君たちは何を残すか

昨日、こんなツイートをしました。


これを元に、少し考えてみましょう。

生きる目的

人が生きる目的は色々あります。

家庭を守るため、仕事をするために生きるのも、趣味に励むために生きるのもあるでしょう。

あるいは、「英雄」のように、世界を救うために生きることもあるかもしれません。

理由を大まかに分類してみると、以下の4つになるでしょうか。

  • 人間(自己・伴侶・子供・友人etc.)
  • 地位(収入・職業・名誉etc.)
  • 作品(絵・音楽・小説・映画・プログラムetc.)
  • 社会(企業・共同体・制度etc.)

生きた証

しかし、「生きる」だけで人は満足できるでしょうか。

  • 「あのアニメを見終わっても何も残らなかった」
  • 「課金ゲームは後に何も残らない」
  • 「歴史に名を残したい」

人が人を見捨てたら、何も残らない。(竹本優希)
(真鍋昌平『闇金ウシジマ君 20巻』)

俺からすればその「飾り」が俺の証っていうか…やっぱり「誇り」でよ………! 失いたくねぇんだ…営々とせっかく築いたことでもあるしな…(原田克美)
(福本伸行『天』)

「生きる」だけでなく、何かを「残す」ことに対して、人はとても熱心です。

しかし、なぜ何かを残したがるのでしょうか?

生きた証

ここで、インターネット上で見つけたあるページをご紹介致します。「人は世に何を残すか」というエッセイです。

もともと「生きた証を残したい」というのは、「他人にいつまでも良く思われたい」という虚栄心から出てきています。ですがよく考えてみましょう。「他人にどう思われるか」というのは、実は私たちの幸せとはまったく関係ありません。「生きた証が残る」からといって幸せになれるわけではありません。

私の意見は、基本的にはこの人と同じです。
人が何かを残したがるのは、基本的には「何かが後世に残り、人々から評価されたい」という虚栄心によるものです。

ただ、私は「基本的に」と書きました。
それは、「生きた証を残したい」理由には、「虚栄心」以外にもう一つあると考えるからです。

それは、自分の人生の意味を目に見える形で確認したいという理由です。

意味の可視化

これについては、前述した「課金ゲームは後に何も残らない」という意見を考えてみると分かりやすくなります。

課金ゲームはデータですから、データが消滅したり、ゲームのサービスが終了すれば、すべてが消えてしまいます。
そういう意味では、確かに何も残らないでしょう。

しかし、データが消えても、そのゲームで楽しんだ思い出、学んだことや知ったことは残るはずなのです。

にも関わらず、「課金ゲームは後に何も残らない」と考えるのはなぜなのか?

──私の考えでは、こういう理由です。

自分の過ごした時間、人生を意味づけるためには、「生きる」ことだけでなく、目に見える形で何かを「残す」ことが必要となるからです。

もう少し具体的にいうと、「私はこの時間にこれだけのことをやった」「私は人生でこれを残した」という、目に見える形での分かりやすい成果を残せることが、意味づけのために必要なのです。なぜか?

思い出や学んだ知識は、自分の頭の中にあることです。目に見えるものではありません。

思い出や知識を文章化したり、絵に描いたり、あるいはそれを使って共同体を企業を作ったり……。

どんなもの、形であれ、人は自分の頭の中にあることを目に見える形でアウトプットしようとします。

それによって、
「自分はこれだけのことをアウトプットできた。自分の人生はこのために費やされた。自分の人生はむだではなかったのだ」
という意味づけが可能になるのではないか?──というのが私見です。

無名の人生

これについて、一つ分かりやすい例をご紹介しましょう。沢木耕太郎『無名』(幻冬舎文庫)というノンフィクションです。

「少し、長く生きすぎてしまったのかもしれないな」
その言葉に私は胸を衝かれた。
(中略)
たとえわずかなものであっても、自分の人生を無に近いものと見なす気持ちがあるように感じられた。どうにかして父の一生が決して長すぎなどしなかったことを父自身に知らせる方法はないものだろうか。
確かに、父は何事も成さなかった。世俗的な成功とは無縁だったし、(中略)無名の人の無名の人生。だが、その無名性の中にどれほど確かなものがあったろう……。
(沢木耕太郎『無名』)

少し解説をしましょう。

沢木の父は病で入院しており、高齢ということもあって、いつ亡くなってもおかしくない状態にありました。

その中にあって、沢木の父がこぼした「少し、長く生きすぎてしまったのかもしれないな」という言葉に動揺し、「自分の人生を無に近いものと見なす気持ち」を感じ取り、父の人生が「無」ではなかったことを「父自身に知らせる方法はないものだろうか」と悩む場面です。

この後、沢木は父がかつて詠んだ俳句から句集を制作し、それを「父が自分の人生を確かめる」ための餞とすることを思いつきます。

ここで行われていることは何でしょうか。
「無名の人」であった沢木の父の人生を、「句集」という目に見えるものによって意味づけようとする行為です。
ただ、それを行っているのが父本人ではなく、息子の沢木という違いがありますが。

目に見える形で何かを残すこと。それは人生の意味づけであり、人生に意味があったことの証明なのです。

なぜ、そんなことをする必要があるのか?

ではもし、それがなかったら……?

「自分の人生は、もしかすると全くの無意味であったかもしれない」
そう思うことは、とても恐ろしいことだからです。

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