赤木しげると死(2)-「反英雄」論その六

前回の続きで、赤木しげるの死生観について考えます。前回は「死ぬ本人」と「死なれる他者」の絶対的隔たりについてまで書いたのでした。

※「反英雄」論は全七回です。全記事一覧をご覧になりたい方は、カテゴリ「英雄」「反英雄」論か、タグ「赤木しげる」をご覧ください。

死の受容

さて、いくら赤木が「自分は他人に関わらず死ぬ」と決めていたとしても、自分の死を簡単に受け入れられるかどうかは別の話です。これは前回取り上げた須原一秀『自死という生き方』でも触れられていたことですが、自分の死を観念的に理解することと、体感として受容できることは別の話だからです。

これについては、赤木といえど、自分の死を完全に受容できていたわけではありません。それは、原田との会話から明らかです。

「1」どころか…「3」はあるだろうよ…!
3%は生きたい………未練がねえわけじゃねえさ…!

また、天との会話でも、生に未練があることを漏らしています。

もちろん この病気になったことは ツキがない 最悪だ…
最悪だが…
それでも何とか 俺は俺として死んでいけることとなった………!
充分さ…! もう充分…

ああ…無念…
無念だ…!
くたばるのは無念…

福本伸行『天』第151話「死の味」

福本伸行『天』第151話「死の味」

福本伸行『天』第162話「無念」

福本伸行『天』第162話「無念」

アルツハイマー病になったことを「最悪」だといっているように、赤木とて人生を順風満帆に送ってきたわけではありません。そこから出てきたのが「無念」という言葉なのでしょう。

ただ、未練があるといっても3%の話で、赤木はほぼ死を受け入れていたといってよいでしょう。では、なぜ彼は受け入れることができたのか?

私はこれについて二つの考えを持っていますが、今回は一つ目について書きましょう。

〔追記〕2014年3月27日に、なぜ赤木しげるはアルツハイマー病になったのかという記事を書きました。興味のある方はご覧ください。

「極み」「最高の時」

私が特に注目したいのは、赤木の「もう充分」という台詞です。この台詞には、「自分の人生には納得できない部分もあったが、概ね満足している。これでもう死んでも構わない」というニュアンスがあります。

福本伸行『天』第160話「生涯」

福本伸行『天』第160話「生涯」

こうした心情について、須原氏の著作では「『極み』の理論」という名前で説明されています。

(中略)何か非常に良いことがあった時に、誰しもふともらしてしまう言葉がある。それはたとえば「生まれてきて良かった!」とか、「もう死んでもよい!」などであるが、この種のよく聞くセリフは、正に「人生の極み」に達している状態を象徴的に表現しているものだと思う。
(須原一秀『「自死」という生き方』)

六つ、七つかそれ以上の「極み」に関して、足るを知る心構えで持続的に極限に達していれば、本人はその人生に納得できるのではないだろうか。
(同書)

簡単に説明すると、「極み」とは、「生まれてきて良かった!」「もう死んでもよい!」と思えるような人生の一時のことです。

こう書くと、大会で優勝したとか金メダルをとったとか、そういう大きなものを連想されるかもしれませんが、そんなものである必要はありません。例えば、須原氏は「極み」の一例として、家族と一緒に過ごしているときにふと「私の人生は幸せだなあ」と思うことを挙げていますが、こういう日常も「極み」です。

そして、須原氏はこうした「極み」をいくつも体験してきた人間は、「人生に納得できるのではないだろうか」と述べているのです。

この理論は、『天』の天貴史の台詞とあわせて考えると、結構納得できるものがあります。

生涯に一度でいいから 最高の「時」を迎えたいんだよ
(中略)
俺らにはもう あまり見当たらねえんだ
他に人が生きる理由なんて…
(中略)
ほどほどの充実じゃ足らねえのさ ともかく最高を感じたいんだ
一瞬でいい……!
最高の時……!

福本伸行『天』第104話「最高の時」

福本伸行『天』第104話「最高の時」

須原は日常の「極み」をいくつか、天は非日常の「最高の時」を一度だけという違いはありますが、内容はほぼ同じです。人生において「生まれてきて良かった!」「もう死んでもよい!」という時を味わった者は、それを「生きる理由」として納得できるのです。

これは原田や自分(天)について述べたときの台詞ですが、そのまま赤木にも当てはまるでしょう。赤木は若い頃からギャンブル三昧ですし、常に極限の勝負を繰り返した人ですから、「生涯に一度」どころか、何度もそうした「時」を味わってきたでしょう。

そうした「時」の経験から、前述の「充分」という境地に繋がったのではないでしょうか。

明日はいよいよ赤木しげるの命日です。明日は、死を受け入れたもう一つの理由について書き、赤木しげる論の締めくくりとしましょう。

広告

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Google+ フォト

Google+ アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

%s と連携中