遠藤周作『沈黙』読了

遠藤周作『沈黙』を読み終えました。

何年か前に読んだことがありますが、キルケゴール『死に至る病』を読んだ後の今となっては、印象が大きく違います。特に、ロドリゴ司祭が、自ら背教してでも苦しむクリスチャンを救おうとする場面。

  • 自らの神への愛を守るためには、クリスチャンたちを苦しめなくてはならない
  • クリスチャンたちを救うためには、自らの神への愛を捨てなくてはならない

この恐るべきジレンマは、『死に至る病』においても、克明に描かれているのです。

……もしも人間が愛の故のほかならぬ彼のこの献身の故に、もう一人の人すなわち彼の愛人が最大の不幸に陥ることになるかもしれぬということを見出さねばならなかったとしたら、どうであろうか?(『死に至る病』)

2013年12月8日に、「キルケゴール『死に至る病』冒頭を読解する」を書きました。

『沈黙』が批判される理由

〔2014年3月27日追記〕遠藤周作『沈黙』は大変優れたキリスト教文学ですが、同時にキリスト教界から多数の批判を浴びた小説でもあります。

批判の内容は色々ありますが、最も批判されやすいのは、ロドリゴが踏み絵を決意した理由が、イエスの言葉を聞くという「内的体験」であったことではないでしょうか。

ロドリゴは、「踏むがいい」というイエスの言葉を聞き、自分は神の教えに従っているのだと確信して、絵を踏みます。棄教後日本人として暮らす中でも、彼はカトリック教会が非難しようと自分はイエスの教えを守ったのだと確信して生きます。

しかし、この考え方には三つの問題点があります。

  1. 「イエスの声を直接聞いた」と主張する点で、キリスト教の思想に反すること
  2. 内的体験であるために存在の確認が不可能であること
  3. 内的体験であるためにあらゆる思想を許容してしまうこと

まず1番。キリスト教では人間は神の声を直接聞くことができません。だからこそ神の言葉とされる『聖書』を読んだり、神の代弁者である教会が重視されるのです。

ところが、ロドリゴは「自分は神の言葉を直接聞き、それに従って絵を踏んだのだ」といっているわけで、これは恐るべき異端思想です。

2番は、キリスト教以外にも関わる問題です。

ロドリゴが、自分は神の教えを守っていると確信する根拠は、「踏み絵の直前のイエスの声を聞いた」ことにあります。しかし、それを聞いたのはロドリゴだけで、他の誰も聞いていません。多くの人がイエスを目撃したわけでもありません。その根拠を支えるのは、ロドリゴの体験談だけです。

もしかすると、ロドリゴが聞いたのは幻聴にすぎないかもしれない。極限状況で幻覚を見たのかもしれない。そう考えてゆくと、ロドリゴが聞いたのは本当にイエスの声なのか疑わしくなってきます。ロドリゴがそれを聞いたという以外に根拠がない以上、ロドリゴ以外の誰にもその存在を確認することができないのです。

この考えをさらに推し進めると、「神の声を聞いた」といえばどんな思想でも許容されることになります。これが3番の問題点です。

例えば、誰かが「私は神の言葉を聞き、人類は生きるに値しないと教えられたので、人類を滅ぼします」と宣言したとしましょう。これに対してどのように反論するでしょうか。

『聖書』にそのような教えはないと反論するでしょうか。人道的な見地から批判するでしょうか。しかし、いずれも「いや、私は神の声を確かに聞き、人類を滅ぼせという命を受け取ったのだ」といわれたら、反論することができません。「神の声」というのがその人の内的体験であるために、その人以外に存在の確認ができないからです。「聖書や人道の見地からありえないとおっしゃるが、私は確かに神の声を聞いたのだ。もし神の声ではないというなら、その根拠を出してみよ」といわれたら出せません(もっとも、その人も「神の声」である根拠を出せませんが)。

この人とロドリゴの共通点がお分かりでしょうか。『聖書』や教義といった確認可能なものではなく、「私に神の声が届いた」という確認不可能なものを根拠に信仰を行うと、棄教是認から人類滅亡まであらゆる思想を許容することになってしまうのです。

『沈黙』の問題点は、ロドリゴが棄教する根拠を、「ロドリゴが聞いたイエスの声」という確認不可能なものに求めていることにあるわけです。

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遠藤周作『沈黙』読了」への3件のフィードバック

  1. はじめまして。『死に至る病』の読解、興味深く拝読しました。この件ですが、神秘的体験の、公共的観点からの明証不可能性―故に各自を内的孤独に突返す所の―は、『おそれとおののき』で扱われるテーマで、ルーテル立脚のキルケゴールのみならず、多かれ少なかれ全教派同じなのだと思います。

    なので、危機的状況で神様の声を直接聞く事自体は、無宗教的世俗社会が基督教を危険視する理由にこそなれ、カトリが遠藤を批判する理由にはならないんじゃないかな、と。

    神秘的内的体験が非公共的だからといって、非公共的内的体験なら全て神秘的という訳ではない、というのがキルケゴールの主張の大切な点だった筈なのですが、近代病なのか、市井人のみならず高名な思想家や文学者、果ては神学者迄、取り違える人散見し―自分はかなりショックを受けたものですが―、遠藤もその一人なのだと思います。

    • > オネットム (@sagtmod)様
      初めまして。コメントありがとうございます。
      『死に至る病』は私がキルケゴールの著作で読んだ数少ないものですが、大変おもしろいと思う一方、冒頭の難解さにやられて読むのを辞める人が多いと思うので、その対策に書いたものでした。

      > カトリが遠藤を批判する理由にはならないんじゃないかな
      おっしゃる通り、神秘体験や内的体験自体はどんな宗教家にも起こりうるものですし、それ自体は否定できないものだと思います。
      カトリックだとアウグスティヌスやトマス・アクィナス、プロテスタントだとルターなども何らかの体験を経て「回心」をしています。

      そうした体験による変化自体はよいと思いますが、それを元にカトリックの教えに反する(特にロドリゴのような棄教)をしてしまうと、これは非常にまずいなあと思います。
      ロドリゴが、形式的には棄教していても実は神の教えに適っているということを、明証可能な形で示していればよかったのですが。

      > 非公共的内的体験なら全て神秘的という訳ではない
      おっしゃる通りですね。明証不可能な体験とは、その人にとって衝撃的すぎて筆舌に尽くしがたい体験を指すと思われますが、それが「神秘」や「神の啓示」とは限りませんからね。
      立花隆は、無人島で生活した自分の経験は衝撃的すぎて文章にできないといっていましたが、だからといって立花の体験は神秘体験ではないでしょうし。

  2. 自分も難解な冒頭部は流し読みのクチで、有難く参考にさせて頂きます。あと有名なのが同様難解な『不安の概念』で、本人が重視してた本名の講話群が余り読まれぬのはファンとして些か悲しいのですが、それはそれ…

    記事を跨いでしまいますが、佐藤も遠藤も、
    ・参照する知識(教義教理神学・学術用語)理解の誤謬
    ・論理的な筋の通らなさ
    があっても、キリスト教ベースの言論人としての妙な説得力やカリスマ性は、
    ・人間の限界や条件を批判的に洞察する或る種の思想的一貫性
    ・その思想はキリスト教でないが洞察の或る点はキリスト教と重なる
    せいもあり、
    ・彼らが何者なのかの実定的な正体突き止め
    も加えねば、完全に化けの皮を剥がしきりトドメを刺すに至らぬと危惧してますので、
    この観点でも、実力ある人の成功に期待したいです。他人任せではありますが…。

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