赤木しげると死(1)-「反英雄」論その五

さて、赤木しげるの「反英雄」論の終わりに近づいてきました。

  1. 勝負における美学と自己本位
  2. 他者に対する責任感の欠如
  3. 死についての自己中心主義

3番目の「死についての自己中心主義」です。

赤木しげるの死生観が最もよく現れているのは『天』の「通夜編」ですので、これを元に考えます。

通夜編には多くの人が登場しますが、赤木の死を明確に引き止めているのは、僧我三威・原田克美・天貴史の三人です(健と鷲尾については会話が描写されていないので不明)。

井川ひろゆきの話は死とほとんど関係がありませんし、原田の「成功」の話と重なる部分が多いので、今回は省略します。

浅井銀次は、死を引き止めているわけではないのですが、赤木の死生観を考える上で興味深い会話なので、後に取り上げます。

※「反英雄」論は全七回です。全記事一覧をご覧になりたい方は、カテゴリ「英雄」「反英雄」論か、タグ「赤木しげる」をご覧ください。

自己本位の死に方

さて、まずは僧我・原田・天の三人の会話を整理してみます。

人物 説得内容 赤木の主張
僧我三威
  • 勝負以外にも人生の楽しみはある
  • 勝負が人生のすべて
  • 偏っていることが誇り
原田克美
  • 1%でも生きる気があるなら生きればよい
  • 成功を積むのは悪いことなのか
  • 生きる気を0%にはできない
  • 成功を積み続けると自分らしく生きられなくなる
天貴史
  • 最後まで生きてこそ赤木しげるの人生が完結する
  • 赤木しげるの存在は残る
  • 赤木しげるに家族を味わわせてやりたい
  • 自分(天)のために生きてほしい
  • 他人に関係なく死にたい
  • 自分のいない存在に意味はない
  • 好きで孤独に生きてきた
  • 自分(赤木)は自分だから死ぬ
まず、僧我との会話での「勝負」「偏り」ですが、若い頃から自分の美学、もっといえば勝負(ギャンブル)に命をかけて生きてきた赤木しげるにとって、勝負以外の人生など意味がないでしょうし、今更別の生き方をできるものでもありません。

次に原田の「成功を積むこと」ですが、これは原田によれば、「いわゆる貧困や貧窮 あるいは………苦渋…人から軽んじられたりするみじめさから」「守られ」ることです。他人のことなど関係なし、自分に忠実に生きる赤木は、こうした「成功」には無関心でしょうし、「成功」の危うさをも見えていたのでしょう。

天は色々と説得内容を変えていますが、赤木の主張は一貫して、「自分は自分らしく死ぬ」という美学を唱えています。「存在は残る」とか「家族の楽しみ」とか、それは結局他者からの見方に過ぎず、赤木が赤木らしく生きることとは無関係だからです。

こうして見ると、赤木の主張は、1番・2番で述べた「自己本位の美学」「責任の欠如」から来ているのだと分かります。誰に責任を負うでもなく、自分だけに責任をとる生き方を続けてきた赤木は、アルツハイマー病になり、自分の生き方に責任をとれなくなる前に、自ら死ぬことを選んだ──実に一貫した生き方です。

〔追記〕2014年3月27日に、なぜ赤木しげるはアルツハイマー病になったのかという記事を書きました。興味のある方はご覧ください。

赤木しげると須原一秀

ここで、少し視点を変えて、ある著作を取り上げることにします。須原一秀氏の『自死という生き方』(双葉新書)です。書名の通り、「自死」をもって人生を終えることを提唱した本で、著者の須原氏は本の内容に従い、2006年に実際に自死を遂げています。

なぜこの本を取り上げるかというと、この本の内容と評価が、赤木しげるの死を考える上で参考になるからです注1

まず本の内容です。実際に読んでいただくのが一番よいのですが、簡単に要約すれば、「自死は不幸ではない」「人は自死によって死を受け入れることができる」といったことを述べた本です注2

自殺というと不幸なイメージがつきまといますが、むしろ「老衰」「自然死」と呼ばれる死のほうが不幸・悲惨なものが多く、自殺は必ずしも不幸な死ではないのだと須原氏は主張しています。これは、『天』通夜編の「死ぬ事は特別じゃない」という銀次の台詞と重なりますね。

須原氏は(赤木のように)アルツハイマーであったわけではなく、意識が混濁していたわけでもなく、冷静に「自死」を遂げました。この本にある「雑感と日常」という章は、「自死」を決意した須原氏が、淡々と日常を過ごす様子を描いたもので、「通夜編」の赤木の平静ぶりを思わせます。

次に、この本の解説です。浅羽通明氏が解説を書かれているのですが、彼は須原氏の著作と行動に一定の評価を下した上で、こうも述べています(なお、以下の太字協調はすべて引用者によるもの)。

須原一秀氏の「自死」論を読んで私が感じたのは、「自死」する者、例えば須原氏を取り巻く他者からの視点が、欠けてはいないかという想いでした。
(中略)
しかし、今日まで日常を共におくってきた家族、親友、同僚などにふいに逝かれてしまう「残された近親」の思いはどうなるのでしょうか。
(『自死という生き方』「解説 この死者を見よ」)

この指摘は、まさに天の最後の説得と重なるものです。

俺だっ…! 俺が死なせたくねえんだっ……!
俺っ…! 俺っ…!
俺のために…生きてくれって言ってるんだ………!
(『天』天貴史)

福本伸行『天』第161話「家族」

福本伸行『天』第161話「家族」

赤木も須原氏、自分の中では自殺することを受け入れている。しかし、他者はそうではない。もし自殺されてしまったら、残された他者はどうなるのか?──天や浅羽氏が述べているのは、そうした「他者の視点」です。

そして、Amazonのレビューを読んでみても、評価が低いレビューのほとんどが、「他者の視点が欠けている」という指摘なのです。

(中略)
「命」というものは果たして「私」の「所有物」なのだろうか(宗教的観点からではなく、素朴に考えて)。自らの理性をもって自死を選択する、そして出版によってそれを称揚するということは、著者と同様に「命」や「老い」、それに伴う「障害」をもつ他者のそれをも否定したことになると私には感じられた。(中略)
estei氏「自死論と現実の死に方との間に横たわる深淵」、★2)

(中略)この世界には、目も見えず、耳も聞こえないのになお「自分の人生」を生きている人だっているのだ。(中略)
Hide氏「生き方でも哲学でもない。」、★1)

詳しくは★1のレビューなどをご覧いただきたいのですが、ほとんどが他者からの視点を述べた意見です。

ここには、「死ぬ本人」と「死なれる他者」という絶対的な隔たりがあります。死ぬ本人にとっては、死は自分一人の問題です。しかし、死なれる他者にとっては、「死なれたことによる様々な感情」を味わう点で自分の問題であり、知人が死ぬという他者の問題でもあるのです。

『天』では、天とその他の人間は、最後まで赤木の死に納得できませんでした。『自死という生き方』を読んでも、周囲の人間が100%須原氏の死に納得できたとは読み取れません。どれだけ本人が死を受け入れているとしても、周囲の人間にとっては何らかのしこりを残すことは確かです。

しかし、赤木はそんなことを気にしないでしょうね。何しろ、徹頭徹尾自分のために生き、死んでいった人ですから注3

俺には…関係ない…!
俺は他人に関係なく ただ一人で死んでゆくだけだ…!

でも…俺は俺だから…

福本伸行『天』第159話「死の際」

福本伸行『天』第159話「死の際」

福本伸行『天』第161話「家族」

福本伸行『天』第161話「家族」

注釈

  1. なお、須原氏の著作と赤木しげるを絡めて論じた文章を探したのですが、私が見つけた限り、一つしかありませんでした。巣倉哲徒の自死に関する雑録というブログです。 本文に戻る
  2. この本に関する私見を述べると、ソクラテスの死を矮小化していたり、「武士道」を日本の誇りと持ち上げたりと、かなり納得できない部分があり、須原氏は「自死」の正当化に成功したとはいえないと思います。ただ、赤木のようなフィクションの人間でなく、現実の人間がこうした著作を遺し、そして実際に死を遂げたという意味では画期的であり、とても価値のある著作だと思います。 本文に戻る
  3. 私は、この点では須原氏は赤木に比べて中途半端であったのではないか、と思っています。もし「自死」を遂げる生き方をしたいなら、家族を作ることもせず、赤木のように一人で生きるべきであったのではないかと。須原氏はそういう「一人の人生」を提唱しているわけではなく、「普通の人が普通に自死できる世の中」を夢見ていたのでしょうが……。 本文に戻る
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