哲学書を「読む」こと

この記事では、哲学書(特に西洋哲学書)を「読む」とはどういうことか(解説書を読むのと何が違うのか)、どうすれば哲学書を読めるようになるのかを説明してゆきます。

なお、この記事は、私が昨日書いたキルケゴール『死に至る病』冒頭を読解するを元に書いています。これは、キルケゴール『死に至る病』という有名かつ難解な哲学書の冒頭を、解説でなく「読解」しようと試みたものです。ご興味のある方はどうぞ。

目次

哲学書の解説本を読んでも哲学書は読めるようにならない

哲学書の読解を書いた理由は、哲学者の思想を解説するサイトはあっても、哲学書の文章を読解するサイトがほとんどないから。そして、哲学書の解説を聞いたところで、実際に哲学書が読めなければ何の意味もないと考えるからです。

哲学書を読んだことのある方は、そこに書いてある文章がいかに意味不明であり、理解困難であるかご存じでしょう。哲学などまるで知らない方はいうに及ばず、哲学史に関する知識を多少持っている人であっても、哲学の文章はほとんど読めない、という方は多いはずです。

そういう人たちがどういう行動に出るかというと、『キルケゴール入門』のような本を手に入れて、それを読むことになります。すると、キルケゴールの思想、例えば「絶望」とか「宗教的実存」とか「躓き」とか「キリスト者」とか、色々書いてあるでしょう。それを読んで、キルケゴールの思想を理解できる。それはそれでよいことです。

しかし、入門書を読んだ上で、再び哲学書を読み始めたとして、果たして理解できるでしょうか? 恐らく、入門書を読む前とほとんど変わらず、理解不能なのではないでしょうか?

つまり、入門書や解説本を読んだところで、哲学書を読めるようにはならないのです。どれだけ原文に忠実に解説した本であろうと、それが「解説」「要約」である限り、思想を理解できるようになっても、原文を読めるようには絶対になりません。

もちろん、「大まかな思想を知りたい」という人にはそれで十分なのでしょうが、哲学書を理解したいがために入門書を手に取った人にとっては、全く不幸なことではないでしょうか。

哲学書はなぜ読みにくいのか

なぜ、入門書や解説本を読んでも哲学書が読めるようにならないのか?

それは、哲学書が、冒頭から最後まで一直線に読めば理解できるようには書かれていないからです。

昨日のキルケゴール『死に至る病』冒頭を読解するを読まれた方はお分かりかと思いますが、哲学書というものは、きちんと意味が説明されてもいない概念がいきなり登場したり、概念の意味が途中で微妙に変わってきたりということが起こります。『死に至る病』冒頭でいえば、いきなり「本来的な絶望」という概念が登場することや、「自己は自己自身との関係」と書いておきながら、途中で「これだけでは自己ではない」と一見矛盾したことを書き始めることなどです。

こういうとき、「後々で説明があるに違いない」と一旦分からない概念を据え置いて、後から出てきた説明を読んだ後に、「ここはこういう意味だったのか」と納得する必要があります。また、概念の意味が前と後で食い違う場合、それらを突きあわせて、「なぜ意味が変わっているのか」を考えなくてはなりません。

哲学書は、(学術論文のように)序論・本論・結論を順番に読んで理解できるようなものではありません。ページの途中で何ページか前に戻り、ページを読み返してもう一度何ページか後を読み……というように、あたかも離れたところにあるパズルのピースを拾い集めるような読み方をしなくては読めないのです。これだけでも、哲学書がいかに読みにくいものかがお分かりでしょう。

こういう読み方を身につけるには、実際に哲学書を読むしかありません。「キルケゴールの生涯」「『死に至る病』の成立」「目次」「内容」のように、理路整然と整理された解説本を読んでも、こういう読み方が身につかないのは当然です。哲学書は理路整然と書かれていないのですから。

追記: 譬えていうなら、哲学書は学術書というより、小説に近いものです。ただし、恐ろしく難解な小説です。

小説を読んでいるとき、後の伏線の描写があって、「何だこれは?」と意味が分からないことがあるでしょう。ところが、後になると、「あれはこの伏線だったのか!」と理解できます。あるいは、一読した後で最初から読み返すと、「最初は気がつかなかったが、これはあの伏線か!」と気づくこともあるでしょう。哲学書を読むということは、そういった体験に似ているのです。

注釈を読んでも哲学書は読めるようにならない

では、哲学書を読みさえすれば、哲学書の読み方が身につくのか? そんな簡単な話でないことはお分かりかと思います。ほとんどの人は、読み方が身につく以前に、読めずに理解できないのですから。

では、注釈が豊富で、理解しやすい哲学書を読めばよいのか? そうでもないと思います。

一応断っておくと、注釈のついた哲学書をバカにしているわけではありません。丁寧な注釈を施す翻訳者の労力は素晴らしいものだと思いますし、哲学書を読むとき、私自身がお世話になることしばしばです。ただ、注釈を読んで理解したからといって、哲学書の読み方が身についているわけではないことは覚えておいたほうがよいでしょう。

例えば、ある哲学書を読んでいるとき、新たな概念が突然出てくるとしましょう。この概念には訳者が注釈をつけてくれており、「○○という概念は重要概念であり、……」といった説明がされています。これを読んで、その概念を一応理解でき、本文に戻ります。しかし、この読み方は、ページを行ったり来たりして内容を繋ぎあわせるという哲学書の読み方とは逆です(本文と注釈を行き来はしていますが)。

本来の読み方であれば、「分からない概念だが、たぶんこういう意味だろう」と推測し、ページが進むと詳しい説明に出会い、「こうだと思っていたが、こういう意味なのか?」と考え、さらに進んで「ああ、こういう意味か!」と納得するという手続きを踏むはずなのです。ところが、注釈を参考にする読み方は、分からない概念が出てきたら注釈を見て、「こういう意味なのか」と理解して、先に進んでしまいます。ページが進んで詳しい説明を見ても、「はいはい、注釈にあったね」と思うだけで、何も考えないでしょう。この調子でどんどん進んで行き、内容を理解はしたものの、哲学書の読み方はさっぱり身につかない……という結果に終わるのです。

もちろん、注釈がないと理解できない内容などは、注釈を読むのも仕方がないでしょう。しかし、あまりにも注釈に頼りすぎると、注釈がないと何も読めなくなってしまう。しかも、哲学書は、注釈があってもまるで読めないものがほとんどです(中には、訳者の意図で、注釈をつけないものまであります)。こういうとき、自分で哲学書を読む方法が身についていないと、手も足も出なくなってしまいます。

そこで私がお薦めしたいのは、哲学書を一読するまでは注釈を読まないこと。注釈を読むのは、いわば答えあわせのようなもので、最後まで自分で読んだ後に、確認のために読むことを薦めます。

追記: 後に行ったウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』読解では、親切につけられた訳注をあえて読まず、原文のみを読解するという試みをやりました。

どうすれば哲学書の読み方が身につくのか

結局、どうすれば読み方が身につくのかというと、自分で哲学書を読むしかありません。

しかし、いきなり哲学書を読めといわれても、読めない人がほとんどでしょう。そこで、誰かに哲学書の読み方を教えてもらうのが大事です。あるいは、誰かの哲学書の読み方を真似るか。

私が昨日『死に至る病』の読解をしたのは、内容の解説をするだけではなく、哲学書の読み方を示したかったからです。これを見て、何となく「哲学書とはこう読むのか」と理解してくだされば、後は実際に哲学書を読んでみることをお薦めします。そして理解できないところにぶちあたったら、とりあえず据え置きにして続きを読んでください。そうして新たな説明を見つけたら、前分からなかったところを再度考えてみる。それを繰り返して、最後まで読み通すのです。結局最後まで分からなかったところは、注釈を見るか、誰かに質問をします。

ちなみに、私は哲学の素人ですが、私の好きな哲学者・中島義道という哲学の専門家が、私と同じことをされています。彼は『「純粋理性批判」を噛み砕く』『カントの読み方』『哲学の道場』にて、哲学の文章を「解説」するのでなく、実際に「読解」するという作業を通じて、哲学書の読み方を読者に伝授しようとしている。私の試みは彼の延長線上にあるものです(中島義道について、私はたびたび記事を書いています。ご興味のある方は、タグ「中島義道」をご覧ください)。

〔2014年3月1日追記〕所与のものとして書きませんでしたが、哲学書を読むにあたって、最低限の論理的思考力、議論をするための基礎知識は必要です。これがまともに身についていない人は、 野矢茂樹『論理トレーニング101題』や野崎昭弘『詭弁論理学』や岩田 宗之「議論のしかた」詭弁の特徴のガイドラインあたりを読んで勉強されたほうがよろしいでしょう。

ちなみに、「哲学書より数学書!」というTogetterまとめがありますが、論理的思考力を身につけたいなら、数学書より論理学書を読んだほうがよいでしょう。そもそも哲学書は論理的思考力を身につけるために読む本ではないので、このまとめの主張自体がおかしいのですが。

プランナーは哲学書を読もうというブログ記事もありますが、これも「ビジネスマンは哲学書を読め」という記事にありがちな「哲学書を読めば柔軟な思考力が身につく」という誤解から書かれています。「柔軟な思考力」や「厳密な論理的思考力」が欲しければ、論理学書を先に読みましょう。

どんな哲学書を読むべきか

〔2013年12月27日の追記〕哲学書を読もうと思っても、どれを読めばよいのか分からない方もいらっしゃるでしょう。現に、読めばよい本の情報を探し求めて、この記事に来られた方もいらっしゃいます。

まず、哲学にも多種多様な問題があり、問題意識によって読むべき本は変わるということを書いておきます。

哲学における問題ですが、形而上学的問題に限っても、「自我」「存在」「時間」「心」などの問題があります。倫理学的問題でいえば、「道徳」「善悪」「義務」などでしょう。政治哲学でいえば「正義」「国家」などですし、分析哲学では「言語」「論理」などが扱われます。「哲学とは何か」を問うメタ哲学すら存在します。

これほど多種多様な問題が、「哲学」という一つの学問に押しこめられています。そして、どこに問題意識を持って哲学に入門するかも人様々ですから、自分の問題意識がどこに向いているのかを理解するのが重要です。形而上学に関心のない人がアリストテレス『形而上学』を、理性に関心のない人がカント『純粋理性批判』を読んでも、何一つおもしろくないでしょう。

というわけで、「哲学を学ぶ人が最初に読むべき本」を挙げるのは非常に難しい。ある人にとっては涙の出るほど素晴らしい哲学書が、別の人にとってはまるでつまらないということがあるからです。もちろん、哲学を志すなら誰しも読むべき古典というものは存在します。しかし、どんなに素晴らしいと評される古典でも、自分がそれに関心が向かないなら、読んでも仕方がありません。

ただ、「自分の問題意識を理解して、後は自分で考えてね」というのも不親切ですから、私なりに、「哲学初心者向けの指針」を書いておきましょう。

まず、文章そのものが難解な哲学書は選ばないことです。文章が難解というのは、例えば

  • カント『純粋理性批判』・ヘーゲル『精神現象学』などのドイツ観念論
  • ハイデッガー・レヴィナス・サルトルなどの近現代の大陸哲学
  • デリダ・ラカンなどのポストモダン思想

などです。

この中には素晴らしい古典も多いのですが、議論以前に、文章を理解すること自体が超難解というものが少なくありません。この難解さには色々理由がありますが、(カントやヘーゲルのように)悪文であること、(レヴィナスやラカンのように)難解な比喩やイメージの叙述が多いこと、(キルケゴールやサルトルのように)わざと捻くれた文章の書き方を好むこと、などです。

この手のものを最初に読むと、哲学を理解する以前に、日本語の翻訳文が全く理解できず、投げ出してしまうことになりがちです。慣れないうちは手を出さないほうがよいでしょう。

一方、議論は難しいものの、文章自体は平易なものもたくさんあります。例えば、

  • デカルト
  • ロック・ヒューム・バークリーなどのイギリス経験論
  • ウィトゲンシュタイン・カルナップなどの分析・言語哲学
  • ウィリアム・ジェームズなどのプラグマティズム

などは、概念や議論の難しさはあっても、(前述のような)悪文や比喩だらけの文章にお目にかかることは少ないので、まだ理解しやすいはずです。

では上記の哲学書を読めばよいのかというと、そうともいえません。キルケゴール『死に至る病』冒頭を読解するでも述べましたが、多くの哲学書は読解に予備知識を必要とするので、予備知識が大量に要求される哲学書は、いくら文章が分かりやすくても初心者向けではありません。

例えば、以下の引用文はハイデッガー『存在と時間(一)』の第1節の6です(太字は引用者)。

(中略)この問題は、中世の存在論では、とりわけトマス学派とスコトゥス学派の動向の内部でさまざまに討議されたけれども、原則的な明晰さが獲得されることはなかったのである。最終的にヘーゲルが、「存在」を「未規定的な直接的なもの」と規定し、この規定を『論理学』にあって、以後のカテゴリー的な解明すべての基礎に置くとき、ヘーゲルも古代の存在論とおなじ視線の方向をたもちつづけている。ただヘーゲルは、事象にかかわる「カテゴリー」の多様性と対比される、存在の統一性という問題、アリストテレスによってすでに決定されたこの問題を手ばなしただけである。

第1節の6とあるように、これは冒頭付近にある文章なのですが、果たして何をいっているのか理解できるでしょうか? もちろん、途中を抜き出して引用しているので難しいのもあるのですが、何よりの難しさは、大量に登場する人名・用語です。「アリストテレス」「ヘーゲル」ぐらいなら、初心者の方でも分かるかもしれません。しかし、「トマス」「スコトゥス」といわれて、誰のことか、どういう議論をした人かすぐに分かりますか? また、アリストテレスの「カテゴリー」やヘーゲル『論理学』といわれて、あの議論のことかとすぐに思い浮かびますか? しかもこれは序の口で、こんな具合の文章がまだまだ続くのです。

ハイデッガーはこの傾向が顕著なので、すべての哲学書がこうではありません。ただ、哲学書は多かれ少なかれ予備知識を必要とします。そして、大量の予備知識が必要なものを読んでしまうと、さっぱり理解できなくなるのです。読解のために予備知識を仕入れていたら、それだけで長大な時間が過ぎてゆきます。

ですから、哲学書を選ぶときは、文章が分かりやすいだけでなく、予備知識が少なくても読めるものを選ぶことです。要求される知識が少なければ、調べつつ読むこともできるからです。ちなみに、私が今まで読解したキルケゴール『死に至る病』やウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』は、必要な予備知識が比較的少ないほうです(皆無ではありません)。

「では、結局何を読めばよいのか?」と思われるかもしれません。そこで、具体的にいくつか紹介しましょう。

まず、プラトン『ソクラテスの弁明・クリトン』(岩波文庫)です。「ソクラテスの弁明」「クリトン」の二編が収録されていますが、どちらも文章は読みやすく、あまり長くないのが理想的です。また、読みやすいながらも内容は簡単ではなく、「正義」「真理」「死」「言語」「対話」といった哲学の諸問題がことごとく詰まった重量級の内容です。

次に、デカルト『方法序説』(岩波文庫)。『哲学原理』や『省察』『情念論』は難解ですが、『方法序説』は初心者でも読めます。デカルトは近代哲学の創始者ですから、近代哲学入門としても役立つでしょう。

最後に、キルケゴール『死に至る病』(ちくま学芸文庫)。私は岩波文庫版を読みましたが、ちくま学芸文庫版は注釈が豊富なので、こちらのほうが分かりやすいでしょう。文章が分かりづらいこの本をあえてお薦めする理由は、予備知識が少なくて済むからだけではありません。

  • 「読みにくい」といっても、わざと難解に書いているわけではなく、そうとしか表現できずに難解に書いているので、丹念に文章を読めばきちんと理解できること。
  • 「死」「絶望」といった馴染みやすい主題を扱っているので、誰にとっても興味を持って読みやすいこと(キリスト教の話が出てきますが、さほど苦にならないはず)。
  • キルケゴールは「生の哲学」の先駆者といえる人であり、後のハイデッガーやサルトルを読むときにも参考にできること。

これらの理由から、『死に至る病』は、初心者でも挑戦する価値のある本だと考えます。

他にも色々ありますが、このぐらいにしておきます。後は、皆様が自分の問題意識にあわせて、入門となる哲学書を探してみてください。

最後に一言。哲学書を初めて読み通して、最初から100%理解できることはまずありません。再度読み直したり、自分で考えたり、誰かに質問したり、誤読したりを繰り返して、ようやく理解できるようになるものです。ですので、分からないことを恐れないでください。今は分からなくても、時が経てば理解できることもありますので。

補足: ニーチェは「読みやすい」か

〔2014年2月1日の追記〕読みやすい哲学者というと、ニーチェが挙げられることがあります。

確かに、悪文や比喩だらけの哲学書に比べれば、ニーチェの文章はかなり読みやすい。論旨があちこちに飛んだり、突飛な比喩が出てくることはありますが、全く理解不能な文章に出会うことはまずありません。哲学の用語が出てくることも少ないのも、読みやすい原因です。

また、難解な形而上学や分析哲学を展開することもありません。「なぜ感性は物自体を認識できるのか」という議論は、予備知識のない人には全く分からないでしょうが、「なぜキリスト教道徳は誤りなのか」「なぜ正義は誤りなのか」という議論は、予備知識がなくても何となく理解できる。ニーチェの議論のほとんどは道徳批判・人間批判・キリスト教批判などに集約されていますから、我々にとって(比較的)馴染みやすいのです。

ニーチェの思想の特徴は、「人間は超人となるために生きるべきだ」とか「キリスト教は人間蔑視の思想だ」といった思想を、あらゆる比喩や文学的表現を使って書いていることにあります。特に、『ツァラトゥストラ』はほぼ全編が比喩といっても過言ではありません。そのことを、中島義道は『哲学塾授業』ではっきりと書いています。

私の見るところでは、ニーチェは大天才だが、数学的厳密さも韜晦趣味も持ち合わせていなくて、その比較的単純な思想に、奇抜な表現や、恐ろしくラディカルな反語や、言葉遊び(Wortspiel)を駆使して、幾重にも意味の衣を着せているだけだ。

つまり、比喩や文章を取っ払えば、ニーチェの思想を理解すること自体はそんなに難しくないのです。思想が単純で、哲学用語も少なく、文章も難解ではないとなれば、「分かりやすい」と評されるのも無理はありません。

ただ、だから分かりやすいニーチェを読め、とは私は申しません。むしろ、哲学の初心者は、ニーチェを読むのは後にしたほうがよいと思っています。

第一に、ニーチェを読んでも哲学書の読み方はそれほど身につかない、というのがあります。前述の通り、ニーチェの思想には緻密な形而上学や道徳哲学や言語哲学はほとんど登場せず、単純な思想を飾る比喩やレトリックで満ちています。これを読むのはおもしろいのですが、読んだところで、文学的センスや読解力は身につくかもしれませんが、哲学的センスはほとんど身につきません。

第二に、ニーチェの文章はなまじ分かりやすいだけに、哲学的読み方を実践しなくてもそれなりに読めてしまう、という問題点があります。比喩やレトリックというのは、雰囲気だけで意味が何となく分かってしまうので、厳密な読み方をする必要がないからです。

以前、キルケゴール『死に至る病』ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』の読解をしたことがありますが、いずれも緻密な文章と議論の積み重ねであり、流し読みや曖昧な理解が許されない哲学書でした。

一方、ニーチェは、流し読みしただけで何となく雰囲気が掴めてしまいます。『ツァラトゥストラ』の「老いた女と若い女」も読解したことがありますが、こんな厳密な読み方をしなくても理解できてしまう。実は、そういう読み方はニーチェを正確に理解できていない可能性があり、また哲学書の読み方も全く身についていないのですが、流し読みでも理解に困らないだけに、そういう安易な読み方を許してしまうわけです。

現代ではニーチェ的思想が珍しくなくなったことも、ニーチェを何となく理解できてしまう原因の一つです。ニーチェの時代で、「絶対的真理など存在しない」「すべての正義は虚構にすぎない」と書いたら、相当センセーショナルであったはずです。しかし、『週刊少年ジャンプ』といった少年誌にすら正義批判が登場する現代では、ニーチェの文章を読んでも「ああ、確かにそうだよね」と、何となく理解できてしまいます。現代では、ニーチェ的相対主義・道徳批判が蔓延しているのです。

ですから、哲学書の読み方を身につけるまではニーチェを読まないほうがよいと私は薦めたい。もっと厳密で難解な哲学書で修練した上で、ニーチェを読むべきです。読みやすいからというのは字面だけの話で、哲学書の読み方も身につかないうちからニーチェを読んだところで、何となく理解はできても、正確な理解はできません。

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哲学書を「読む」こと」への1件のフィードバック

  1. 現在大学生です。
    高校生の時「頭がいい」とは一体なんなのかよくわからなくてショーペンハウエルの「知性について」になんとなく手を出してしまい、大まかに理解できたところもあるもののやはり難解で、哲学書とは賢い人間でなければ完璧に理解できないのかもしれないと完全な理解を諦めていました。今はスタンダールの「恋愛論」にまた安易に手を出してしまい、やはり完璧な理解はできないのか?と悩んでいた際自分の読み方に問題があるのかもとこちらのサイトを読ませていただきました。
    なんだか慰められたといいますか、そうやって繰り返し読むことが哲学書を読むフォーマルなスタイルなのかと安心したところがあります(笑)いっぱい読み返して、付箋も使ってみたりして、哲学書を自分のペースで理解していきたいです。
    参考にさせていただきます。ありがとうございました。

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