「恋は、まだ知らない」ことは不幸といえるか

13歳で結婚。14歳で出産。恋は、まだ知らない。

このフレーズは、国際NGOプランが展開する「Because I am a Girlキャンペーン」のキャッチフレーズです。

世界中で理不尽な結婚や出産を強いられる女子が多いのは事実でしょうし、それを改善する試みを否定するつもりは全くありません。

しかし、「恋は、まだ知らない」というフレーズを私はやはり好きになれない。それは、私が中島義道の『ひとを愛することができない』などを愛読する人間であり、「恋」「知らない」人間は不幸だという価値観に、非常にうさんくさいものを感じるからです。

私が考えるに、このキャッチフレーズには、以下の二つの考え方が暗黙の了解として存在します。

  1. 「恋」を経験したことのない人は不幸である(恋愛自体の肯定)
  2. 「恋」を経ずに「結婚」「出産」をすることは不幸である(恋愛結婚の肯定)

この二つの考え方は、1番から2番が導かれるという構造になっており、実質的にはほとんど同じことをいっています。つまり、根柢にあるのは1番の恋愛肯定なのです。

もちろん、「恋なんかしてもどうせ不幸になるのだ」といいたいわけではない。「恋」をして幸せになることもあるでしょう。私自身、数少ない恋愛経験がありますが、それによって幸福になったこともあります(不幸にもなりましたが)。私とて、恋愛によって幸福になる可能性を否定するものではありません。

ただ、「恋は、まだ知らない」という言葉には、「恋」の内容に焦点を当てることなく、「恋」をすること自体に価値や幸福がある、「恋」を知らないことは不幸だという暗黙の了解がある。これは果たして真実なのでしょうか。

勘違いしてはなりませんが、「恋」をすること自体は幸福でも不幸でもありません。逆にいえば、「恋」によって人は幸福にも不幸にもなりうるのです。「恋」によって人々がいかに苦しみ、悲しみ、傷つき、自殺や殺人事件が起きているかを考えれば、単純に「恋」をすることは幸福だとはいえないはずです。

こういうと、人は「いや、恋を通じての不幸や傷つきは人生の糧となりうるので、決してむだではないのだ」と反論されるかもしれません。しかし、その理屈を適用すれば、「13歳で結婚」「14歳で出産」もすべて「人生の糧」となりうるので、決して不幸ではない、ということにならないでしょうか? 「13歳で結婚」「14歳で出産」による傷つきは不幸なのに、「恋を知ること」による傷つきは不幸ではないのだと、どうしていえるのでしょうか。

何がいいたいかといえば、「13歳で結婚」「14歳で出産」「恋は、まだ知らない」も、結局はただの「事実」にすぎないということ。「14歳で出産」して、子供を授かって幸福に浸る人もいるかもしれないし、「恋」を知ってしまったがゆえに不幸に陥り、自殺する人もいるかもしれない。もちろん、「13歳で結婚」させられて不幸な人もいれば、「恋」を知ったことで幸福になった人もいるでしょう。「恋」「結婚」「出産」をどう捉えるのかは個々人の価値観や生き方に大きく依存するのであって、他人が「恋をしていないから不幸だ」などと決めてよいものではないはずです。

最後に補足しておきますが、本記事はあくまで「恋」を知らないことが不幸だという恋愛肯定を批判しただけであって、「Because I am a Girlキャンペーン」を妨害する意図は全くありません。

「恋愛」ができないことは「弱者」か

〔2014年2月24日追記〕インターネットを巡回していたら、童貞の歪みについて~僕が「行動」できないこれだけの理由~という記事を見つけました。

実際に読んで内容を判断していただきたいのですが、簡単にまとめれば、童貞が恋愛弱者であることは、異性との接触機会の少なさから来る必然的な帰結であって、努力や意志によって解決できる「自己責任」的な問題ではありえない、という内容です。が、私はこの記事に「恋愛をすべきである」という暗黙の前提が存在することに疑問を抱きました。

この記事は、「資本家⇔労働者」を経済的な「強者⇔弱者」と読み換え、強者と弱者の非対称性を論じた上で、それを恋愛の「強者⇔弱者」に適用するという論理展開になっています。しかし、経済的な「強者⇔弱者」と恋愛の「強者⇔弱者」を同じレベルで論じることに、不自然なものを感じないでしょうか。

「資本家⇔労働者」の関係が成立するのは、資本家も労働者も資本主義社会に生きており、貨幣(あるいは労働)を獲得することなしには生きてゆけないという前提があるからです。つまり、資本家も労働者も、貨幣(あるいは労働)獲得という共通の目的を持っており、その目的実現にあたっての過程に非対称性(資本家は労働者を失っても死なないが、労働者は労働を失えば死ぬ)があるのです。

一方、恋愛において、「強者⇔弱者」の関係は成立するでしょうか。確かに「強者」と「弱者」は存在するのでしょうが、それは「資本家⇔労働者」のような関係とは大きく異なります。なぜなら、貨幣(あるいは労働)獲得と違って、恋愛は獲得しなくても生きてゆくことができるからです。つまり、弱者が恋愛獲得という目的を捨ててしまえば、強者との共通目的がなくなりますから、対立が消滅します。

この記事では、童貞が不可避的な弱者であることが論じられて要るのですが、そもそもの前提である「童貞は本当に弱者なのか」が疑われていません。それは、「恋愛をすべきである」という前提を自明のものとして扱っているからです。それは自明でも何でもないのですが……。

いや、「前提が自明かどうかはどうでもよい。私は恋愛をしたいのであり、したくてもできないから弱者なのだ」という理屈は理解できます。私は「恋愛をしたい」という人に「恋愛なんかするな」といいたいわけではない。したい人はすればよいのです。

しかし、恋愛をしたい人たちは、自分がなぜ恋愛をしたいのか、きちんとした理由を持っていないように思われる。「童貞が恋愛をできないことの必然性」を考えるなら、「童貞が恋愛をしたい必然性」も考えてみるべきなのです。その理由がはっきりしないので、「童貞は恋愛ができず、それは努力でどうにかなる問題ではないので、恋愛強者の皆様にお願いしたい」と主張することに無理が生じる。「いや、恋愛しなくてもよいのでは?」と反論されるのがオチです。

色々と批判めいたことを書きましたが、別に記事の筆者に恨みがあるわけではない。ただ、一見論理的に書かれた恋愛論であっても、その根底にある「恋愛をすべきである」という前提が全く疑われていないこと、「恋は、まだ知らない」ことを「不幸」だと捉える価値観が根強く残っていることの一例として、この記事を取り上げたのです。

広告

「恋は、まだ知らない」ことは不幸といえるか」への1件のフィードバック

  1. 論点がずれすぎ、ひねくれすぎ。物としてしか扱われない女の子の気持ちを考えたことがありますか?恋をすることが幸せかとかそういう話じゃない。そもそも恋をするチャンス、自分で考えて決めるチャンスすら貰えない人間らしく扱われない女の子が世界にたくさん居ることをこの広告は訴えているんです。13歳という体も出来上がっていない子供のうちに金と引き換えに嫁に出され、望んでもいない男とセックスさせられる。幼い体での妊娠、出産はリスクが大きい。死に至ることもあるでしょう。強姦と同じです。勿論、それで裕福な家に嫁いで生き延びて幸せになる女性もいるでしょう。けれどその人生において、彼女らに選択の余地、意思決定の権利は与えられてないんです。文化的な生活を送る人間として与えられるべき当然の権利を、「自分で自分の人生を決める」権利を彼女らは奪われているんです。申し訳ないけれど自分に恋人ができない童貞のやっかみにしか見えません。

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Google+ フォト

Google+ アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

%s と連携中