私の中島義道論

昨日の記事の続きで、中島義道に関する私の考え、というか疑問点を述べます。

私が中島義道の本を初めて読んだのが2004年です。それから毎年読んでいたわけではありませんが、折に触れて中島氏の著作は読んでいたので、10年弱は読み続けていることになる。最初は中島氏の主張に共感し、全面的に賛成していた私ですが、読み続けてゆくにつれ、何かしらの違和感や反感を覚えるようになりました。

誤解がないように書いておくと、私は今でも中島義道ファンですし、彼の主張の多くに賛成です。しかし、それでも中島氏の主張に納得できない部分があります。それは、中島氏の「哲学観」「哲学」「結婚観」の三つです。

2014年1月5日に、新たに「中島義道哲学は『哲学』なのか」を書きました。

中島義道の哲学観について

中島氏は、哲学とは大多数の人間にとっては不要なものであり、哲学が好きな一部の人間がやればいいという立場を貫いています。それは、『哲学の道場』の以下の文章からも明らかです。

哲学は哲学をしなければ生きていけない人だけが、哲学をしなければ死ぬしかない人だけがすればいいのです。いいかげんな気持ちでするのなら、まったくしないほうが(世のため人のため、家族のため、そして何よりも本人のために)よっぽどいいのです……。

私はこの言葉に異論はありません。しかし、中島氏は他方で、鈍感な感受性しか持たない「マジョリティ」や「善人」を批判しています。それは、「マジョリティ」たちは少数の感受性を考慮する感受性に乏しいからであり、「自己批判精神」や「繊細な精神」が欠如しているからであり、つまりは哲学的な生き方でないからです。

つまり、中島氏は「哲学はやりたい人間だけがやればいい」という一方で、哲学的生き方をしていない「マジョリティ」や「善人」を批判している。前者の立場に立つなら、「マジョリティ」や「善人」は哲学などやる必要がない人たちなのですから、哲学的生き方をしなくても問題はない。それを、哲学的でないと批判するのは不合理ではないでしょうか。

哲学的生き方に悩まない「マジョリティ」や「善人」は愚かであり、悩める若者や落伍者は尊いのだという価値観は、『カイン』『働くことがイヤな人のための本』などの対話形式の本に如実に表れています。中島氏は、エッセイ本ではこういう価値観を打ち出しているのに、哲学の本になると、掌を返すように「哲学はやりたい人間だけがやればよい」という。これは一体どうしたことでしょうか。

哲学という学問と哲学的生き方は別物? そんなはずはありません。中島氏によれば、哲学とは人生と密着しているものなのですから。哲学をやっているが哲学的でない生き方とか、哲学をやっていないが哲学的である生き方の存在を中島氏は認めていません。

この矛盾について、中島氏は恐らくこう考えているのでしょう。

──私は必ずしも「マジョリティ」や「善人」に哲学的生き方を要求しているわけではない。すべての人間がそういう生き方をできるとは限らないし、私自身、必ずしも哲学的ではないのだから。しかし、自分が哲学的生き方をしていないという自覚・罪悪感を持って生きるべきではないか。それを持たずに生き続ける「マジョリティ」や「善人」は怠惰であり感受性が愚鈍なのであり、私はそうした無自覚に警鐘を鳴らしているのである。──

これは私の想像ではなく、実際に中島氏がよく使う論理です。かくあるべき生き方に自分が沿っていないと感じるとき、「仕方がないんだ」と居直ることなく、そう生きることができない自分を強く自覚して生きるべきだと、中島氏は方々で書いている。

しかし、この論理は、人間は真実を追求して生きるべきだという中島氏の考えが前提にあります。自分が誰かを傷つけて生きていること、嘘をついていることが真実であり、それを見ずに生きるのは怠惰だという考えです。この考えは中島氏自身の美学、そして(人間は幸福よりも真実を追求すべきだという)カント倫理学が土台にあるのでしょうが、その二つが正しいという根拠はあるのでしょうか。

私はカントを優れた哲学者だと思いますが、彼の倫理学については説得力に乏しいと考えます。幸福よりも真実を追求すべきという考えは、私は好きですが、それが人間の義務だとは到底思えない。あくまで、中島氏の美学というレベルの話で、それを人間全体に拡張するのは不合理ではないでしょうか。

中島義道の哲学について

中島氏の専門はカントであり、彼自身の哲学も、カントの哲学に多大な影響を受けている部分があります。しかし、カントに全面賛成しているわけではなく、異論を唱える箇所もあります。『哲学の道場』の以下の文章などはそうです。

実践理性の要請はリアリティのない技巧的な抹香臭い理論だな、というくらいしかわからない。カントには悪いのですが、合理的心理学者の「推理」とあまり変わらないな、という印象です。
(中略)
カントの実践理性の要請は、「死」という私にとっての最大の問題に関して、何の解決も与えてくれないのです。

カントに異論を唱えるのは全く構いませんし、カント学者としては誠実だと思います。しかし、一方で中島氏の著作では、「カントはこう書いているのだ」とカントを引用して、自説を補強することが多い。そうすると、「中島氏はカントのどこからどこまでに賛成・反対なのか?」という疑問がわいてきます。

中島氏にはいつか『私とカント』というような本を書いてほしいと思います。その中で、自分とカントの共通する意見はここで、異論のあるところはここだと明言してほしい。特に、「『死』という私にとっての最大の問題に関して、何の解決も与えてくれない」というカントの(中島氏にとっての)最大の問題点についてどうお考えなのか、ぜひ回答を求めます。

中島義道の結婚観について

孤独主義者であるにも関わらず、中島氏は結婚されており、息子までいらっしゃるようです。このことについて批判する人は多く、私もよく思っていなかったのですが、中島氏の著作を読む内に、多少は納得できるようになった。「多少」というのは、完全には納得していないということです。

孤独主義者が結婚することについて、『孤独について』『人を”嫌う”ということ』で以下のように書いています。

冷たい世間の荒波から逃れて家族という温かい空間の中でぬくぬくと暮らすというのでなく、すべてのなまなましい人間関係を家族のうちに限定して、ヒタヒタ寄せる外界の荒波の浸食作用を防ぐこともできるのだから。
(中略)
私は(性愛を含めた)「愛情」という関係が煩わしいので、皮肉なことにかえって結婚制度に適しているのかもしれない。なぜなら、結婚していると、結婚予備軍として扱われるという煩わしさから抜け出せるからである。

どんな人間嫌いでも自己嫌悪が激しい人でも、いやそういう人種であればこそ、結婚する理由は一つだけあると思います。それは、のっぴきならない他人との関係に意図的に入ることによって、相互に「嫌い」をどう解決するかという大きな問いの前に立たされること。

『ひとを愛することができない』によれば、中島氏は元々結婚したくてしたわけではなく、何人かの女性から真剣な求婚をされ、やむをえず、誰か一人を結婚せざるをえないという状況に追いこまれたようです。そうした背景を考えると、「結婚していると、結婚予備軍として扱われるという煩わしさから抜け出せる」というのは理解できなくもない。また、「嫌い」を味わい尽くすために結婚するというのも分からなくはない。

しかし、ここで疑問がわきます。結婚とは中島氏一人の問題ではなく、結婚相手、さらには子供との問題です。こうした結婚観に、果たして中島氏の奥様は納得しているのでしょうか(『人を”嫌う”ということ』を読む限り、到底納得していないようですが)。

中島氏は、夏目漱石と鏡子夫人を引きあいに出して、「もっとゆったりとした結婚生活を望んでいたでしょうが、それでも漱石との結婚生活が貧しかったとは思えない」『人を”嫌う”ということ』)と書いています。つまり、「嫌い」を味わい尽くすことによって鏡子夫人の結婚生活は豊かであったはず、ということです。中島氏は明言していませんが、ここには「だから私の妻との結婚生活も豊かであるはずだ」という自己正当化が働いているように思われます。

前述の哲学観の話の繰り返しですが、中島氏が結婚生活をそのように捉えるのは結構ですが、それに結婚相手、しかも中島氏の結婚観に納得していない相手を巻きこむのは正しいとは思えない。中島氏は、自分の結婚観に同意してくれる相手と結婚すべきであったのではないでしょうか。

私と中島義道

ここで中島義道批判を終えます。

長々と批判を書いてきましたが、私は依然として中島義道ファンです。ただ、上記の三つは、中島氏と私とで意見が完全に食い違うところであり、なぜこうした食い違いが生じるのか考えてきました。本記事を書くことを通じて、その理由がわかったように思います。

中島義道哲学は「哲学」なのか

〔2014年1月5日の追記〕記事に書き忘れていたことですが、上記で述べたカント哲学との関係とは別に、中島義道氏の「哲学」には、ある弱点が存在するのです。

たびたび述べていますが、中島氏は、自分の日常生活を離れた空疎な議論を嫌い、日常に根差した哲学を好む人です。そうした日常生活へのこだわりこそが、中島哲学の特徴であり、同時に弱点でもあるのです。以下、それを説明しましょう。

哲学というものの性質について、中島氏は『哲学の道場』にて以下のように述べています。

……あなたは自分の印象や体験談を語るのではない。あなたの実感に沿って、しかもあたかも客観的普遍的であるかのように、厳密で透明な言葉を駆使して語るのです。

「あなたの実感」という日常性を持ちつつ、それが「客観」性・「普遍」性を持つように語らなくてはならない。こうした矛盾した性格が哲学だといっているのですが、では中島哲学はこの二つの条件をクリアしているのか?

中島氏は、哲学の条件として「自己批判精神」や「繊細な精神」の必要性、「真実」への誠実さなどを挙げています。それは自身の「実感」から来るものですから、「あなたの実感」という条件は満たします。

しかし、問題は「客観」性・「普遍」性という条件です。中島氏はカント倫理学などを援用して、自身の哲学の補強を図っていますが、それが成功しているとはいえない。中島哲学は、中島氏自身の「実感」による部分が大きすぎるので、カント哲学と合致しない部分も多く、カントの都合のよいところだけを我田引水している感が否めないのです。

つまり、中島哲学の弱点とは、中島氏自身の「実感」に支えられた部分が大きすぎるため、「客観」性・「普遍」性に欠けるということです。哲学というより、中島氏の人生哲学ではないかと思われるところが多い。その典型が、「死」こそが哲学の最大の問題だという中島哲学の立場です。中島は「死は恐ろしいもの」「死は理不尽なもの」「自分の死よりも重大な問題はこの世に存在しない」といいますが、それらはすべて論理的な理由があってのものではなく中島の実感にすぎないので、中島と同じ実感を持てない人間にとっては中島哲学は説得力がないのです。

中島哲学のこの弱点を見抜いたのか、『「哲学実技」のすすめ』にて、S君という青年が中島氏にこんな批判を浴びせます。

S: ……ぼくが哲学に期待していたのはこういう「気軽な話」じゃないんです。もっと厳密な何というか神経が参ってしまうほど緻密な、頭が痛くなるほど精密な議論なんです。先生がさかんに哲学は常識批判とおっしゃっても、ぼくはいつまでも常識の周りをグルグル回っているだけのような気がします。

S君が、中島氏の「哲学」に「緻密」「精密」さを感じないのはなぜか? それは、中島氏のいう「哲学」が「実感」中心的であるため、「客観」性・「普遍」性が欠けているように感ぜられたからです。

そして、こうした批判に対し、中島氏はこう述べます。

……ぼくは哲学の名において、次第に世界のあり方を問うことより「いかに生きるべきか」を問うことに重心が傾いている。しかも、倫理学者たちが議論している難解な理論ではなく、むしろ足元に開けている日常の生活へ向けて問いを発し答えを探り当てることだ。

「倫理学者たちが議論している難解な理論」とは、「実感」を欠いた「客観的普遍的」な議論のことです。中島氏はそうした議論を嫌い、「実感」に根差した哲学を試みるのですが、中島氏という人物のメンタリティが特殊すぎるため、今度は「実感」に寄りすぎて、「客観的」でも「普遍的」でもない哲学になってしまっている。これが中島哲学の弱点なのです。

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