キルケゴール『死に至る病』冒頭を読解する

目次

はじめに

以前、キルケゴール『死に至る病』について記事を書いたことがあります(10月30日11月2日)。この二つの記事では読んだ感想を述べただけで、『死に至る病』の具体的な内容については触れておりません。

しかし、「死に至る病 内容」といった検索ワードで当ブログに来られる方もいらっしゃるようで、そういう人に対しては、期待外れの記事内容で申しわけないなあと思っていました。しかし、『死に至る病』の内容を要約して説明するだけなら、他にいくらでも参考になるページがあります。

そこで、今回は『死に至る病』の文章を引用し、それを逐一読解することを試みます。読解に用いるのは岩波文庫の斎藤信治訳です(注釈1)。今回は範囲を絞って、第一編・一のA節のみを読みます。(「序」や「緒論」を除けば)『死に至る病』の冒頭部分であり、初めて『死に至る病』を読んだ多くの読者が混乱するであろう箇所です。

キルケゴールの思想解説ではなく、あくまで『死に至る病』の読解です。難解かつ理解困難な哲学の文章をいかに読み解くか、それを実践したいと思います。

追記: 同じような試みを、以下の記事でも行いました。ご興味がありましたらご覧ください。

また、哲学書を「読解」することについて、哲学書を「読む」ことという記事に書きました。よろしければ、こちらもあわせてお読みください。

『死に至る病』p.20 6-11行目……字面は難解だが、図解するとシンプル

「一 絶望が死に至る病であるということ。」「A、絶望は精神における……」という二つの見出しは飛ばして、本文から読み始めます。岩波文庫版でいうと、p.20の6行目からですね。

人間は精神である。精神とは何であるか? 精神とは自己である。自己とは何であるか?

まず、「人間」=「精神」=「自己」という図式が提示されます注釈2。「精神って何?」「自己って何?」と色々疑問がわくかもしれませんが、それは一旦措いて、読み進めてみましょう。

ここまでは普通ですが、次にキルケゴールはこんなことを書き始める。

自己とは自己自身に関係する所の関係である。すなわち、関係ということには関係が自己自身に関係するものなることが含まれている──それで自己とは単なる関係でなしに、関係が自己自身に関係するというそのことである。

「関係」という単語が乱発された難解な文章です。しかも、ここだけではなく、こんな調子の文章がしばらく続くのです。ここで『死に至る病』を読むのを辞めた、という方も多いのではないでしょうか?

難解ではありますが、一つ一つ読み解いてみましょう。

自己とは自己自身に関係する所の関係である。

主語が「自己」「自己自身に関係する所の」は修飾語で、「関係」は述語です。ですから、平たくいえば「自己とは自己自身との関係である」ということを述べている。意味は一応分かるものの、まだピンと来づらいでしょう。

ただ、その後に「すなわち」という言葉が続く。「すなわち」というからには前文をいい換えた文章のはずですので、これを読めば、もう少し理解できるに違いない。意味を深く考える前に、こちらを読みます。

すなわち、関係ということには関係が自己自身に関係するものなることが含まれている──それで自己とは単なる関係でなしに、関係が自己自身に関係するというそのことである。

このあたりから、字面を追うだけでは理解できなくなってくるのではないでしょうか。この『死に至る病』に限らず、概念や議論が錯綜するために、文章だけでは理解が難しくなるのはよくあることです。

こういうとき、文章を図解して考えるのが大事です。意味が分からなくても、とにかく文章の通りに図を描いてみましょう。私の下手な絵ですが、以下の図をご覧ください。

image1and2

「自己とは自己自身に関係する所の関係である」。これを表したものが図1であり、これは、先ほどの文章から読み取った通りのことです。

しかし、その「関係」は、さらに「関係」自身と「関係」しあう。これを表したものが図2です。

関係ということには関係が自己(=関係)自身に関係するものなることが含まれている──

ここの読解のポイントは、ここでいう「自己」とは、「関係」のことを表している、つまり「関係」同士の「関係」について語っているのだと見抜くことです。これを、丸で括ったほうの「自己」を指しているのだと捉えるとと、何をいっているのか理解できなくなります。

簡単にまとめると、「関係」の中には、

  1. 「関係」自身と関係することがない「関係」
  2. 「関係」自身と関係することがある「関係」

の二種類があり、1番は図1、2番は図2に対応しているのです。

この二つの図を踏まえて読むと、後の文章の意味が分かるはずです。

それで自己とは単なる関係でなしに、関係が自己自身に関係するというそのことである。

「単なる関係」とは図1、「関係が自己自身に関係するというそのこと」とは図2の状態を指すのですが、「自己」とは前者でなく後者のことだとキルケゴールはいっているのです。

さて、ここまで一応理解はできたものの、結局何をいいたいのか分からない、という人が多いのではないでしょうか? ただ、もう少しだけ我慢して読み進めてみましょう。詳しい解説は、段落の議論の整理にて行います。

人間は有限性と無限性との、時間的なるものと永遠的なるものとの、自由と必然との、統合である。要するに人間とは統合である。統合とは二つのものの間の関係である。しかしこう考えただけでは、人間はいまだなんらの自己でもない。

今度は「統合」という新たな概念が出てきました。さらに、「有限性」「無限性」「時間的」「永遠的」……と多くの用語が出てきて、うんざりするかもしれません。

まず、「有限性」「無限性」以下の用語ですが、これは後々に議論されるので、今は読み飛ばして結構です。このように、意味が分からない説明や用語が出てきた場合、一旦飛ばしてしまうのも手です。後でもっと分かりやすい説明が出てくることがあるので、後の説明を読んだ後、また戻ってきて、読み直せばよいのです。

「有限性」「無限性」などを除外して読むと、とにかく、人間は二つの相反する概念の「統合」である、ということが読み取れます。ところが、「こう考えただけでは、人間はいまだなんら自己ではない」。これはどういうことか?

ここで、ピンと来てほしいことがあります。この文章にある「統合」とは、先ほどの図1で示されていた、「関係」自身と関係することがない「関係」のことを指しているのではないか、と。

前述のように、「自己」とは、図1で示されていた「単なる関係」ではなく、(図2に示されていたような)「関係」自身と関係しあう「関係」なのです。ここにある「統合」「二つのものの間の関係」ですから、「単なる関係」にすぎない。だから、これはまだ「自己」ではないのです。

人によっては、この時点でこのことに気がつくのは難しいかもしれません。もし読み取ることができないとしても、次の段落に具体的な説明があるので、それで気がつくことは可能ですし、ある程度読み進めた後、もう一度ここに戻って読み直してみたら、気がつくということもあります。このへんは、哲学の文章をどれだけ読み慣れているかの問題なので、慣れないうちは、気がつけなくても問題ありません。

『死に至る病』p.20の6-11行目の整理

さて、一段落読み終えたところで、これまでの議論を整理してみましょう。

ここで押さえておきたいのは、以下の点です。

  • 「自己」というものが、複数の「自己」「関係」から成り立つということ
  • 「自己」「関係」を持つだけでは、「統合」にすぎず、「自己」ではないこと
  • 「自己」「関係」であるだけにとどまらず、「関係」「関係」自身と「関係」することも含まれるということ

上記の点は、これまで議論した内容の要点ですが、これを見てもなお、何をいっているのか分かりにくいはず。そこで、具体的な事例に置き換えて考えることにしましょう(哲学書には抽象的な文章が多いので、具体例を考えるのは重要な読み方です)。

我々人間は、いくつもの「自己」から成り立っています。「自己」というと分かりにくいでしょうが、例えば、優しい面、冷酷な面、悲しい面、恐ろしい面etc.など、複数の相反する要素を持ちあわせているのだと考えてください。

そして、我々人間は、こうした矛盾する要素をあわせ持ちながらも、多重人格や分裂症に陥ることはなく、一つの「自己」を持っている。それは、これらの矛盾する要素が「統合」され、一つに昇華されているからです。

しかし、この「統合」だけでは人間は「自己」とはいえない。「自己」たりうるためには、「関係」同士の「関係」が必要である。そうキルケゴールはいうのです。

ここの議論は、ヘーゲル哲学に詳しい人、あるいは心理学の自己意識などに詳しい人には分かりやすいかもしれませんが、哲学そのものに慣れていない方にはきついかもしれません。もう少し詳しく説明します。

我々は、ふだんは「自己」についてなど考えずに生活しています。このとき、我々はただの「統合」であって、「自己」ではない。

しかし、あるとき、「自分とは何なのか」「自己とは何か」と問う機会がやってくる。こうして、「自己」「自己自身」「関係」しているとき、初めて「自己」が存在しうるのです。

簡単にいえば、「自己」というものが独立して存在しているのではなく、「自己自身」との「関係」において捉えられているということです。ヘーゲルの「即自」「対自」をご存じの方には分かりやすいでしょうが、ご存じない方でも、「自分が自分について考えて、初めて自分が存在できるのだ」と考えれば、大体理解できるのではないでしょうか。

ここまででp.20のl.6-11の読解は終わりです。わずか6行ながら、相当に厄介な文章でした。

『死に至る病』p.20 12行目とp.21 1-4行目……「自己」と「自己」の「関係」を具体的に説明している

ここまでの議論を理解できたものとして、次の段落に進みます。

二つのものの間の関係においては関係それ自身は否定的統一としての第三者である。それら二つのものは関係に対して関係するのであり、それも関係の中で関係に対して関係するのである。たとえば、人間が霊なりとせられる場合、霊と肉との関係はそのような関係である。

これは、「統合」「関係」「自己」という前の段落の議論を詳しく説明したものです。「霊と肉」という例が挙げられているので、これを元に図解します。

image2

図を元に考えてみましょう。人間は、「霊」「肉」「関係」「統合」)として捉えられる。これが図3であり、先の図1と同じ構造です。

「関係の中で関係に対して関係する」というのは分かりにくい表現ですが、図3を見れば分かるでしょう。「霊」「肉」は、「関係」「統合」)の中に存在しており、その外に出て行くことはないのです。

なお、「否定的統一」というヘーゲル哲学の用語が使われていますが、それを知らなくても、意味はとれるでしょう。「霊」「肉」は相反する概念ですから、互いに互いを「否定」しあいながら「自己」「統一」されてゆくといったニュアンスです。

これに反して関係がそれ自身に対して関係するということになれば、この関係こそは積極的な第三者なのであり、そしてこれが自己なのである。

「これに反して」とある以上、前の文と逆のことを述べています。予想がつくかもしれませんが、図3(すなわち図1)の逆ということは、図4(すなわち図2)です。「霊」「肉」「関係」「統合」しているとき、その「関係」「関係」しあうようになれば、これは「積極的な第三者」であり、これは「自己」となるのです。

前の段落と比較しながら読むと、かなりよく分かるのではないでしょうか。簡単にまとめてみます。

人間が「霊」と「肉」という矛盾する要素から成立するように、人間は、矛盾するいくつかの面から成り立っています。それらの「関係」から人間は成立します。

しかし、矛盾する要素の「関係」だけでは、人間は「自己」となることはできない。人間が「自己」となるためには、「関係」であるだけでなく、「関係」自身と「関係」しあうのでなければならないのです。

『死に至る病』p.21 5-9行目……「自己」の「措定」という新たな議論の展開

ここまでの議論を整理したところで、次の段落に進みます。

自己自身に関係する所のそのような関係、すなわち自己、は自分で措定したものであるか、それとも他者によって措定されたものであるかいずれかでなければならない。

この文章はさほど難しくないでしょう。今まで散々「自己」とは「関係」だと述べてきたわけですが、その「関係」はいかにして成立したのか。「自己」によるものか、「他者」によるものか、と問うているわけです。

さて自己自身に関係するところの関係が他者によって措定されたものである場合、無論その関係が第三者なのではあるが、しかしその関係すなわち第三者は更にまたその全関係を措定したところのものに関係するところの関係でもある。

ここではまず、「関係」が「他者によって措定されたものである場合」を考える。

「第三者」というのは、前の段落で出てきた「否定的統一」のことです。「他者」とはそれと同じく「第三者」なのですが、「他者」「更にまたその全関係を措定したところのもの」と関係している。

キルケゴールは明確に書いていませんが、「しかし」と続くことからも分かるように、「他者」「更にまたその全関係を措定したところのもの」と関係することによって、「積極的な第三者」となるので、この関係が「自己」でありうるのです。

分かりにくい議論ですが、図に描いてみると分かりやすい。

image3

「自己」「他者によって措定されたものである場合」を表したものが図5です。

「自己」「他者」との「関係」において捉えられる。これは、前に述べた「統合」と同じであり、このときの「関係」はまだ「第三者」にすぎません。

ところが、この「他者」が、さらに「更にまたその全関係を措定したところのもの」、すなわち「自己」「関係」によって捉えられるとき、それは「自己」たりうる。

わけの分からないように見える文章ですが、こう考えると分かりやすいでしょう。

我々が何となく他人とコミュニケーションをとるとき、我々は「自己」がどういうものかを意識していません。他人との会話を、楽しいとか不快だとか感じることはあるかもしれませんが、それは、我々が他人に対して抱く感情にすぎない。このとき、我々と他人は「第三者」的な「関係」にすぎません。ここには、我々と他人という一つの「関係」しか存在しないからです。

しかし、我々があるとき、「他人から見て自分はどのように見えているだろうか」と意識することがあります。「自分は相手にとってどう思われているだろうか」などと。このとき、「自分」と「相手」の「関係」について考えている我々が存在します。いいかえれば、「自分」と「相手」の「関係」に対して、我々は関係しているといえるのです。この我々こそが、「自分」と「相手」の「全関係を措定したところのもの」であり、このとき我々と他人は「第三者」的な「関係」から脱却し、「自己」たりうるわけです。

ここの読解のポイントは、「更にまたその全関係を措定したところのもの」「自己」であることを見抜くことです。これまでの議論において、「関係」とは常に「自己」との関わりにおいて捉えられてきました。ですから、「他者」が介在してきたところで、結局それと「関係」するのは「自己」に変わりない、ということを読み取ってください。

『死に至る病』p.21 10-17行目とp.22 1-16行目……「絶望」「分裂関係」

「かかる派生的な措定された関係がすなわち人間の自己なのである」以下の文章は、前の段落をまとめただけの文章です。自己は、自己自身に関係すると同時に、他者とも関係するのだといっています。

この文章の後、ようやく「絶望」という概念が登場します。

そこからして本来的な絶望に二つの形態の存しうることが帰結してくる。

なぜ「絶望」は二つの形態なのか、「本来的」とはどういうことか、という議論は後々に出てくるので、ここでは触れられません。ですので、ここは軽く読み流してください。

もし人間の自己が自分で自己を措定したのであれば、その場合にはただ絶望の一つの形態、すなわち絶望して自己自身であろうと欲せず自己自身から脱れ出ようと欲するという形態についてのみ語りうるであろう、──絶望して自己自身であろうと欲する形態などは問題になりえないはずである。〔自己が絶望して自己自身であろうと欲しうるのは一体何によるのであろうか?〕

先ほど検討されていなかった「自分で自己を措定」する場合が、ここで登場します。キルケゴールによれば、「本来的な絶望」には、「絶望して自己自身であろうと欲しない」場合と、「絶望して自己自身であろうと欲する」場合があるのですが、「自分で自己を措定」する場合には、前者しかありえないのだそうです。

「自分で自己を措定」とは分かりにくい表現ですが、先ほどの図5を思い出してください。この図の「他者」を「自己」に置き換えたものが、「自分で自己を措定」するということです。

image3

しかし、「自己」「自己」とが「関係」するのが「自己」であり、それに対して「措定」するのが「自己」となると、延々と「自己」の連鎖が続くのではないか? 実はその通りで、この連鎖について述べたのが、後で出てくるp.22の13行目の途中だと考えられます。

こんな「自己」の連鎖は、「絶望して自己自身であろうと欲しない」場合しかありえないとキルケゴールは述べています。その理由は、この後の文章で述べられています。

それは自己という全関係が全く依存的なものであり、自己は自己自身によって平衡ないし平安に到達しうるものでもまたそういう状態のなかにありうるものでもなしに、ただ自分自身への関係において同時にその全関係を措定したものに対して関係することによってのみそうでありうることを示しているのである。

相変わらず趣旨が分かりづらいキルケゴールの文章ですが、読解してみましょう。

例えば、他人を全く信じることなく、一人だけで孤高奮闘している人がいるとしましょう。その人はとても自我が強く、自分は一人だけで十分であり、自分には他人など必要ないと思っている。その人は、「自分で自己を措定」しているわけです。

しかし、そんな人でも苦しい時や辛い時がやってくる。が、彼は他人を必要ないと思っているのですから、他人に頼ることなどできません。しかし、自分一人ではこの苦難を乗り越えることができないことも知っている。このとき、その人は「苦難を乗り越えることができない自己」に絶望し、「こんな自分でなければいいのに」「もっと強い自分であればいいのに」と思い始める。「絶望して、自己自身であろうと欲しない」、平たくいえば、自分から逃げようとするのです。

が、「全関係を措定したところのもの」こそが「自己」なのですから、「自己」から逃げることなど不可能です。「自己」一人で生きることもできない、「自己」から逃げることもできない。このとき、人は「他者」に頼ることになる。それは、「自己という全関係が全く依存的」なものであり、「他者」「関係」せずにはいられない「依存的」な存在だからです。

ここまで考えると、次の文章は分かりやすいはずです。

それ故にまた絶望のこの第二の形態(絶望して自己自身であろうと欲する形態)は単に絶望の一種特別なものにすぎないものなのでは断じてなく、むしろその逆に結局あらゆる絶望がそのなかに解消せしめられそれへと還元せしめられうる所以のものである。

ここまで読んだ方は薄々気がつかれているかもしれませんが、キルケゴールは、「自分で自己を措定」することは基本的には不可能だと考えています。人間は「全く依存的」なものですから、最終的には他者が自己を措定する方向に進まざるをえない。だから、「絶望して、自己自身であろうと欲しない」形態も、最終的には「絶望して自己自身であろうと欲する形態」「還元」するのだと述べています。

次の文章は、今までの議論を長々と具体例で説明しているだけなので省略します。次の文章は、p.22の13行目の途中からです。

絶望における分裂関係は決して単純な分裂関係ではないので、自己自身に関係するとともに或る他者によって措定されているという関係における分裂関係である、

「分裂関係」とは一体何なのかという疑問がわきますが、これは次の段落で明らかになるので、今は措きます。

──したがってかの自分だけである関係の中での分裂関係は、同時にこの関係を措定したところの力との関係の中で無限に自己を反省するのである。

これは前後に説明がほとんどなく、非常に分かりづらい点です。正直、私もここは正確に理解できていませんが、恐らくこういうことです。

「自己」「自己」によって措定する場合を考えます。ところが、「自己」とは「他者」と違い、「第三者」ではありません。したがって、ここでは「否定的統一」が発生せず、「自己」を措定する「自己」を措定する「自己」とは何か、さらにそれを措定する「自己」は何か……と、無限遡求に陥ってしまう。そのことを「無限に自己を反省する」と表現しているのではないでしょうか。

『死に至る病』p.22 17行目とp.23 1-2行目

さて、最後の段落です。

そこで絶望が全然根扱ぎにされた場合の自己の状態を叙述する定式はこうである、──自己が自己自身に関係しつつ自己自身であろうと欲するに際して、自己は自己を措定した力のなかに自覚的に自己自身を基礎づける。

ダッシュ(──)以降の文章は、これまでの議論の要約です。自己自身でありつつ、「自己を措定した力」(それが「自己」であれ「他者」であれ)によって自己自身が成立する、といっているのです。

ここで重要なのは、「絶望が全然根扱ぎにされた場合」という文章です。つまり、これまでの「自己」「他者」に関する議論は、「絶望」というものが存在しない場合の話であったわけです。

そう考えると、前述の「絶望における分裂関係」の意味が理解できる。「自己」とは、自己自身との関係と、「他者」との措定の関係の「統一」によって成立するものなのですが、「絶望」によって、その「統一」が「分裂関係」に陥ってしまう。つまり、「絶望」とは、「自己」「統一」的関係を分裂させるようなものとして捉えられているのです。

哲学書を「読む」ために必要な心構え

これで『死に至る病』の冒頭の読解を終えます。

これはまだ序盤であり、ここからさらに膨大な文章が残っています。しかし、『死に至る病』で最も分かりづらいのは、恐らくこの冒頭箇所です。以降の箇所が簡単だとはいえませんが、後は何とか読み進めることができるはずです。

これまでの説明を踏まえて、哲学書を読むための心構えを書いておきます。

  • 現代文の問題文を読むように、主語・述語・修飾関係・接続語などの文の構造を読み解いてゆく
  • 分かりづらい議論は、具体化・図式化を用いて話を平易にする
  • どうしても理解できなければ、一旦飛ばして、後の説明を読んでから戻ってくる

なお、哲学書を読むにあたって、もう一つ重要なことがあります。それは、哲学書によっては、別の哲学者の学説を背景知識として持っている必要があるということです。

哲学書の中には、他の哲学者の議論を引用するものがあります。「ライプニッツのモナド的な……」「デカルト的コギトについて……」「ハイデッガーの存在論に則っていえば……」という具合です。『死に至る病』にはほとんどありませんが、「精神」「否定的統一」など、要所でヘーゲル哲学の概念が出てきましたね。

この手の議論については、その哲学者の著作を読んでいないにしても、せめて大まかな思想を知っていることが重要です。つまり、「デカルト的コギト」という言葉が出てきたとき、デカルトの『方法序説』や『省察』を読んでいないとしても、デカルトがどういう思想を唱えていたか、「コギト」はどういう意味かぐらいは知っておかなくては理解できません。

デカルトについて知らなくても読めるように書かれている哲学書ならよいのですが、「アリストテレスのカテゴリー論について……」とか、「デカルト的コギトでは……」とか「カント的定言命法において……」のように、読者が背景知識を持っていることを前提に書かれている場合、それを知らなければ歯が立ちません。哲学とは哲学史を勉強することではありませんが、哲学史をある程度知っておかないと、哲学書が読めないのも事実です。

あと、哲学書の邦訳の中には、翻訳の際に誤訳や誤解が含まれており、どれだけ日本語を読んでも理解不能なものもあります。カント『純粋理性批判』(岩波文庫)などはこの代表例です。ですから、邦訳は慎重に選んでください。

補足: 哲学書を「読み飛ばす」ことの効用

〔2014年2月22日の追記〕意味が分からない説明や用語が出てきた場合、一旦飛ばしてしまうことが重要だと述べました。しかし、何でもかんでも読み飛ばしていたらわけが分からなくなるのではないか、と思われる方もいらっしゃるでしょう。確かにその通りです。

しかし、最初の抽象的説明を読んでも全く理解できないが、(後に続く)具体的説明を読んだ後で抽象的な箇所を読むと、よく理解できる場合があります。冒頭部分ではありませんが、キルケゴール『死に至る病』の「β、絶望して自己自身であろうと欲する欲望──強情。」(pp.110-122)がその典型ですので、これを例に説明しましょう。

この節では、前の「α、絶望して自己自身であろうと欲しない場合、──弱さの絶望。」の続きで、「絶望」の段階がさらに高まった状態について論じています。が、「意識の上昇」とか「ストア主義」とか「神」といった説明は出てきますが、具体的な説明がほとんど出てきません。前の節は具体的な説明が多く分かりやすかっただけに、ここは恐ろしく難解で、まともに読むと、ちんぷんかんぷんなはずです。

ところが、p.118になると、とても分かりやすい説明が出てくる。一部引用します。

悩んでいる者には、自分はこういうふうに救ってもらいたいといういろいろの仕方というものがある。(中略)あらゆることを可能ならしめる「救済者」の手のなかでは自己はほとんど無に等しきものとならなければならない。(中略)このような屈辱に比すれば、よし彼がいま抱いている苦悩(中略)それはまだしも彼にとっては耐えられるのであり、したがって自己はもしこのまま彼自身として存在することさえ許されるならばむしろこの苦悩の方を選ぶのである。

全文引用すると長くなるので、一部引用にとどめましたが、少し分かりづらくなりました。説明しましょう。

「自己」の罪深さを深く自覚している人がいるとします。彼は、「自己」の罪深さによって苦しんでおり、「自己」自身によってこの罪深さから脱却することは不可能だと考えていますので、「自己」以外の「救済者」によって、罪深さから「救済」されることを望んでいる。

このとき、「自己」は罪深き「自己」を自ら救おうというような傲慢を捨て、一切を「救済者」に任せるのであり、いわば「自己」を捨てている。これが、「絶望して自己自身であろうと欲しない場合」です。

しかし、すべてを「救済者」に任せるということは、「自己」がそれだけちっぽけな、惨めな、愚かな存在となるということです。「救済者」による「救済」を祈るとき、「自己」の手によって「自己」を「救済」することもできない愚かな存在であることを自覚せざるをえないからです。それは大変な「屈辱」であり、そんな「屈辱」を享受するくらいなら、「救済」を拒否し、あくまで「自己」の罪深さに苦しみ続けるほうを選ぶことがある。これが、「絶望して自己自身であろうと欲する場合」です。

少し違う例ですが、こういう例を考えると分かりやすいかもしれない。

あなたが身体に不自由を抱えており、介護者がいないとまともに生活もできないとします。あなたにとって介護者とは「救済者」であり、介護者がいることによって自分は生活の不自由から解放されているのですから、介護者によって「救済」されているともいえます。

しかし、食事から排泄に至るまで介護者に世話をしてもらうのは、自分という人間の尊厳が貶められているような気がして、とても「屈辱」的に思える。ならば、いっそ介護者を解雇して、不自由でも構わないから、自分の力で生活できるようにと努力してみる。これが、「救済」を拒否し、あえて不自由を選ぶことであり、すなわち「絶望して自己自身であろうと欲する場合」です。

こう考えると、「絶望して自己自身であろうと欲する場合」というのが、とても分かりやすくなったのではないでしょうか。そして、これを踏まえた上で「β、絶望して自己自身であろうと欲する欲望──強情。」を読み返すと、最初はわけが分からなかった叙述も意味が分かってくるはずです。

この節については、最初の叙述は読み飛ばして、p.118の具体的説明から読み始めるほうが絶対に分かりやすい。p.110の冒頭部分にいつまでも齧りついても理解できませんが、p.118を読んだ後でp.110から読み返せば、すんなり理解できるはずです。分からないことを「読み飛ばす」ことには、こうした効用があるわけです。

注釈

  1. ちくま学芸文庫の桝田 啓三郎訳は訳注が豊富につけられており、岩波文庫よりもこちらのほうがよさそうなのですが、私は岩波文庫版しか読んでいないので、こちらを読みます。 本文に戻る
  2. 西洋哲学に詳しい方は、「人間=精神」という考え方に、ヘーゲル哲学の影響を読み取ることができるでしょう。それは正しいのですが、別にそれが読み取れなくても、『死に至る病』の文章を読むことは可能です。哲学書にもよりますが、『死に至る病』は、哲学史の知識が欠けていても充分読むことができる書物です。 本文に戻る
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キルケゴール『死に至る病』冒頭を読解する」への6件のフィードバック

  1. すごく 参考になりました。 ありがとうございます。

    少し 疑問を書かせていただきます。

    もし人間の自己が自分で自己を措定したのであれば、その場合にはただ絶望の一つの形態、すなわち絶望して自己自身であろうと欲せず自己自身から脱れ出ようと欲するという形態についてのみ語りうるであろう、──絶望して自己自身であろうと欲する形態などは問題になりえないはずである。〔自己が絶望して自己自身であろうと欲しうるのは一体何によるのであろうか?〕

    ここのところが、いまいち よく理解できません。

    ここのところは、普通に考えて段落をかえるべきで、『人間の自己が自分で自己を措定する』とゆうことが どうゆうことかを詳しく説明してくれないと、理解しにくいです。

    とにかく、人間は 自分の力だけでは本来的な絶望を克服できない ということを言っているのは感じるのですが、強引だと思います。

    • > H.Nagano様
      初めまして。コメントありがとうございます。
      私の解説に分かりづらい部分があったようで、失礼致しました。解説に加筆をしておきましたので、ご覧ください。

      解説とは別にコメントをしますと、

      ここのところが、いまいち よく理解できません。

      どうゆうことかを詳しく説明してくれないと、理解しにくいです。

      理解できないとおっしゃるのは素晴らしいことですが(分かった気にならないのは大事です)、なぜ分からないのか、どこまでなら分かるのかを書いた上でご質問いただけますか?

      記事の冒頭にも書いたかと思いますが、この記事は、哲学書を一文一文「読解」しようという試みです。哲学書を他人の解説抜きで、自力で「読解」できるようになろうという試みです。
      私が『死に至る病』を読解したのは、あくまで「哲学書を、解説抜きでいかに読解するか」というデモンストレーションであって、「これを読めばキルケゴールが分かる」みたいなハウツー本のつもりで書いたのではありません。

      それに対し「説明がないと分かりづらいので説明してくれ」というのは、丸っきり記事の趣旨に反していると思いませんか? 自力で「読解」どころか、他人の解説ありきの姿勢なのですから。
      もちろん、私の解説が完璧とは申しませんし、すべてを自分で理解できるようにせよとは申しませんが、せめて「自力ではここまで読解できたが、これ以降が無理なので読解してほしい」という姿勢で臨んでいただきたいものです。

  2. meteorite1932 様へ

    親切な返答 また解説 ありがとうございました。

    あれから、自分で色々と考えたところ、キルケゴールの著作の
    底に流れている心情は、ロマン主義に対するアンビバレンスだと感じました。

    また、当時のデンマークの教会に対しても。

    そこから考えると、『自分で自己自身を措定する』ということは、ロマン主義者たちがやっていいたこと、つまりキリスト教的教条主義から離れて 自らの意志で永遠の浄福にいたろうとすることではないか?

    ロマン主義者たちは、試みたがイロニーに陥ってしまった。

    しかし、至る所は同じであるから、(本来的)自己自身であろうとするかぎり、それは絶望ではなくむしろ希望である。

    このことが、人間が自ら (本来的)自己を設定することの不可能性を証明している。

    なぜならば、巷に『絶望して(非本来的)自己自身であろうと欲する』人々があふれているからだ。

    『絶望して(非本来的)自己自身であろうと欲する』人々が 現実に不幸な状態であるという多数の事実がないと、この論理はなりたたないので、キルケゴールの生きた時代はそうだったのだと思います。

    ニーチェの先駆のようの人々もいたのだと思う。

    つまり、『もし人間の自己が自分で自己を措定したのであれば』と部分は
    わたしは『人間が絶望を克服できるような本来的自己を設定できたとすれば』と理解しました。

  3. こんにちは。

    キルケゴールの思想解説でなく、哲学書の読解としての記事の主旨に即して、「人間の自己が自分で自己を措定する」の実態把握を試みるなら、同書の、『罪のソクラテス的定義』や『罪の赦しに対して絶望する罪』の部を読んでから戻ると解り易いと思います。「欲するor欲さない」と、欲求の話が多い本書ですが、そこでは、汝成る「べし」や信ず「べし」いう、「当為」が出て来ます。当為の発話者は「神(他者)」な訳ですが、神様から斯くあるべしと言われた在り方で自己が在ろうと欲する事が、他の言い方もされる絶望の快癒という事なのでしょう。ここから考えると、自己がそうあろうと欲したり欲さなかったりする自己のあり方について、そうあるべしという当為を発するのも他者でなく自己である場合が、「人間の自己が自分で自己を措定する」なのではないでしょうか。『絶望して、自分自身であろうと欲する絶望、反抗』の部の説明とも大体合致すると思われます。

  4. >ここで重要なのは、「絶望が全然根扱ぎにされた場合」という文章です。つまり、これまでの「自己」や「他者」に関する議論は、「絶望」というものが存在しない場合の話であったわけです。

    この部分の
    「これまでの」というのは
    どこを指しているのでしょうか?

    普通に読むと、

    「絶望が全然根こぎされた場合」(絶望がない場合)

    「自己が自己自身に関係しつつ自己自身であろうと欲するに際して、自己は自己を措定した力のなかに自覚的に自己自身を基礎づける。」


    (絶望がある場合)

    「それ故にまた絶望のこの第二の形態(絶望して自己自身であろうと欲する形態)は単に絶望の一種特別なものにすぎないものなのでは断じてなく、むしろその逆に結局あらゆる絶望がそのなかに解消せしめられそれへと還元せしめられうる所以のものである。」

    この対比構造だと思うのですが。

    つまり流れとしては

    自己の定義

    自己によって措定されたものである場合
    他者によって措定されたものである場合

    自己による措定の場合絶望は1種類だが他者による措定の場合、絶望は2種類ある。そして究極的に後者の絶望に帰結する。

    ちなみに絶望がない場合〜。

    となるのではないでしょうか?

    キルケゴールを読んだことがあるわけではないので、トンチンカンなことを言ってたらすみません。

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