ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』命題1~2.225に関する疑問

一昨日昨日でウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』の命題1~2.225を読解しました。今回は、読解のときに積み残していた疑問や問題について書いてみます。

目次

『論理哲学論考』命題2.01……「対象」とは何か

『論理哲学論考』を読み始めた人の多くは、「『対象』とは具体的に何なのか?」という疑問を抱くのではないでしょうか。『論理哲学論考』冒頭では、「世界」が「事実」→「事態」→「対象」と「分解」されてゆくわけですが、では「対象」とは何なのかというと、「もの」という定義しか与えられないからです。

2.01 事態とは諸対象(もの)の結合である。

これが「対象」に関する数少ない説明ですが、では「もの」とは何なのかという疑問が出てきます。これについての説明はありません。

『論理哲学論考』では「対象」の具体的事例が一つも挙げられていないことも、「対象」とは何なのかを理解する難しさに繋がっています。

「対象」については命題2.02~2.0201で説明しましたが、あのときは説明を端折りすぎたので、もう少し丁寧に書きます。

2.02 対象は単純である。

まず、ここでいわれる「単純」を、物理的な「単純」と誤解してはならないということが重要です。

例えば、「人間」という「対象」は、皮膚・水分・髪etc.と無数の「対象」に「分解」できます。さらに、それらの「対象」を「分解」してゆけば細胞やDNAに、最終的に最小の物体(「原子」や「モナド」)に辿り着く。つまり、「人間」や「皮膚」といった「対象」も、さらに小さな「対象」に分割できるのだから、「単純」とはいえないのではないか、ということです。

このように、「単純」を物理的「単純」と捉えてしまうと、「原子」や「モナド」以外のすべてのものは「対象」でなくなってしまいます。このことについて、野矢茂樹『「論理哲学論考」を読む』p.142でも詳しい説明がされているので、興味のある方はご覧ください。

物理的「単純」ではないと分かったところで、では「単純」とはどういう意味なのか。命題2.02~2.0201の解説でも言及しましたが、それ以上他の「対象」や「命題」に分解しえないような「もの」が「対象」だといえます。

前にも用いた例ですが、「赤い服を着た年老いた犬」というのは、

  • 犬は年老いている。
  • 犬は服を着ている。
  • 服は赤い。

と「分解」できるので、「複合」です。

一方、「犬」はこれ以上分解できないので、「対象」だといえます。

と、ここで話が終われば簡単なのですが、実はまだ疑問が残ります。ここからが厄介です

「犬」だと分かりづらいので、別の例を用いましょう。『「論理哲学論考」を読む』で使われている二つの例を挙げます。

  • 「カオルは少年だ」
  • 「カオルは子供だ」

この二つの命題は、一見これ以上「分解」できないように見えます。しかし、よく考えると、「少年」「子供」という単語に「分解」の余地があり、つまり「単純」でない可能性があるのです。

「少年」という単語ですが、これを「男の子供」という意味と捉えると、「男」「子供」の二つに「分解」できるので、「少年」は「複合」になります

一方、「子供」という単語を「少年または少女」と捉えると、「少年」「少女」の二つに分解できるので、「子供」は「複合」です。

「子供」と「少年」、どちらが「単純」なのか? あるいは、どちらも「複合」なのか? これについての答えは出せません。

『論理哲学論考』で「対象」の事例が挙がっていないのは、こうした事情があるからです。つまり、それ以上「分解」できないと思われる単語であっても、それ以上「分解」できる可能性があることと、どの単語が最初に「単純」な「対象」として存在しており、どの単語が「対象」の「複合」なのかが確定できない場合があることです。こうした事情を鑑みて、ウィトゲンシュタインは「対象」の分析を放棄してしまったようです。

なお、野矢氏は『「論理哲学論考」を読む』にて、こんなことを書かれています(p.142)。

ウィトゲンシュタインに反していささかノー天気に言い放ってしまうならば、少なくとも日常言語における固有名は基本的に単純な対象を表した名なのではないだろうか。「ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン」という名はルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインという対象を表す。

野矢氏は詳述されていませんが、真意は恐らくこういうことでしょう。上記のように、「少年」や「子供」といった普通名詞は、それ以上「分解」できる可能性がある。一方、「ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン」といった「固有名詞」であれば、これ以上「分解」の余地がないので、「対象」となりうるのではないかと。

しかし、本当に固有名詞は「分解」できないのでしょうか。

例えば、さっきから挙がっている「ウィトゲンシュタイン」という名前ですが、これが「ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン」を表すことは明らかでしょう。しかし、現実には「ウィトゲンシュタイン」という姓を持つ人はたくさんいるはずです。

  • ウィトゲンシュタインは『論理哲学論考』を書いた。

という文章は一見「分解」できないように見えますが、「ウィトゲンシュタイン」とは、「姓がウィトゲンシュタインであり、かつ名前がルートヴィヒであるような人」なのですから、実は「ウィトゲンシュタイン」「ルートヴィヒ」の「複合」になるのではないか? 「対象」とは呼べないのではないか? というのが私の疑問です。

このように考えると、固有名詞ですら「対象」と呼べるのか怪しくなってきます。

私見ですが、それ以上「分解」の余地がない「対象」というのは、「もの」ではなく「性質」だと思います。例えば、「青い」「柔らかい」といった形容詞句です。ただ、『論理哲学論考』では、「対象」と「もの」と定義しているので、「性質」を「対象」に含めてもよいのかという問題が発生します。

この「対象」の問題は多くの専門家を悩ませており、私もまだ回答を出せておりませんので、後は皆様で考えてみてください。

『論理哲学論考』命題2.02~2.025……「実体」とは何か

命題2.021~2.0212でも述べましたが、「実体」というのはよく分からない概念です。

  • 対象から作られるもの
  • 命題がそれ自体で意味を持つならば、存在しなくてはならないようなもの
  • 形式のみを規定しうるもの
  • 何が事実として存在しているかとは独立に存在するもの
  • 形式と内容からなるもの
  • 対象が存在するときにのみ、不変の形式を持つもの

これが「実体」の説明ですが、これを見てもよく分かりません。結局、「実体」とは何なのか。

命題2.021を見ると、そのヒントが掴めます。

2.021 対象が世界の実体を形づくる。それゆえ対象は合成されたものではありえない。

「合成されたものではありえない」というのは、「複合」ではないということですから、「単純」だということです。「対象」は「単純」なものですから、当然の話ですね。

そう考えると、「対象が世界の実体を形づくる→対象は単純である」と分析できるわけですが、この「→」(「それゆえ」)は不自然ではないでしょうか。というのも、この「それゆえ」が成立するためには、「世界の実体を形づくるものは、単純である」という前提が必要だからです。

  • 対象は、世界の実体を形づくる。
  • 世界の実体を形づくるものは、単純である。
  • 対象は、単純である。

命題2.021は、この三段論法の真ん中の前提が抜けているのです。一体、どこからこの前提が出てきたのでしょうか。

ここからは、あまり根拠のない私見です。

「世界の実体を形づくるものは、単純である」という前提を導くためには、二つの考え方があると思います。もう一つは、「実体」を「対象」の「複合」と考えること。

一つは、「実体」を「単純」なものと考えること。つまり、「形づくる」という言葉を「複合」と捉えず、「実体」という「単純」なものを構成するのは「単純」な「対象」に他ならないと考えることです。ただ、こう考えると、「形づくる」「構成する」とはどういうことなのかが説明できなくなります。

もう一つは、「実体」を「対象」の「複合」と考えること。「形づくる」を「複合」と捉えるわけです。私は、こう考えたほうがすっきりするように思います。

「実体」を「対象の複合」と考えた上で、上記の「実体」の説明を見直してみましょう。

対象から作られるもの
「対象」の「複合」なので当然
命題がそれ自体で意味を持つならば、存在しなくてはならないようなもの
「対象」が存在しなくては命題を構成できないので、命題の意味が確定しない(「実体」も同様)
形式のみを規定しうるもの
「内容」は「対象」自体ではなく「対象の配列」によって決定される(「実体」も同様)
何が事実として存在しているかとは独立に存在するもの
「対象」は「不変」なので、「実体」も「不変」(下記の命題2.027で詳述)
形式と内容からなるもの
「対象」は指示するものと「論理形式」からなる(「実体」も同様)
対象が存在するときにのみ、不変の形式を持つもの
「対象」が存在しないと「実体」は「論理形式」を持てない

「実体」と「対象」がかなり似通ったものであると考えると、かなり納得がゆくように思うのです。

すると、別の疑問にぶちあたります。「実体」が「対象」と似通った概念ならば、なぜ「対象」という概念を使わず、「実体」という概念を使うのか? 「世界の対象」ではなく「世界の実体」と書いた意図は何か?

再び私見です。

第一に、「世界の対象」と書くと、「世界」に存在する「諸対象」と捉えられてしまうと考えたので、「実体」という概念にしたということ。

第二に、そもそも「対象」というものは、「事実」、もっといえば「世界」を「分解」して導かれたものです。ですから、「世界」を「対象」と呼んでしまうと、「世界」という「対象」を導くような「事実」が存在しなくてはなりません。

しかし、世界というものは「事実」の「総体」ですから、「世界」を包括するような「事実」は存在しえない。だから、「対象」の「複合」ではあっても、そこから「事実」を構成することはできない、という意味で、「実体」という言葉に変えたのではないかと思われます。

『論理哲学論考』命題2.027……「対象」は「不変」といえるか

不変なもの、存在し続けるもの、対象、これらは同一である。

命題2.026~2.0271のときにも触れましたが、これはかなり分かりにくい文言だと思います。というのも、「対象」というと、どうしても目の前やどこかにある物質的なものをイメージしてしまうからです。それが「存在し続ける」なんておかしいではないかと。

この文言を理解するためには、「もの」という言葉に囚われることをやめなくてはなりません。『論理哲学論考』でいわれる「対象」とは、個別的な物質のことではなく、我々が何かを認識するときの「観念」や「普遍」のようなものです。

例えば、「赤」を例に考えてみましょう。世の中には色々な「赤」がありますが、よく見ると、どれも違うものです。ポストの「赤」、トマトの「赤」、血の「赤」……同じ「赤」は一つとしてないでしょう。にも関わらず、我々がそれを「赤」という同じ単語で認識しているのは、いずれも違うそれぞれのものに対し、「赤」という観念を介在して認識しているからです。

大まかな説明ですが、「対象」というのは、この「赤」に近いものです。たとえポストやトマトが消滅しようと、「赤」という観念は「不変」です(「赤」という性質を「対象」なものとして扱ってよいのかという疑問は残りますが)。

しかし、それでも「不変」「存在し続ける」という言葉には違和感が残ります。というのも、「赤」というのはあくまで言葉を介在した観念ですから、人類が言葉を持つ以前には「存在」しなかったと思われる(言語を持たない原始人類がどうであったのかは分かりませんが)。にも関わらず、「存在し続ける」といえるのか。

また、「赤」の観念の捉え方は民族や言語によっても大きく違います。中には、「赤」という観念を持たない民族もいるかもしれない(虹の色を二色と認識する民族もいるそうです)。そうした民族が、日本語や欧米の言語を学んで、「赤」という観念を塗り替えることもあるかもしれない。そんなとき、「赤」という観念が「不変」だと果たしていえるのか。

これについて、考え方は二つあると思います。

一つは、「対象」をプラトンにおける「イデア」のようなものと捉えること。このように捉えたのが、米澤克夫「ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』の存在論と「永遠性」の概念」(p.169)です。

もう一つは、「不変」という言葉の捉え方を変えてしまうこと。つまり、これはウィトゲンシュタインが紛らわしい書き方をしただけで、「永遠不変」ということではない。もちろん、他の言語を学んで観念が変わることはありうるが、変わるまでの間、さしあたっては「不変」といえるだろうという捉え方。

後者は私の考えなのですが、本当にこれが正しいといえるのかは確信を持っていません。まだ考え中です。

『論理哲学論考』命題2.061~2.062……「事態」は「独立」といえるか

1.21 他のすべてのことの成立・不成立を変えることなく、あることが成立していることも、成立していないことも、ありうる。

2.061 事態は互いに独立である。

『論理哲学論考』において一番問題といえる箇所です。果たして、「事態」は「独立」といえるのか。

まず、「独立」とはどういう意味なのでしょうか。

4.21 もっとも単純な命題、すなわち要素命題は、一つの事態の成立を主張する。

4.211 要素命題の特徴は、いかなる要素命題もそれと両立不可能ではないことにある。

4.22 要素命題は名からなる。それは名の連関、名の連鎖である。

5.134 ある要素命題から他の要素命題が導出されることはない。

まず、「要素命題」とは、「単純」な「対象」だけから成立し、それ以上「分解」できない命題のことです。そして、「事態」の「独立」とは、「要素命題」同士では真偽は独立しており、「要素命題」Aが真だから「要素命題」Bは必然的に偽となる、といったことは起こらない、ということです。

まず、これが「要素命題」の話であって、「複合命題」は含んでいない、ということが重要です。というのも、「複合命題」であれば、何かの成立・不成立を変えれば、それを原因としていた「事態」の成立・不成立に影響を及ぼしますから、互いに「独立」であることなどありえません。

それを踏まえた上で、「要素命題」は「独立」であるといえるか。

結論からいってしまうと、これは「独立」とはいえません。事実、後のウィトゲンシュタインはそのことを認め、「要素命題」の独立という考えを放棄してしまいました。

例えば、次のような「要素命題」を考えます。

  • 犬は黒い。
  • 犬は赤い。

「犬」「黒い」「赤い」を「対象」と考えるとすると、この命題はこれ以上「分解」できないので、「要素命題」です。さて、この二つは「独立」といえるでしょうか。

仮に、両方の命題が真だとすると、「犬」は「黒」かつ「赤」ということになります。これはどういうことか?

黒くて赤い「犬」もいるかもしれないから別に構わないではないか、という反論もいるでしょう。確かにそうです。ところが、形容詞ではなく数量を使って命題を記述すると、問題が顕在化します。

  • 犬は50cmである。
  • 犬は80cmである。

この命題が両方真だとすると、50cm=80cm という明らかに不合理な結果に陥ります。この二つの命題は両立することができず、どちらか一方が真である場合は他方は偽であり、あるいは両方偽です。つまり、ともに「要素命題」であるのに、真偽が「独立」していないのです。

その矛盾は「犬は50cmであり、かつ80cmであることはない」という前提があってこそ生じるものだ、という反論もあるかもしれません。しかし、この前提は、「犬は50cmである」「犬は80cmである」「Aであり、かつBであることはない」と「分解」できるので、「要素命題」ではなく「複合命題」です。「要素命題」の「独立」を問題にしているのに、「複合命題」を自明の前提として持ってくると、おかしなことになります。

この問題はウィトゲンシュタイン自身が誤りだと認めてしまったので、もう議論する余地がないといえばそうなのですが、「犬は赤い」「犬は黒い」のように、「独立」な「要素命題」も存在するのではないか、というのが私見です。もっとも、『論理哲学論考』では、すべての「要素命題」が「独立」だと捉えられているので、一つでも「独立」でないものがある時点でアウトなのですが。

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