ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』命題2.1~2.225を読解する

前回のウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』命題1~2.063を読解するの続きです。今回は命題2.1~2.225を読みます。前回も書きましたが、使うのは、岩波文庫の野矢茂樹訳です。

読解にあたっての凡例などは前回の記事に書きましたので、そちらをご覧ください。

目次

『論理哲学論考』命題2.1~2.141……「像」

命題2.1になると、突然こんな文章が出てきます。

2.1 われわれは事実の像を作る。

「像」(Bild)という新たな概念が出てきます。原語はBildですが、日本語だと、絵・像・写像・写しといった意味です。ここでは、写しというニュアンスと、数学的な「像」というニュアンスの両方がこめられています。

なお、前回は飛ばしたのですが、実は命題2.0212にも「像」という概念が登場していました。

2.0212 そのとき、世界の像を(真であれ偽であれ)描くことは不可能となる。

「像」を「描く」といっていますが、「像を作る」とほぼ同じ意味ですね。

で、結局「像」とは何なのかという定義が出てこないわけですが、続きをもう少し読んでみましょう。

2.11 像は、論理空間において、状況を、すなわち諸事態の成立・不成立を表す。

2.12 像は現実に対する模型である。

「像」は「現実に対する模型」だそうです。ここでは「現実」という言葉が使われていますが、命題2.1に「事実の像」とあったので、「事実に対する模型」といい換えても問題はないでしょう。

「像」が「模型」というと、例えば粘土で現実に似せた像を作る、といったイメージを持たれるかもしれませんが、そういう「現実」的なものでないことは明らかですね。命題2.11で、「像」は「論理空間」に存在するものであると書かれているからです。

前回の命題2.013~2.0131のときに書きましたが、「論理空間」とは、「対象」が「事態」のうちに現れる可能性の総体です。「像」は「論理空間」に存在するものです。

そこにおいて、「諸事態の成立・不成立」を表すとはどういうことなのでしょうか。

この命題だけを読んでも分かりづらいので、一旦飛ばして、後で戻ってくることにしましょう。

2.13 像の要素は像において対象に対応する。

2.131 像の要素は像において対象の代わりとなる。

命題2.1にて、「像」は「事実」から作られるとありました。「事実」は「対象」から作られますから、「事実」の中の「対象」にあたるものが、「像」にも存在するはずです(これが「対象に対応する」の意味)。これを「要素」といっているわけです。

「対象の代わりとなる」とあるのは、「像」が「事実の模型」であるのと同様に、「要素」も「対象」の「模型」であるということです。「像」を作るにあたって、「対象」をそのまま使うことはできないので、その「模型」である「要素」を代わりに使う、というニュアンスです。

2.14 像は、その要素が特定の仕方で互いに関係するところに成り立つ。

命題2.01で、「対象」が「結合」して「事態」になるという話がありましたね。「像」は「対象」の「模型」なのですから、「対象」と同様に「結合」することができます。それを表した命題が2.14です。

命題2.141では「像はひとつの事実である」とありますが、これは「現実に対する模型」であることを表します。「ひとつの事実」と書くと、「像」
あたかも「現実」であるかのようで、語弊のある表現ですが。

さて、ここまで「像」や「要素」について考えてきましたが、結局よく分からないのではないでしょうか? そこで、具体例を挙げて考えます。

例えば、将棋を打つ場面を考えます。自分の手番にて、どの駒をどこに打つかを考えなくてはなりません。

このとき、自分の駒をあちこちに試し打ちして、「あそこに打とうか」「ここに打とうか」と考えたりはしませんね。駒を置いて指を離した後、また駒を動かしたら反則になりますし、こんなやり方で手を考えていたら、時間がかかりすぎます。

ではどうするのか? 頭の中で碁盤や駒をイメージして、どこに打つか考えるはずです。もちろん、イメージするものは人によって違うでしょうが、多くの人は、頭の中で駒の動きを考えるでしょう。

このとき、我々は「現実」にある「駒」や「碁盤」という「対象」から「像」を作り、「駒」や「碁盤」という「要素」を動かして考えているのです。例えば、「2六に歩を打てば……」と考えるとき、頭の中で「2六」「歩」という「像の要素」から、「△2六歩」という「像」を構成しているのです。

こう考えると、「像」が「論理空間」にあるという命題2.11の意味が分かるのではないでしょうか。「△2六歩」という「像」は、実際に2六に歩を打ったわけではないので、「事実」ではありません。しかし、「歩」と「2六」が「結合」するという「事態」ですから、それは「論理空間」に存在するものであり、成立したときには「事実」となるものです。

あるいは、こういう例を考えてもよいでしょう。例えば、私がある人に「電車で傘を忘れた」と話すとします。この「電車」「傘」というのは「言葉」であり、「現実」に存在する「電車」「傘」を指示するもの、いわば「電車」「傘」の「模型」です。そう考えると、「言葉」というものも「事実」から作られた「像」なのだと考えられます。

上の将棋と会話の例は、言葉を通して考えているかどうかの違いがありますが、「対象」から「要素」を作り、それを元に「像」を作っているということは共通しています。

なお、野矢茂樹氏は『「論理哲学論考」を読む』にて、「像」は「言語」と呼び換えてもよいのではないかと書かれています。それは、「言語」というものが典型的な「像」だからでしょう。私は、「言語」というより「記号」と呼んだほうが適切なように思いますが、「思考の限界は言語においてのみ引かれうる」という『論理哲学論考』の目的とあわせて考えると、「言語」といういい換えは分かりやすいと思います。

『論理哲学論考』命題2.15~2.1511……「写像形式」

次の命題2.15は重要な文章です。

像の要素が互いに特定の仕方で関係していることは、ものが〔それと同じ仕方で〕互いに関係していることを表している。

像の要素のこのような結合を構造と呼び、構造の可能性を写像形式と呼ぶ。

前回の命題2.032と2.033で、同じような命題がありましたね。引用しましょう。

2・032 諸対象が事態において結合する仕方が事態の構造である。

2・033 構造の可能性が形式である。

命題2.032と2.033は「対象」の「結合」について、命題2.15は「要素」の「結合」について語った命題ですが、それを除けば、どちらも全く同じです。

「対象」でいうところの「形式」が、「要素」では「写像形式」と呼ばれています。「〔それと同じ仕方で〕」という注釈からも分かるように、「形式」と「写像形式」は一致するものだと捉えられています。これは、「対象」と「要素」の関係を考える上で重要です。

命題2.151は、命題2.15をいい換えただけなので飛ばします。

2.1511 像はこのようにして現実と結びついている。像は現実に到達する。

「このようにして」とは、「対象」における「形式」と、「要素」における「写像形式」が一致することを表しています。後の命題2.17でも述べられますが、この一致があるからこそ、「像」が「現実の模型」たりうるのです。

いまいちピンと来ないかもしれません。ここで一旦、前回据え置きにした命題2.022と2.023に戻りましょう。

2.022 たとえどれほど現実と異なって想像された世界であっても、あるもの──ある形式──を現実と共有していなければならない。それは明らかなことである。

2.023 この不変の形式はまさに対象によって作られる。

この二つの命題は「写像形式」と関係すると書きました。もうお分かりでしょうが、この「あるもの──ある形式──」「不変の形式」というのが、「対象」における「形式」であり、「像」における「写像形式」のことです。

そして、「像」は「写像形式」を共有しなくてはならないというのは、「現実と異なって想像された世界」というものを実際に「想像」してみれば分かることです。

例えば、ファンタジーの「世界」を考えるとします。建物として、宿屋や武器屋やイベント施設・ダンジョンを「想像」します。ファンタジーにおける宿屋や武器屋は、「現実」には存在しないものですが、「現実」の宿泊施設や店といった「対象」から「想像」された「像」であり、全く「現実」と異なっているわけではない。その「現実」との「共有」部分のことを「写像形式」と呼ぶわけです。

さらにいえば、ファンタジーにおける言語も「像」の一つですね。例えば、ある日本人が異世界にワープするというファンタジーがあったとして、飛ばされた先の異世界では日本語や英語が話されていたりする。あるいは、人工言語が話されているとしても、(「主語・述語・目的語」といった)「現実」と同じ文法や論理に従って言語が話されている。「異世界」なら、我々の「想像」を絶する言語が話されていてもよさそうなものですが、そんなことはできません。ファンタジーにおける言語も「像」ですから、現実とは何かしらの共通項がなくてはならないからです。

『論理哲学論考』命題2.1512~2.203……「論理像」

命題2.022と2.023の説明を終えたところで、元の箇所に戻りましょう。

命題2.1512はそのままの意味ですね。「像」が「現実に対する模型」であることを、「ものさし」という比喩を使って表現しています。この「ものさし」という比喩を使って表されたのが、次の命題2.15121です。

2.15121 あてがわれた両端の目盛だけが、測られる対象に触れている。

比喩的で分かりにくいですが、「あてがわれた両端の目盛」とは「写像形式」のことを指します。「写像形式」だけが、「対象」に「触れている」(「形式」が一致する)ということですね。

2.1513 それゆえ、この捉え方に従えば、像を像たらしめる写像関係もまた、像に属するものとなる。

当然のことを書いているだけのようですが、これが後の命題2.172と関わってきます。

命題2.1515~2.17は飛ばします。これらは、「現実」と「像」が「形式」「写像形式」を共有していなくてはならないと述べており、今までの議論のいい換えをしているだけです。

命題2.171も、「像」が「現実の模型」であることを確認しているだけなのですが、次の命題2.172が重要です。

2.172 しかし像は自分自身の写像形式を写し取ることはできない。像はそれを提示している。

先の命題2.1513では、「写像形式」も「像に属する」とありました。ですが、「写像形式を写し取ることはできない」といいます。これはどういうことでしょうか。

この命題は『論理哲学論考』の中核ともいえるもので、今後も様々な表現で語られます。

4.12 命題は現実をすべて描写しうる。しかし、現実を描写するために命題が現実と共有せねばならないもの──論理形式──を描写することはできない。

論理形式を描写しうるには、われわれはその命題とともに論理の外側に、すなわち世界の外側に、立ちうるのでなければならない。

これは説明しにくいのですが、こういうことです。

例えば、「対象」Aの「論理形式」をX、「像」A’の「写像形式」をX’としましょう。このとき、「現実を描写するために命題が現実と共有せねばならないもの」とは「論理形式」=「写像形式」ですから、X=X’であることを「描写」できればよいわけです。しかし、こんなことができるのでしょうか。

「Aの論理形式XとA’の写像形式X’が一致するので、X=X’である」と考えます。しかし、「では、なぜXとX’が一致するといえるのか?」と聞かれると、これ以上答えることができないでしょう。「対象はAで、像はA’で、対応しているから」などと答えても同じことです。つまり、「X=X’だから」以上に答えようがないのです。「写像形式」は「写し取る」ことはできず、「提示」されるだけというのはそういう意味です。「X=X’」と「提示」することはできますが、具体的に「描写」できないのです。

なお、命題2.172の「提示」という言葉は、後に「示す」などといい換えられ、「描写」「語る」と対になって使われます。

2.18 およそ像が──正しいにせよ誤っているにせよ──写しとることができるために、いかなる形式の像であれ、共有していなければならないもの、それが論理形式、すなわち、現実の形式である。

2.181その写像形式が論理形式であるとき、その像は論理像と呼ばれる。

2.182すべての像は論理像でもある。(それに対して、すべての像が空間的な像であるわけではない。)

「論理形式」という概念は、前回の命題2・0233で出てきた概念です。「論理空間」内の「対象」が持つ可能性の総体のことを意味するのでした。

「対象」は論理形式を持ち、「像」は写像形式を持ちます。一方、「像」は「論理空間」内に存在する「対象」の「模型」なのですから、「像」もまた、「論理形式」を持っていなくてはならない。だから、「論理形式」=「写像形式」となるわけで、「すべての像は論理像」となるのです。

「すべての像が空間的な像であるわけではない」とあります。例えば、数字の「像」は「論理形式」=「写像形式」を持つので「論理像」ではありますが、空間的なものではないので、空間の「形式」を持たないからです。

命題2・19~2・203は、今までの議論をいい換えただけなので飛ばします。

『論理哲学論考』命題2.21~2.225

2・21になると、重要な文章が出てきます。

2.21 像は現実と一致するかしないかである。すなわち、正しいか誤りかであり、真か偽である。

「像は現実と一致するかしないか」というのは当然ですね。「像」は「現実の模型」であるわけですが、それが「現実」を正確に写していることもあれば、誤っていることもあります。そして、現実との一致・不一致によって、像の真偽が決まるということです。

余談ですが、こうした「現実と命題との不一致によって真偽が決定される」という立場は、真理の対応説と呼ばれ、アリストテレスから続く息の長い立場です。

命題2.22は、命題2.17と同じことをいっています。

命題2・222と2.223と2・224ですが、これは命題2.21のいい換えですね。「像の真偽」は「現実」との一致・不一致によって決まるのですから、「現実」を見ないと真偽が決定できません。「像」だけを見ても真偽は決定不可能です。

2・225 ア・プリオリに真である像は存在しない。

「ア・プリオリ」(a priori)という概念が出てきました。「ア・プリオリ」とはカント哲学の概念で、「ア・ポステリオリ」と対になっています。カントの影響を受けて、フレーゲなどもこの概念を流用しています。

この命題は前の命題2・223と2・224とほぼ同じなので、「ア・プリオリ」の意味が分からなくても理解できるのですが、簡単に解説しておきます。

なお、この「ア・プリオリ」という言葉について、本文中では説明がありません(訳注はありますが)。これはいわば予備知識で、「『論理哲学論考』を読む人間なら、ア・プリオリという言葉ぐらいは知っているだろう」という前提でウィトゲンシュタインは書いているわけですね。

簡単にいえば、ア・プリオリとは「人間の経験に依存せず、普遍的に成立すること」を意味します。訳語では「先験的」「超越的」などがありますが、訳語を使わずにア・プリオリと記述されることも多いですね。

具体的に考えてみましょう。

物理法則というものは、一般的には観察や実験を通じて発見されます。十回・百回・千回……と何度も実験を繰り返して、その法則が存在することを発見します。

このとき、「観察」などの「経験」を通じて、法則の妥当性が確認されます。これはア・プリオリではなく、逆にア・ポステリオリな法則です。

一方、1+1=2という命題は、我々の経験とは関係なく成立します。1+1を1回計算しようと、100回計算しようと、答えは2です。

このとき、1+1=2は「計算」という「経験」とは関わりなく、正しいことが証明されます。これが、ア・プリオリです。

ここで、ウィトゲンシュタインの議論に戻ります。

命題の真偽とは、事実と一致するか否かによって決まるのでした。つまり、命題の真偽を決定するためには、事実と一致するかどうかの「確認」、つまり経験が必要になるのです。

ア・プリオリに正しい命題とは、事実との一致に関わりなく正しいと認められる命題を意味するわけです。しかし、命題の真偽は事実との一致・不一致によって決定されるのですから、そんな命題が存在するはずがない。だから、ア・プリオリに正しい命題は存在しないといえるわけです。

なお、この後の命題3.05を見ると、こんなことが書かれています。

3.05 ある思考が真であるとア・プリオリに知りうるのは、ただ、思考自身から(比較対象なしに)その真理性が認識されうるだけである。

「ア・プリオリに真である像は存在しない」といっていたのですが、実は、こういう「像」がいくつか存在します。

例えば、「AがBならば、AはBである」という命題です。「AがBならば」という前提があるので、「AはBである」は当然真です。実際に「AがB」であることを確認する必要はなく、恒久的に真であるので、ア・プリオリに真であると分かります。

あるいは、「AならばAである」という命題もそうですね。これも、実際に「AならばA」であることを確認せずとも、ア・プリオリに真であると分かります。

これらはただの同語反復の命題なのですが、こうした命題は「トートロジー」と呼ばれます(命題4・46と4461)。

『論理哲学論考』読解を終えて

ついに2節が終わりました。ここまでで、ようやく全体の1/3です。

『論理哲学論考』は命題1~7からなりますが、命題7はたった一つしかないので、実質的には6節のみです。ですから、ここまでで1/3を読んできたといえるわけです。もっとも、分量でいうと、3節以降が圧倒的に多いのですが……。

今回の読解で、2節までしか読まなかったのには理由があります。2節までは予備知識が少なくても読めましたが、3節以降は、フレーゲやラッセルの学説に対する批判や引用がたくさん出てきます。つまり、これ以降は予備知識なしでは読解できないのです。

3節以降の内容と、それを読むために必要な予備知識を説明していたら、それだけで膨大な記事ができあがります。そのすべてを書くことは、私の手に余ります。

ただ、哲学は予備知識の量だけで決まるわけではないことも確かです。重要なのは、何より読み方を身につけていることと、読む本人が問題意識を持っていることです。

以前のキルケゴール『死に至る病』冒頭を読解するや、前回と今回の『論理哲学論考』読解を通じて、哲学書とはいかに読むべきかを示してきました。これをご覧になった皆様が、私の読み方を真似するのも、私の読み方を批判して別の読み方を開発するも自由です。読み方を身につけさえすれば、あとは予備知識を仕入れつつ、哲学書をじっくり読んでゆけばよいのです。

「俺たちの戦いはこれからだ」のような終わり方で恐縮ですが、後は皆様の読解にお任せします。

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