから、さらに「幼な子」に発展しなくてはなりません。

幼な子は無垢である。忘却である。そしてひとつの新しいはじまりである。ひとつの遊戯である。ひとつの自力で回転する車輪。ひとつの第一運動。ひとつの聖なる肯定である。

幼な子とは、新たな創造の象徴であるわけです。なお、先ほど出てきた「遊戯」という言葉が、ここで先取りされています。

ちなみに、男性と子供の関係性について、ニーチェは『善悪の彼岸』にてこんなことをいっています。

男の成熟、それは子供の頃に遊びのうちで示した真剣さを取り戻したということだ。

ここで「老いた女と若い女」に戻りましょう。

女性は男性よりも、子供たちをより良く理解する。ところが、男性は女性よりも、子供に近くできている。

この「子供」が、「幼な子」を意味することはいうまでもありません。男性のほうが「子供に近」いというのは、男性のほうがより「戦士」、「創造者」に近いからでしょう。

では、女性が「子供たちをより良く理解する」とはどういうことか。これは、「子供」を産み育てるのは女性なのだから、女性のほうが母として子供を深く「理解する」ということでしょう。

真の男性ならば、かれのなかには子供が隠れている。それは遊戯をしたがる。さあ、女性よ、男性のなかの子供を発見してごらん!

「遊戯」という言葉が、ここでも出てきました。「真の男性」は、「駱駝」や「獅子」を通り越して「子供」となり、「遊戯」をするのですから、「かれのなかには子供が隠れている」のは当然です。そして、それを「発見」するのは女性だといっています。

あなたがた女性の愛情のなかに、ひとつの星の光がかがやくように! あなたがた女性の希望は「わたしは超人を生みたい」ということでありなさい!

この「超人を生みたい」という言葉は、男性の中に「超人」を見出すという意味もあるでしょうが、男性との間に子供を設け、それが「超人」となるように育て上げる、というニュアンスのほうが強いと思われます。この後の章「子どもと結婚」では、両親の「結婚」が、子供を「超人」たらしめるものでなくてはならないと述べられます。

p.110 14-16行目とp.111 1-15行目

あなたがたの愛情のなかに、勇敢さがあるように! あなたがたはそうした愛情によって、あなたがたに畏怖を与える男性にむかって、踊りかかりなさい!

「勇敢さ」という言葉からも分かるように、ニーチェの考える理想の女性像は、かわいらしくニコニコしている女の子というよりも、男性に劣らない女傑のような女性です。これも後述しますが、ニーチェの周囲にはこういう女傑ばかりが揃っていました。

女性が愛するとなったら、男性はこれを恐れなければならない。愛しだしたら、女性はあらゆる犠牲をささげる。そのほか一切のことにはなんの価値もおかない。

女性が憎みだしたら、男性はこれを恐れなければならない。なぜなら、魂の深部で、男性はせいぜい悪であるにすぎないが、女性は劣悪であるから。

「そのほか一切のことにはなんの価値もおかない」「女性は劣悪」という女性蔑視の言葉もおもしろいのですが、それよりも女性から愛されることも憎まれることも「恐れなければならない」というのがおもしろい。

ちなみに、「男性はせいぜい悪」というのは、前述の「悪人」のことでしょう。男性は「悪人」といってもせいぜい悪漢レベルですが、女性は「劣悪」のレベルにまで到達してしまう。ニーチェは、『この人を見よ』の「なぜわたしはこんなによい本を書くのか」にて、「女は男よりはるかに邪悪であり、またはるかに利口だ」などと書いていますが、女というものをよほど極悪な存在と思っていたようです。

女性に最も憎まれる者は誰だろうか?──鉄が磁石にこう言った。「わたしはあなたがいちばん憎らしい。あなたはわたしを引くが、引きよせてしまうほど十分強くないから」と。

「鉄」が女性、「磁石」が男を意味することは分かるでしょう。しかし、なぜそれによって「最も憎まれる」のか? 前述の「愛しだしたら、女性はあらゆる犠牲をささげる。そのほか一切のことにはなんの価値もおかない」とあわせて考えると分かるでしょう。

女性が「あらゆる犠牲をささげる」ということは、女性を「引きよせてしまう」ほどに男性が強いということです。しかし、男性が「十分強くない」場合、女性は「そのほか一切のことにはなんの価値もおかない」ほど夢中にはなれない。しかし、全く無関心にはなれないほどには「強い」。こうした中途半端な状態は、女性にとって実にイライラするということでしょう。中途半端に「強い」男性も憎ければ、そんな男性に惹かれる自分も憎いのです。

男性の幸福は「われは欲する」である。女性の幸福は「かれが欲する」である。

「さあ、いまこそ世界は完全になった!」──愛のすべてをささげて服従するとき、女性はみなこう考える。

説明の必要もないほど分かりやすい文章ですね。男性は自分が「幸福」であることが「幸福」なのに対し、女性は愛する男性の「幸福」こそが「幸福」だということです。

なお、この「われは欲する」ですが、「三段の変化」に同じセリフが出てきます。「精神」の二段階目である「獅子」が、既存の価値に戦いを挑むとき、「われは欲す」という台詞を吐くのです。ドイツ語の原文では、どちらも「Ich wil」です。

この二つを結びつけて考えるのもおもしろそうですが、私はあまり関係ないと思います。ここの「われは欲する」は、あくまで「彼が欲する」と対比的に用いられたもので、「獅子」のことではないでしょう。

女性は服従することによって、みずからの表面に対する深みを見いださなければならない。女性の心情は表面である。浅い湖沼の波たち騒ぐ皮膚である。

だが男性の心情は深い。かれの奔流は地下の洞穴のなかで、音たてて鳴る。女性は男性の力をおぼろに感じる。しかし理解することはできない。──

比喩が連続するニーチェ独特の文章です。何となく理解はできるでしょうが、正確に理解するのはなかなか大変です。

男性 女性
深い 浅い
奔流
地下の洞穴 湖沼(皮膚)

「浅い湖沼」があって、厚い地面を挟んで、「地下」に水の流れる「洞穴」がある情景を考えれば分かりやすいでしょうか。

「湖沼」の水面にも「波」はたちますが、波に勢いがないので、「地下の洞穴」に到達することはありません。つまり、女性は自分自身では「深み」に達することができない。

一方、男性は「地下の洞穴」、つまり「深み」にいます。ここで流れる奔流の音は勢いがあるので、地上にある「湖沼」にまで響くでしょう。そのとき、女性は男性の「音」を聞き、「男性の力をおぼろに感じる」。しかし、奔流が具体的にどうなっているのかは見えませんから、「理解することはできない」。

なお、文章には書かれていませんが、逆に「男性が女性の力を理解することはできない」という含意もあると思います。というのも、「湖沼」からは「地下の洞穴」が見えないのと同様に、「地下の洞穴」からも「湖沼」は見えないからです。だから、ツァラトゥストラ(つまり男性)にとって、「女は何もかも謎」なのです。

p.111 16行目とp.112 1-12行目 「鞭」……老婆が語る女性観

ここまでがツァラトゥストラの言葉です。これを聞いて、老婆がこんなことをいいます。

わたしの言うのを聞いて、老婆はそれに答えて言った。「ツァラトゥストラはずいぶん女の肩を持ってくれたものだ。ことに若い女の子に聞かせたら、ほんとうに嬉しがるだろうよ。」

何と、老婆はツァラトゥストラの発言を、女性を持ち上げるものとして聴いていたのです。

ツァラトゥストラはあまり女を知っていないのに、しかも女について正しいことを言うのは、不思議なようだ! もっとも、女はどうにでもなれる、というから、見当違いがおこるはずもないけど。

「あまり女を知っていないのに、しかも女について正しいことを言う」「女はどうにでもなれる」など、意味深な文言が並ぶ箇所です。このあたりの老婆の発言はおもしろいものが多いので、後で詳しく書きましょう。

さて、お礼に、一つの小さな真理をさしあげよう! これもわたしの年の功というものだろうね!

よくむつきにくるんで、その口をおさえなさいよ。さもないと、大声でわめくよ。この小さな真理は。

これが、冒頭でツァラトゥストラが抱いていた「一つの小さな真理」です。「その口をおさえていないと、大声でわめきだす始末だ」といっていましたが、老婆のこの台詞に由来していたのです。

「老婆よ、あなたの小さな真理を頂戴しよう!」と、わたしは言った。すると老婆はこう言った。

「女のところへ行くなら、鞭を忘れなさるな!」──

ツァラトゥストラはこう言った。

これで終わりです。この章は、ツァラトゥストラ以外の人の台詞で締め括られる珍しい章です。

この「女のところへ行くなら、鞭を忘れなさるな!」という台詞は、ニーチェの女性蔑視を表す台詞として知られていますが、実はツァラトゥストラではなく老婆の台詞であったのです。

ニーチェは男尊女卑ではなく、「大地の意義」に則った男女の役割を説いた

ここまでは文章を一つずつ読んできました。

まず、全体的に男尊女卑的という印象を持たれたのではないでしょうか。そして、そういう感が否めないのは事実です。

ただ、意味もなくニーチェがそんなことをいっているわけではない、ということが大事です。例えば、「子どもと結婚」という章の以下の文章をお読みください。

ひとつのより高い身体を、あなたは創造すべきである。第一運動を、自力で回転する車輪を。──創造者をこそ、あなたは創造しなければならない。

結婚、とわたしが呼ぶのは、当の創造者よりもさらにまさる一つのものを創造しようとする二人がかりの意志である。そのような意志を意志するものとして、相互に抱く畏敬の念を、わたしは結婚と呼ぶのだ。

ニーチェが、女性を男性よりも絶対的に劣った存在として見ているわけではない、ということがお分かりになるでしょうか。そのように考えているなら、「二人がかりの意志」などというものを唱えるはずがないのです。

そもそもニーチェの根本思想は、人間とは常に自己を高めて(「克服」して)ゆくものでなくてはならない、「創造者」でなくてはならない、ということです。そして、結婚や出産さえも、自己や人間を高めるものでなくてはならない、といっているのです。そして、女にとっての「創造」とは「妊娠」なのだと。

しかし、人によってはこう思われるかもしれない。女が「妊娠」以外に「創造」の方法がないというのは、女に対するジェンダーではないか、他にも「創造」の方法があるのではないか、と。

こういった反論はもっともです。しかし、こうした発想は「男女は平等であり、ジェンダーなどは極力撤廃すべきだ」という男女平等思想を前提にしています。そして、ニーチェはこの思想を全面否定しているのです。

「毒ぐもタランテラ」という章を読めば分かりますが、ニーチェは人間は「平等」では全くないと宣言しています。個々の人間には「大地の意義」であるための役割があるのであり、男女の役割も、その一部なのです。

前にも引用した『この人を見よ』の「なぜわたしはこんなによい本を書くのか」の別の箇所では、ニーチェはこんなことを書いています。

「女性解放」──それは、一人前になれなかった女、すなわち出産の力を失った女が、できのよい女にたいしていだく本能的憎悪だ──

なぜ「妊娠」こそが女性にとっての「創造」なのか。それは、「妊娠」は女性にしかできないからであり、それが「大地の意義」に則った「女性の役割」だからです。その役割に反して、男女「平等」を主張することこそ、ニーチェにとっては人間蔑視なのです。

老婆の語る言葉の謎と、ニーチェの女性観

次に、内容の疑問点を挙げてみましょう。といっても、ツァラトゥストラの意見自体はそこまで難しくないはずです。

この章で最も難しいのは、恐らく老婆の発言ではないでしょうか。

「ツァラトゥストラはずいぶん女の肩を持ってくれたものだ。ことに若い女の子に聞かせたら、ほんとうに嬉しがるだろうよ。」

ツァラトゥストラはあまり女を知っていないのに、しかも女について正しいことを言うのは、不思議なようだ! もっとも、女はどうにでもなれる、というから、見当違いがおこるはずもないけど。

「老婆よ、あなたの小さな真理を頂戴しよう!」と、わたしは言った。すると老婆はこう言った。

「女のところへ行くなら、鞭を忘れなさるな!」──

老婆の発言を並べてみましたが、非常に意味深な発言ばかりです。

特におもしろいのは、ツァラトゥストラが「あなたの小さな真理を頂戴しよう!」と、老婆の発言を受け入れ、その「小さな真理」を大事に持っているところ。ふだんはあれだけ「善人」どもをボロクソに罵倒するツァラトゥストラが、なぜこんなに素直なのでしょうか。

以下、私の解釈を述べます。

まず、老婆の位置づけから。ツァラトゥストラが素直に「真理」を受け取っていることから考えても、ニーチェは、老婆を優れた人間として描いているおのと思われます。今まで罵倒してきた「凡人」や「善人」とはレベルの違う人間です。このことを踏まえた上で、発言をそれぞれ解釈してみましょう。

初めに「ツァラトゥストラはずいぶん女の肩を持ってくれたものだ」。この箇所の原文は、「Vieles Artige sagte Zarathustra」となっています。直訳すると、「多くの大人しいことをツァラトゥストラはいった」となります。「女のことをもっとボロクソにいってもよかったのに、意外と大人しい言葉に終わったな」という感じでしょうか。そして、この発言は次の「ツァラトゥストラはあまり女を知っていない」に繋がっているのです。

ツァラトゥストラは、男尊女卑なことをいっているように見えて、男性が「創造者」であるためには女性が不可欠であること、つまり女性の重要性を説いています。そのことを、「女の肩を持ってくれた」といっているのでしょう。しかし、その発言は「女を知」らないことに由来する。あなた(ツァラトゥストラ)は女をずいぶん褒めているが、女はそんなに立派なものではないよ、という感じでしょうか。

「若い女の子に聞かせたら、ほんとうに嬉しがるだろうよ」というのは、「若い女の子」はバカで騙されやすいから、ツァラトゥストラの褒め言葉にもつい乗ってしまう、ということでしょう。老婆はときどき「年の功」といって自分の年齢を強調していますが、これは、自分は褒め言葉に乗せられるほど、もう若くはないという自負と自虐に思われます。

「女はどうにでもなれる」というのは、色々と解釈のできる文言です。原文は、「beim Weibe kein Ding unmöglich ist」です。直訳すると、「女においては、物事が不可能ということはありえない」という意味ですね。

色々解釈の余地はありますが、私の解釈は、女は男の前では何にでもなれるというものです。男の都合のよいように嘘もつけるし、男が喜ぶように化粧もできる、男のために罪も犯せる。そんな存在だといっているのではないでしょうか。

最後に「女のところへ行くなら、鞭を忘れなさるな!」。前述の通り、ニーチェの女性蔑視を表す発言として有名ですが、果たしてそうなのでしょうか。確かに、ニーチェは女性蔑視的なところが多いのですが、この文言は女性蔑視というより、女性恐怖を表しているように見えます。

ニーチェの生きた19世紀末はどうであったかは知りませんが、現代の常識で考えると、「鞭」というのは、主に動物を躾けるときに使うことが多いでしょう(SMプレイで使うカップルもいるかもしれませんが)。特に、ライオンや虎や像など、人間ではまず歯が立たない動物を躾けるときに使います。

ここで、本文に戻りましょう。「鞭を忘れなさるな!」という言葉は、男が鞭を持って、女を躾けろといっているのでしょう。それは、女が(男にとって)ライオンや像と同じく恐ろしい動物だからであり、鞭なしの丸腰では対抗できないからです。つまり、確かに女性蔑視なのですが、人間がライオンと相対するときに似た恐怖を抱いているものと思われます。

追記: 「男が鞭を持って」と書きましたが、そうではなく、女が男を鞭打つのだという解釈もできるかもしれません。この文言では、誰が「鞭」を使うのかは明記されていないからです。『ツァラトゥストラ』本文とは逸れますが、ニーチェがルー・ザロメという女性と撮影した写真(ザロメが鞭を持っている)とあわせて考えると、ニーチェのマゾヒズムを表現したものととれるかもしれないのです。

追記: 記事内では考察しきれなかったのですが、ここの「女」は、今までの「女」とは意味が違うかもしれません。「女のところへ行くなら、鞭を忘れなさるな!」は、原文では「Du gehst zu Frauen? Vergiss die Peitsche nicht!」になっているのですが、今までの「女性」が「Weiber」「Weiblein」であったのに対し、ここだけは「Frauen」だからです。

「Frau」「Weib」は、現代ドイツ語ではほぼ同義です。しかし、塩谷饒「Weib と Frau」によると、ルターが訳したドイツ語の『新訳聖書』では、この二つの単語は使い分けられているそうです。『ツァラトゥストラ』が『新訳聖書』から多くの表現を借用していることを考えると、この箇所だけ「Frauen」が使われているのは、意外と重要なことに思えます。

さて、ここまで老婆の文言を解釈してきました。これが、本当の女性の文言であれば、これで終わりです。

しかし、ここにはねじれた構造があります。というのは、この老婆を書いている当のニーチェは男性であるということ。つまり、この老婆は「男性(ニーチェ)から見た女性像」であって、本当の女性像とは限らない、むしろそうでない可能性が高いのです。

そう考えると、今までの印象が一変しないでしょうか。先の「老婆」の発言が、本当の女性の発言であれば、男性は「やはり女性は怖いなあ」と思うかもしれない。しかし、この台詞を男性のニーチェがいわせたのだと考えると、むしろ「ツァラトゥストラに女性賛美をさせておいて、老婆に否定させるなんて、ニーチェの女性観は捻くれている」と思わないでしょうか。

こうした女性観を、ニーチェの女性遍歴と突きあわせて考えるとおもしろいのです。以下、それを述べてゆきます。

周囲の女性から読み解くニーチェの女性観

まず、客観的事実として、ニーチェは生涯婚約・結婚しませんでした。子供も遺していません。

哲学者であれば、女性に対して孤高の立場を貫くこともあります。しかし、ニーチェの場合、女性から距離をとっていたというより、女性にもてなかったのが実情のようです。

彼はルー・ザロメという当代きっての女傑に恋し、彼女にプロポーズしたこともあったようですが、残念ながら振られたようです。これ以外を見ても、ニーチェが誰か女性をつきあった痕跡はなく、童貞であったのではないかという説もあります(娼婦を買っていたという説もあるので、素人童貞?)。

また、ニーチェの家族関係も重要です。ニーチェは早くに父親を亡くし、女だらけの家庭で育ちました。母フランツィスカは優しい慈母であったようですが、妹のエリーザベトが反ユダヤ主義を唱えたりと、なかなか過激な女であったようです(ニーチェはむしろユダヤ人擁護であり、エリーザベトの考えとは真っ向から対立します)。

途中で、ニーチェの周りには女傑だらけであったと述べましたが、こんな環境で生きていたら、ニーチェが女嫌い(ミソジニー)になるのは当然ともいえます。そう考えると、前述の老婆の発言や、『ツァラトゥストラ』にある男尊女卑的主張も頷けるのではないでしょうか。

ただ、興味深いことが一つあります。そんなニーチェですが、なぜか恋愛については異性愛を前提にしているのです。「老いた女と若い女」でも、後の「子どもと結婚」でも、男同士の同性愛などは俎上にあげず、男女の恋愛・結婚だけに焦点を当てています。これはなぜでしょうか。

この疑問に対し、私なりの回答を述べます。ニーチェは、女嫌いからゲイになったが、ゲイであることを自己嫌悪していたのではないかという意見です。

私は未読ですが、ヨアヒム ケーラー『ニーチェ伝』という本があります。この本によると、ニーチェは潜在的な同性愛者(ゲイ)であり、それが彼の女性軽視に繋がるというのです。私は逆だと思いますが(女嫌いからゲイになった)、もしニーチェがゲイであったとすると、なぜニーチェが異性愛を奨励するのか、上手く説明がつくのです。

第一に、女を嫌いつつも、女にもてたいという欲望があったのではないかということ。ザロメとの恋愛などから分かるように、ニーチェは生粋のゲイではありません。もしかするとバイセクシャルかもしれませんが、恐らく異性愛に近かったと思います。ところが、女性にもてないあまり、女嫌いになり、そこからゲイになったと考えてみましょう。

彼はゲイになりつつも、女から逃げてゲイになった自分に自己嫌悪を持っていたに違いない。『ツァラトゥストラ』で、あれだけルサンチマンを罵倒していたニーチェなら猶更です。

そしてもう一つの理由は、男同士のカップルでは子供を作れないこと。もちろん、養子縁組などは可能ですが、彼らの遺伝子を受け継いだ子供を作ることができない。これは、男女のカップルとの決定的な違いです。

「子どもと結婚」において、ニーチェが執拗に子供に拘るのは、男同士では子供ができないという妬みにあったのではと思います。それも、自分の生まれつきの運命としてゲイになったならまだしも、女嫌いからゲイになったというなら、猶更子供を作れないことの辛さがあったでしょう。

この二つの事情から、ニーチェは『ツァラトゥストラ』において、異性愛と出産の奨励と、同性愛の(無意識的な?)排除を唱えたのではないでしょうか。

注釈

  • ドイツ語原文を見ても、話者が女であることを示唆する単語はないので、なぜ「かしら」と訳したのかは分かりません。もしかすると、この「かしら」は女言葉ではないのかもしれません。この『ツァラトゥストラ』の氷上訳は1960年代の訳なので、当時「かしら」が男言葉として使われていた可能性はあります。 本文に戻る
  • 「マルコによる福音書」3章や「マタイによる福音書」12章では、イエスが同様の意味で「兄弟」という言葉を使っています。ツァラトゥストラの「兄弟」は、これを踏まえて同じ言葉を使っているのです。詳しくはイエス様の家族などをご覧ください。 本文に戻る
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