無断リンクと非公式リツイートについて思うこと

昨日、俺がツイッターのルールだという思い上がりに渇を!株式会社GATIOです。というTogetterのまとめを読んで、昔を思い出しました。

簡単に説明すると、

  • 非公式リツイートはTwitterの機能なのだから問題ない
  • Twitterの機能であろうが、他人の嫌がることはやめるべき

という意見の対立です。この事案に限らず、Twitterではよく見られる対立でしょう。

もっといえば、この対立は、10年前の「無断リンク」議論と同じ構造をしています。

「無断リンク」議論とは、

  • 無断リンクはWWWの特性なのだから問題ない
  • WWWの特性であろうが、他人の嫌がることはやめるべき

という意見の対立でした。Twitterとよく似ていますね。

似たような問題で、「トップページ以外へのリンク」議論もありました。これは、「無断リンク」が「トップページ以外にリンクを貼ること」に変わっただけです。

この手の議論は10年前から何度も起きていましたし、私も色々と考えていましたが、これを機に、私の考えを書いてみます。

「嫌がる」「傷つく」は理由にならない

まず、(無断リンクや非公式リツイート問題に限らず)議論をする上で重要な点を書きます。「他人の嫌がることはやめるべき」という意見は、相手に対しても有効であるということです。

これについて、私はこんなツイートをしたことがあります。

つまり、「非公式リツイートされて嫌な人の気持ちを考えろ」という意見に対しては、「非公式リツイートを拒否されて嫌な人の気持ちを考えろ」という意見が成り立つ。無断リンクについても同様です(事実、そういう反論を10年前によく見ました)。

注意したいのは、「だから非公式リツイートさせろ」というわけではないこと。「人の気分」や「好き嫌い」を根拠にした意見は、相手に対しても同じ意見が成立するため、説得力を持たないということです。

「人の気分」や「好き嫌い」ではなく、「○○という理由で問題があるから非公式リツイートをやめろ」「○○な点で不愉快だから無断リンクするな」という理論的な意見を展開する必要があるのです。

不適切なメタファーは議論を混乱させる

もう一つ重要な点があります。不適切なメタファーを使うことは、かえって議論を混乱させるということです。

非公式リツイート・無断リンクに賛成する人の意見に「Twitterの機能だから無問題」「WWWの特性だから無問題」というのがあります。

これに対して、無断リンク反対派がこういう反論をすることがあります。

例えば、あなたが住んでいる家に無断で入ってくる人がいたら嫌ではないか? 無断リンクはこれと同じである。よって無断リンクをやめるべき。

Twitterについては分かりませんが、たぶん似たような意見があるのではないでしょうか。

これは一見納得できる意見ですが、重大な問題があります。サイトと家とは大きく異なるものであるのに、サイト=家というメタファーを前提に議論を進めていることです。

このメタファーがおかしいのは、少し考えれば分かります。

公開範囲 目的 アクセス手段
サイト 全世界に公開されている 訪問者に見てもらうため 不特定多数のサイト・検索エンジンからアクセスできる
住居人と訪問客にのみ公開されている 住居人が住居するため 入り口・裏口などからしか入れない

これほど性格の異なるものを勝手に結びつけて、「だから無断リンクは禁止」というのは無理がありすぎます。

そして、これは極論ではなく、10年前の無断リンク反対派がよく唱えていた反論なのです。

根拠がなければ納得しない

私見を述べると、私は無断リンク・非公式リツイートともに賛成の立場です。

ただ、無断リンク・非公式リツイートは何でもO.K.、された側は黙って見ていろ、というわけではありません。無断リンクや非公式リツイートによって実害を被ったのであれば、それに対し非難することは重要だと思います。例えば、非公式リツイートで恣意的な引用をされて自分の意見が歪曲されたとか。

重要なのは、意見を述べるときに、「気分」や「気持ち」といった感性的なものを根拠にしないことです。理論的な根拠がなければ、自分とは感性の違う人は納得してくれないのですから。

〔追記〕「気持ち」を元に意見を述べることの弊害について、1月22日の記事で書きました。

「儀礼的無関心」について

2003年頃の話ですが、ライターの松谷創一郎が「儀礼的無関心」なる概念を唱えたことがあります。ネットでの儀礼的無関心の可能性という彼が書いた記事から引用します。

たとえば、ひっそりとネットで日記を書いている人がいる。Aさんとしよう。とくにリンクも張られずに、目立つことなく、だけど、Aさんの日記をひそかに楽しんでいる人もわずかだがいたとする。

 ある日、Aさんはあることについての日記を書いた。それを見たある人がAさんの日記にリンクを張った。さらにそれを見つけた人気サイトのBさんが、Aさんのところにリンクを張った。結果、ひっそりと日記を書いていたAさんのサイトへのアクセスが殺到した。

 Aさんは、目立ってしまう自分のテキストについて驚き、そして当該のテキストを削除してしまった。結果、そのテキストを誰も見ることができなくなり、その後日記そのものをやめてしまった。

 さて、そこでは誰が幸せになったのだろうか──。

 繰り返すが、このAさんに具体的なモデルはいない。ただし、多くの人がこのような一連の経過を見てきたことがあるはずだ。

 そういうのを見るたびに僕が思うのは、ネットにおいて儀礼的無関心は可能なのだろうか、必要なんじゃないか、ということだ。(中略)

要は、不用意にリンクを張ったせいでリンクしたほうもされたほうも不幸になるケースがあるのだから、リンクしたくてもあえてしない、「儀礼的無関心」を貫く必要があるのではないかという指摘です。

これについては儀礼的無関心論争を改めてまとめるというよくできたまとめページがあるのですが、読むには分量が多すぎるので、私なりに簡単に批判しておきます。

この松谷氏の議論のおかしなところは、「AさんがBさんからリンクを張られたために、AさんもBさんも幸福になった」事例を考慮していないところです。リンクを張ってもらったおかげでアクセスが増えて喜ぶ「Aさん」もいるはずなのですが、一部の「不幸」になったケースだけを例に挙げて、「儀礼的無関心」を貫くべきだといっています。もし「儀礼的無関心」のせいで「幸福」になる人が減った場合、松谷氏は「そこでは誰が幸せになったのだろうか」と問い、「儀礼的無関心は可能なのだろうか、不要なんじゃないか」と考えるのでしょうか。

リンクを張られて「Aさん」が喜ぶかどうかは、実際にリンクを張った後でないと分からないわけです。それで「不幸」になる人がいるかもしれないのだから、リンクを張るのに慎重でなくてはならないというなら分からなくもない。しかし、それをもってリンクを張るなというのはおかしな話です。

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