赤木しげると他者-「反英雄」論その四

「反英雄」論の続きです。

  1. 勝負における美学と自己本位
  2. 他者に対する責任感の欠如
  3. 死についての自己中心主義

2番目「他者に対する責任感の欠如」について書きます。

※「反英雄」論は全七回です。全記事一覧をご覧になりたい方は、カテゴリ「英雄」「反英雄」論か、タグ「赤木しげる」をご覧ください。

他者への責任と罪悪

9月17日の渡邊美樹氏の記事で、こんなことを書いたのを覚えておられるでしょうか。

身近な人の死や、身近な人の遺志を継ぐこと。これはフィクション上の「英雄」に限らず、企業の創始者などによく見られるパターンですが、渡邊氏も見事にこのパターンを踏襲しています。
(「渡邊美樹はなぜ「英雄」なのか-「英雄」論その四」)

「身近な人の死」「身近な人の遺志」は、人を「英雄」たらしめる要因の一つです。もう少し敷衍すれば、「自分の人生が他者の犠牲によって成り立っているという責任感」「自分の行いによって他者が犠牲になったという罪悪感」と表現できます。

これは、8月29日“にも紹介した『ベルセルク』のグリフィスの台詞が分かりやすいでしょう。

もしあいつらのために……死者達のために……オレに何かしてやれることがあるとしたら
それは勝つこと あいつらが…命を懸けてまでしがみついたオレの夢を為し遂げるために勝ち続けることだ

グリフィスの「夢」は、他者の犠牲によって成り立っています。その犠牲に対して、彼は責任と罪悪感を背負っているのです。

『ベルセルク』の「黄金時代篇」後半にて、「そうだな… こんな安らぎも 悪くは…」と夢見る場面がありますが、ベヘリットによって彼は現実に引き戻されてしまいます。責任と罪悪を一度背負った人間が、犠牲を忘れて「安らぎ」に浸るなど許されないからです。

『あしたのジョー』の矢吹丈の台詞も、こうした責任と罪悪感を元にしたものです。

〔追記〕矢吹丈と赤木しげるの比較論を2014年3月13日に書きました。

だが…あいての流した血にたいして―とまってしまった心臓にたいして
ある負い目がのこるのもたしかだ
こいつはおれだけの感じかたかもしれないがな
まあ…へんなたとえかもしれないが…
人を殺したやつは死刑になるって掟が 世間にあるように
まがりなりにも拳闘の世界で血を流しっこして生きてきたからには…
いまさらちゅうとはんぱなかたちでつかれただの
拳闘をやめたいだのってぜいたくはいえねえような気がするんだよ

貞本義行が描いた漫画版『新世紀エヴァンゲリオン』の「俺たちは二人とも幸せになってはいけない運命なんだよ」という加持リョウジの台詞も、自分の生が他者の犠牲から成り立っていることへの罪悪感から来るものです。こうした構造は数多くの作品に見つけることができます。

福本漫画における他者と責任

こうした「責任と罪悪」という観点から、福本伸行漫画のキャラクターを見てみましょう。

例えば、『銀と金』の最後の場面です。「銀王」として君臨し続けてきたフィクサー・平井銀二は、相棒・森田鉄雄の引退により意気消沈し、一時は引退も考えます。

しかし、彼は「なにものかの意志」を感じ、続行を決意した後、独白します。

オレはこれまで幾千という人間を 地獄へ突き落としてきた男…
今さら勝ち逃げなどできぬ…
それだけはしちゃいけない……

また、『カイジ』シリーズの主人公・伊藤カイジも、石田さんの死に際し、「ただ死ぬのではない」「石田さんのように強く死ぬ」と決意しました(『カイジ 賭博黙示録』) 注1

『無頼伝 涯』の主人公・工藤涯が、平田龍鳳を倒すために叫ぶ場面も印象的です。彼は最初「孤立」を望んでいた少年でしたが、最終的には自らの生命を犠牲に「人間学園」を倒そうとします。

事 ここに至ったら…平田を倒す事が優先する…!
それが…今…ここにいるオレたちみんなの責任 義務だ…!
あの男を許しちゃいけない……!
許せば続く…オレたちの様な境遇の者がまだまだ…

赤木しげるは責任と罪悪を見るか

さて、こうした責任と罪悪を赤木しげるは背負っているでしょうか。

赤木が過去の敵について回想する自体とても少ないのですが、『天』で一回、『アカギ』で二回だけ回想しています。

『天』では、「通夜編」の原田との会話にて、浦部と鷲巣巌を回想する場面です。この場面は、赤木自身の戦い方について浦部と鷲巣が引きあいに出されているだけで、彼らへの責任感や罪悪感は読み取れません。

『アカギ』はまだ完結していない作品なので、今後新たに回想場面が出てくる可能性はあるのですが、現時点では二回あります。

まず、丁半博打で赤木が負傷した後、入院中に平山幸雄(ニセアカギ)の記事を見せられ、彼を思い出す場面が一つ。ここで「この怪物の暴走を止められるのは おまえだけ……!」と安岡が説得していますが、赤木が鷲巣麻雀を承諾したのはそんな理由からではなく、鷲巣に「同類」の匂いを嗅いだためです。

もう一つの場面は、鷲巣麻雀の南二局の採決後、赤木があの世(?)と思しきところに行き、そこで平山幸雄と再会する場面。

ってことはお迎えか…!
亡霊ども……
どうみても退屈そうだな…
おまえらの仲間入りは……!
(『アカギ』赤木しげる)

この場面でも、彼らへの責任感や罪悪感はなし。まあ、平山については赤木が殺したわけではありませんし、彼を貶めたのは赤木ではなく浦部なので、責任感を感じないのが当然ですが……。

こうして見ると、赤木しげるという人は、他者への責任感から戦ったことなどないのだと分かります。銀二のように、かつて自分が倒した敵への罪悪感を感じることもなく、カイジや工藤涯のように、犠牲になった仲間への責任感から敵を倒すこともない。徹底的に自己中心的な人だといえます注2

〔追記〕赤木の自己中心性を象徴するのが、『天』第88話「訣別」「俺はいつ死んだって構わない」「いつでも死ねる」という台詞です。一般に、人間が「死にたくない」と思うのは、死そのものに対する恐怖が存在するか、死んだ後のことを考えてしまうからです(「俺が今死んだら妻子はどうなる」というように)。赤木には死への恐怖心が存在しませんし、死んだ後の他者のことなど関心がないのですから、「いつでも死ねる」といえるのです。

ただ、『アカギ』の「鷲巣麻雀編」を通じて、赤木は大きな変化を遂げました。「鷲巣麻雀」の後、赤木が鷲巣たちへの責任感や罪悪感から戦うようになるという展開はありうるかもしれません。ただ、その「鷲巣麻雀」が遅々として進まないので、いつ完結するのかは誰にも分かりません。

ギャンブル的生き方

なぜ赤木はかくも自己中心的なのか。それは、彼の思想に関係があると考えられます。

浦部戦の後、赤木はこんなことを述べています。

ただ勝った負けたをして
その結果無意味に人が死んだり不具になったりする…
そっちの方が望ましい
その方が……バクチの本質であるところの……
理不尽な死──その淵に近づける……!
(『アカギ』赤木しげる)

平山との勝負のときも、「無意味な死」こそがギャンブルだと述べています。市川戦でも「不合理」だとギャンブルだといっているので、こうした考え方は13歳の頃から赤木に根づいているものと思われます。

ここからは私の想像ですが、赤木には、「ギャンブルに関わる人間は、理不尽な死をする覚悟を持つべき。たとえ誰かが理不尽な死を遂げたとしても、それについて自分は責任を負わない」という考えがあります。これは、前回触れた「自己責任」に通底する考え方で、人は自分の美学に対してだけ責任をとるべきで、他者の死や犠牲に対して責任などとれないし、とる必要もない、という考えがあるのでしょう。

自分に対しての責任だけを追求し、他者への責任を一切拒否する赤木しげるの姿は、「英雄」とは真逆に位置する「反英雄」の象徴といえるでしょう。

注釈

  1. 余談ですが、『賭博堕天録』冒頭でカイジは屑同然の生活を送っています。他人への責任感を持ちながら、自堕落な生活をしてしまう矛盾がおもしろいですね。 本文に戻る
  2. ずいぶん悪い書き方をしているように見えるかもしれませんが、私は「自己中心主義」を悪いとは考えていません。9月16日の記事で、渡邊美樹氏の思想には反対だと述べましたが、それは、私が赤木しげるのような「反英雄」的生き方に賛成だからです。 本文に戻る

赤木しげると他者-「反英雄」論その四」への1件のフィードバック

  1. 頭悪すぎ
    全く的外れ、福本の漫画を理解してないし赤木しげるの設定も知らずに分析して押しつけがましい
    罪悪感?一番自己中で自分好きな鷲巣みたいな殺人狂の分析した方がまだましと思いますよ
    やくざの代打ちや殺人犯の味方なんですか。助けられた人もいるし普段は優しいんですがね

阪巻 への返信 コメントをキャンセル