君は人のために死ねるか

なぜ今若者たちは~カメラが見た右翼と左翼という番組を見ました。動画は、右翼が描かれた部分で、右翼団体に所属する五十嵐博臣氏と「ケンジ」(当時19歳)という少年が登場します。

私は政治問題には疎いので、右翼・左翼の是非について論じることはしません。

それよりも興味を持ったのが、ケンジ少年が右翼運動に身を投じたきっかけの話です(右動画の07:10以降の話)。「抗議のために拳銃自殺」した右翼の存在を知り、「自らの命を落してでも訴えかけることがあった」ことが「すごい衝撃的だった」とのこと(ちなみに、この「拳銃自殺」した右翼とは、野村秋介という人物らしい)。

「自らの命を落してでも訴えかけることがあった」ということは、確かに「衝撃的」だと思いますが、それに影響を受けて右翼団体に入るというのは、私にはよく分かりません。というのも、「自らの命を落してでも訴えかけることがあった」ことは、そんなに素晴らしいことなのか、と疑問に思ってしまうからです(補足しておくと、野村秋介の死を貶める意図は全くありません)。

三島由紀夫のインタビューによれば、「人間が自分のためだけに生きるのに卑しいものを感じるのは当然」(動画の05:45以降)らしい。三島を「右翼」と呼んでよいのかは疑問ですが、彼も「天皇」という大義のために死んだ(死のうとした)ことを考えると、考えていたことは右翼少年ケンジに近いのかもしれません。

国や天皇といった問題を出すと大げさに感じるかもしれませんが、もっと卑近なものでも構いません。家族のため、友人のため、愛する者のため……多くの人は何かのために生きていますし、何かのために死んでゆきます。ただ、それが大きいか小さいかの違いです。

しかし、何かのために死ぬということは、私には未だに分からない。「自分のためだけに」、それも「卑し」くでなく尊く死ぬことは可能なのではないか、という思いが未だに渦巻いています。私は、赤木しげるはまさにそのように死んでいったのだと考え、一連の「反英雄」論を書きました。三島のいう「英雄的な死」でない、しかし「生のけん怠」でもない死に方を体現したのが赤木だと思うのです。

ですから、現在の私は「君は人のために死ねるか」と聞かれれば、「できません」と答えるしかありません。

追記: 1月22日の記事で、感情を根拠にした議論は無意味だという話を書いたのですが、右翼運動やナショナリズムについても、同じことがいえると考えています。

なぜ今若者たちは~カメラが見た右翼と左翼を見ると、その運動の根拠に、感情的なものが多いことに気がつくと思います。

02:39
「凄い」
04:02
「美しく見えた」
06:56
「かっこいい」
07:36
「変えたい」
08:59
「おかしくなっている」

三島由紀夫のインタビューでも、「尊い」とか「卑しい」とかいった言葉が出てきますね。

もちろん、五十嵐氏やケンジや三島だけをもってナショナリズムを論じるのはできませんが、「日本人であることを誇りに思う」とか「美しい国」とか、感情的な言葉でナショナリズムが語られることが多いのは事実です。

こういう言葉が説得力を持ちにくいのは、「私は誇りには思わない」「私は美しいと思わない」「私はかっこいいと思わない」と反論されたら、それで終わりだからです。美しいと思う人は思うし、思わない人は思わない、人それぞれということで議論が終わってしまいます。

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