「人生の意味」の意味

2013年12月13日追記: 中島義道については、いくつか記事を書いています。ご興味のある方は、タグ「中島義道」からどうぞ。

最近、中島義道氏の著作を読んでいます。

中島氏の著作は昔から読んでいましたが、哲学を再開した最近になって、読み返しています。

その中島氏の『働くことがイヤな人のための本』(新潮文庫)という本の中で、こんな文章がありました。

彼(女)は、死ぬさいに「俺(私)はこれをなしとげた」と自他に語って満足することはない。彼(女)は何もなしとげなかった。だから、自分の人生を世間的な仕事と重ね合わすことなく、剥き出しのまま受けとめることができるのだ。

世間的な仕事において何もなしとげなかったからこそ、死ぬ間ぎわに「俺(私)の人生は何だったのか」と真剣に問いつづけることができるのだ。

(中島義道『働くことがイヤな人のための本』)、太字は引用者

この文章を読んで、2013年9月11日に自分が書いた「君たちは何を残すか」を思い出したのです。

自分の過ごした時間、人生を意味づけるためには、「生きる」ことだけでなく、目に見える形で何かを「残す」ことが必要となるからです。

もう少し具体的にいうと、「私はこの時間にこれだけのことをやった」「私は人生でこれを残した」という、目に見える形での分かりやすい成果を残せることが、意味づけのために必要なのです。

君たちは何を残すか(2013年9月11日))

中島氏が提唱するのは、こうした「意味づけ」を一切行わない生き方・死に方でしょう。一切の「意味」を剥ぎ取られた人間は、「死ぬ間ぎわに『俺(私)の人生は何だったのか』と真剣に問いつづける」からです。

こう書けば中島氏の意図がそれなりに分かるのですが、実をいうと、中島氏の叙述があまりピンと来ていません。

中島氏の主張は、「俺(私)はこれをなしとげた」という「世間的な仕事」によって人生を意味づけるのではなく、自分が生きて死んでゆくという事実によって人生を意味づけよということなのでしょう。しかし、「自分が生きて死んでゆくという事実によって人生を意味づけ」ることがどういうことなのか、今の私には分からない。

私見では、意味づけとは「世間的な仕事」とか趣味とか人間関係といった(自分にとって)外部的なものによって行われるもので、生きて死んでゆくという事実はただの事実に過ぎません。そこには何の「意味」も「価値」もなく、ただ「事実」が横たわるだけなのです。

中島氏にすれば、「人生が何の意味も価値もないとはどういうことか考えよ」ということなのかもしれませんが、それこそ私にとってはよく分からない。そうすると、「『人生が何の意味も価値もない』ということについて考えることに意味や価値はないのではないか」と無限遡求に陥ってしまいます。

私にとっては、中島氏の主張よりも、(『働くことがイヤな人のための本』で紹介された)中島氏の父や(9月11日の記事で紹介した)沢木耕太郎『無名』の沢木氏の父の生き方のほうがよく分かります。

彼らは人生の意味づけを一切行わないまま生きて死んでいったのですが(沢木父は、最後に沢木氏によって「句集」という意味づけが行われましたが)、そのことについて特に拘泥していなかったように思える。中島氏が人生の意味を問い続けるのに対し、中島父や沢木父はそのことに無関心であり続けたのでしょう。そこに哲学的センスの有無があるのかもしれませんが。

中島氏の主張に対して私はいくつも疑問があるのですが、中島氏の著作をいくら読んでも、この疑問は氷解しそうにありません。ですので、この疑問はもうしばらく大切にとっておこうと思います。

広告

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Google+ フォト

Google+ アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

%s と連携中